「最近、お前本当に一人で行動することが増えたな」
「………そうか?」
「ああ。友達でも出来たか?」

瑞樹が廊下を歩きながら、ふいに聞いてきた。
突然の問いに、言葉に詰まる。
友達なんて、いない。
クラスでは少しは話すような人間はいるが、瑞樹に近付きたくて寄ってくるようなのばかりだ。
別にそれはかまわない。
これまでずっとそうだったのだから。

でも、正直に違うとは言えない。
瑞樹と離れて会っている人間、それはあの冷たい蛇のような目をした男。

「………う、ん」

咄嗟に頷けなくて、つい少しどもってしまった。
一瞬の間をどう誤魔化そうか考える前に、瑞樹は一歩前に出て、俺の前に周り込むと見上げてくる。
その鋭く強い目に睨みつけられると、いつだって体が竦む。
自分よりもずっと小さな体なのに、その威圧感は場を支配する。

「みず、き」

瑞樹が探るようにじっと俺の目を見てくる。
その強い眼差しにあいつとのことも何もかも吐きだして、縋って許しを請いたくなる。
でも、言えるわけがない。
瑞樹に嫌われなくない。
瑞樹に、これ以上汚い人間だって思われたくない。
胸のペンダントを手で握りしめて、せめて逸らさないように瑞樹の綺麗な大きな目を見つめ返した。
しばらくそうしていたら、瑞樹が目をそらしてふっとため息をつく。

「………お前ももう子供じゃないから何も聞かない」

前に、瑞樹にいつまでも頼ってなんかいないっていたせいだろうか。
自分で言ったはずなのに、突き放されたようで、寂しくて苦しくて叫びそうになる。
俺を捨てないで、瑞樹。
置いていかないで。

「でも困ったことがあれば言え。俺はいつだってお前を助けてやる。お前は俺の大事な弟なんだからな」
「………大、丈夫だ」
「本当に本当に大丈夫なんだな?嘘ついてたらはったおすからな。俺に嘘はつくなよ」

大きな手で俺の腕を掴んで、まっすぐに俺を見つめてくる綺麗な目。
その乱暴な言い方が、とても瑞樹らしくて、少しだけ笑うことができた。

「うん、大丈夫。ありがとう、瑞樹」

そして、頷くことが出来た。
綺麗な綺麗な瑞樹。
本当は、俺なんかがいつまでも寄生していてはいけない、瑞樹。

「あ」

瑞樹が、ちらりと視界の隅に映った陰に声をあげる。
俺もつられてそちらを見ると、廊下の向こうで長身の影が見えた。
そいつは俺たちを見て、くるりと踵を返して駆け足で去って行った。

「あ」

誰よりもいけすかない、下衆で野蛮で馬鹿な男。
瑞樹を取っていく、嫌な奴。
けれど、いなくなってしまった。
いつもなら瑞樹を見つけると真っ先に近寄ってくるのに。

「………なんだ、あいつ」

瑞樹が、俺の腕から手をはなし柔らかい栗色の髪を掻きあげる。
そしてちょっと不満そうにため息をつく。

「秋庭の奴、最近ああなんだよな」
「え?」
「俺なんかしたかなあ」
「………してない、のか?」

さすがにそれは、俺でもかばいきれない。
瑞樹があいつにした仕打ちは、割とひどい。
徹底的に痛めつけて、犯して、見世物にして、馬鹿にして。
たまに、あいつもよくめげないなって、ほんの少しだけ感心することがある。
瑞樹も思い当ったのか、ちょっと気まり悪そうに眉をしかめる。

「いつも通りのことしかしてねえけどな。それでへこむぐらいなら、もっと早くにつぶれてんだろう」

確かに、それはそうだ。
あれだけやられて、あんなにめげなかったんだから、今更瑞樹を見て逃げ出すのはおかしい気がする。

「いつからだ?」
「んー、確か、えーと、そうだ本家に帰った日辺りから、ヤってねえな。さすがにたまってきた。なんだ、さすがに掘られるの嫌になったのか。まあ、あいつも男だしな」

