相変わらず、柳瀬は窓辺で座り込んで本を読んでいた。
俺が入ると顔をあげて、うっすらと笑う。
たった一日離れていただけなのに、なんだか酷く久しぶりな気がした。

「おかえり」

なぜか、胸が引き絞られるように軋む。
おかえり、って言葉が、とても新鮮に響いた。
誰かに迎えられたことなんて、ない。
帰ることが望まれる場所はなかった。
ただ、瑞樹の側が、唯一いることを許された場所。

「秀一」

静かに促され、まるで誰かに操られるように足が勝手に前に出る。
蛇のように感情のない目が、俺をじっと見ている。
俺を、待っている。
柳瀬の前に座り込むと、眼鏡を取り上げられた。
躾けられたままに、その薄い唇に服従を示す。
ぼやけた視界の中、至近距離で男が冷たく笑う。
男の手には分厚い洋書が置かれていた。
見た目と粗雑な態度に反して、この男は本の虫だ。
薄暗い部屋の中、よく読めるものだと思う。

「目、悪くするぞ」

男の手が、俺の腰をひき寄せる。
居心地の悪さと軽い屈辱を感じながら、その足の上に座り込む。

「そうだな。両方眼鏡だと、キスをする時に邪魔だ」

酷薄に柳瀬が笑う。
その言葉に、恥辱に体が熱くなる。

「おみやげは?」

俺が怒りだす前に、柳瀬は俺の手の中のものを目で促す。
怒鳴りつけようと思っていたが気勢をそがれて、軽くため息が出た。
仕方なくそれを差し出す。

「ほら、買ってきてやったぞ」
「なんだ、随分高級そうなチョコを買ってきたな」
「………」

チョコのブランドなんて分からないが、駅で売っていた限定とかいう一番おいしそうなものを選んだ。
それが目についただけで、別に特に意味はない。
柳瀬はせっかく渡したチョコを受け取ろうともせず、口を軽く開ける。

「なんだ?」
「食わせてくれ」

何を言ってるんだ、この男は。
このでかい図体と態度で、何を子供のようなことを言ってるんだ。

「早く」

呆れて何も言えずにいると、いつもの無表情のまま再度促す。
色々言いたかったが、柳瀬が諦める様子もないので仕方なく綺麗な包装を破いていく。
蓋を開けると、まるで宝石のようにかわいらしく飾りつけられた小さなチョコレートがちょこんと並べられていた。
そのうちの一つを取って、目の前の男の口に差し出す。

「ほら」

一口で、あっという間にチョコレートがなくなる。
結構いいチョコなんだから、もっと味わってほしい。
せっかく、うまそうなのを買ってきたのに。

「…………」

チョコを転がして味わっている男の口元を見つめる。
無表情だから、おいしいのかまずいのかも分からない。
つまらない奴だ。
もっと大事に食え、この無神経男。
俺の視線に気づいたのか、視線を合わせて口の端をあげる。

「うまいな」
「………そうか」
「もうひとつ」
「ガキか、お前は」

ため息をつくが、口を開けて待つ柳瀬に抵抗するのも馬鹿馬鹿しくなる。
本当に、ガキみたいな奴だ。
仕方なく、もうひとつとって男の口に放り込んだ。
差し出した指ごと舐められて、背筋に寒気が走った。
そのままチョコレートを食べる柳瀬を眺めていると、大きな手が俺の頬に軽く触れる。

「疲れた顔してるな。眠ってないのか?」
「な、んで」

気付いたのか。
確かに桜川の本家にいる間、よく眠れなかった。
あの重く暗い空間に押しつぶされそうだった。
夜中に何度も悪夢にうなされて飛び起きた。
ずっとあの家で暮らしていたはずなのに、堪え切れない違和感と恐怖に叫び出しそうだった。

「ペットの健康管理も、飼い主の仕事だ」

柳瀬は当然のようにそう言った。
本当に馬鹿にしている。
完全な犬扱い。
そもそも、俺の飼い主は瑞樹だ。
こいつに従っているのは、こいつに写真と言う弱みを握られているからだ。
それ以外ない。

「大丈夫か?」

それなのに、再度聞かれて顔を窺われて、俺は体の力を抜いた。
もう馴染んでしまった匂いのするシャツに顔を埋める。

「………疲れた」
「そうか」
「疲れた」

体を投げ出すと、柳瀬に更に腰をひき寄せられた。
きっと、こいつに対しては遠慮も何も感じないからだ。
別にこいつに何を思われようとどうでもいい。
もう、みっともないところも弱いところも全て見られている。
こいつに嫌われるなら、望むところだ。
何も隠す必要はない。
なら、今更だ。
だから、だ。
こんな、情けない姿をさらすのは。

「ほら」

体を一旦離され、チョコレートを差し出される。
いつものように、それを口に入れる。
チョコレートの甘さと爽やかなフルーツの味が広がって、ふわりと体の力が更に抜ける。

「………甘い」
「甘いものは疲れが取れる。すぐにカロリーに変わる」
「うん」

柳瀬がわずかについたココアパウダーをぬぐうように、俺の唇をなぞる。
その冷たい手に、体がの毛穴が広がった感じたした。
もうひとつチョコレートを口に入れられると、なんだか疲れがゆるゆるとほどけていく気がした。
もう一度、男の肩に顔を埋める。

「………父が」
「うん?」
「………いや、なんでもない」

何を、言おうとしているんだろう。
あの人の話なんてしたって、何にもならないはずだ。
あの人はいつも通りだった。
相変わらず俺の存在なんて見えないようだった。
あの人の目に俺が映る時は、俺を叱責する時だけ。
戯れに俺に手をあげる時だけだ。

「………お前の家は」
「うん」
「お前の家は、どんなだ?ご両親や、兄弟はいるのか?」
「ゴミだめだ。クソみたいに腐った人間の吹き溜まり。俺も含めてな」

それは淡々とした普段と変わらずに平坦な声だった。。
その言葉に、何かの感情が含まれているのかは、分からない。

「………そう、か」
「俺を産んだ女はどっかにいったな。父親は人を踏みつけるのが大好きな俗物だ。ああ、後は兄と弟らしきものがいるな。揃いも揃って母親の腹の中に脳みそ置いてきたんじゃないかってくらい可哀そうな頭をしている」
「そう、か」

そこには温かさや、親しみなんかは何も感じられなかった。
柳瀬は、家族に対して愛情はないのだろうか。
旦那さまや奥さま、玲様と一緒にいる瑞樹は、楽しそうだ。
あの方達みたいなのが、家族なのだと思っていた。
ずっと、眩しかった。

「………お前は」
「なんだ?」
「お前は………」
「うん」
「………なんでもない」

何を聞きたいのか、分からない。
何を聞けばいいのか分からない。
今胸を覆う形にならないもどかしい感情が何かが、分からない。
柳瀬が小さく笑ったのが、体に伝わる振動で分かった。

「そればっかりだな」
「………うん」

何か、聞きたいのか。
聞きたくないのか。
分からない。
なんでこんな憎い男の腕の中で大人しく収まっているのかも、分からない。

「疲れてるんだな。今日は休め。部屋に帰るか?」

部屋には、瑞樹がいるだろうか。
いや、きっといない。
帰ってきたのだから、あの男と一緒にいるのかもしれない。
別の友人と、一緒にいるかもしれない。
瑞樹は、誰からも好かれる瑞樹は、陽の光の元にいるのだから。

「………もう少しだけ、いる」
「そうか」

薄闇の埃臭い部屋、薄汚い男の腕の中。
目を瞑ると甘い甘い匂いがして、ゆるゆると意識が闇に溶けていった。





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