瑞樹が綺麗な白い指を口に当てて、唸る。
相変わらず口が悪く、言葉は汚い。
でもその少女めいた美貌の前では全く下品に感じないのが、瑞樹のすごい所だ。

しかし、本家に帰った日、か。
あいつが、小奇麗な顔をした男と、一緒の部屋から出てきた日。
理由に思い至って、複雑な気分になる。

「………瑞樹は、何もしてない」
「だよな」
「何もしてないからだと、思う」
「へ?」

あの時あいつは、瑞樹がなんの反応も示さなかったことに落胆していた。
悔しいし、認めたくないが、気持ちは、分かる。
いっそ、殴られたほうが、マシだっただろう。
他の奴と関係を持ってもなんの反応も示されないというのは、自分に興味を持たれていないということだから。
少し同情して、あの時は柄にもなく慰めの言葉なんてかけてしまった。
あいつがいつもの不遜な態度と違って、ひどく情けない顔をしていたから。

「瑞樹は、頭がいいけど、時折酷く鈍感だ」
「なんだと、こら!」

瑞樹は別にあいつに興味がないわけではない。
興味がなかったら無視された時点で、視界から消す。
瑞樹はそういう人間だ。
いい意味でも悪い意味でも、こだわりがない。
執着がない。

「………瑞樹は、あいつが気になるのか?」
「あー、まあ、うーん」

それなのに、瑞樹はあいつを気にする。
無視されて、随分経っているのに、気にしている。
嫌なものが胸から溢れてくる。
息が出来ない。
嫌だ。

「こんなクソ退屈な学校で飽きないのって、あいつで遊んでるからだしなあ」
「………そうか」

瑞樹が、少し笑ってそう言う。
叫び出しそうになるのを堪えて、俺は頷く。
どうしよう。
どうしたらいいんだろう。

瑞樹は、いつもの遊びだと思っている。
何も気づいていない。

でも、俺は分かっている。
瑞樹がこんなに執着した人間は、今まで、いなかった。



***




「どうした?」
「………」

もう体に染みついてしまった、甘い甘い匂いの腕の中。
憎くてたまらない男の手に抱えられて、そう問われた。

「そんないかにも何かあるって顔して、何を聞いてもらいたい?聞いてほしいことがあるんだろう?聞いてやる」
「………なっ」

馬鹿にしたような言い方に、頭がかっと熱くなる。
反射的に手が出て、男の顔を打とうとする。
けれど簡単に掴まれて、代わりに反対の手で頬を軽くはられる。

「………っく」

痛みはそれほどでもないのに、いつまでも、頬を打たれるのは慣れることはできない。
どんなに武道で体を鍛えても、染みついた恐怖に体が竦む。

「まだ噛み癖が直らないな」

悪戯をした犬を叱るように、柳瀬が喉の奥で笑う。
屈辱に、胸が熱くなる。
恐怖に、体が震える。

「………く、そ!」
「元気がよくて、何よりだ」

馬鹿にしたように髪を嬲る手を払いたいのに、体が動かない。
男が腕を腰に回して、もう一度体を引き寄せる。

「く、そ、おまえ、なんか!」
「落ち着け。どうした?」

今度はぞっとするほど優しい声が、耳元で囁く。
この男の卑怯なやり口も冷酷な性格も知っているだけに、その声が恐ろしく響く。

「いい子だ。落ち着け、大丈夫だ」
「………っ」
「いい子だ、秀一、いい子だな」

けれど、さっき罰を与えた恐ろしい手は、同じその手で慈しむように頭を撫でる。
秀一、と優しく名前を読んで、撫でてくれる。
いい子、と言ってくれる。
瑞樹が、いつもそうしてくれていたように。
俺に、唯一温かさをくれた大きな手が、そうしてくれたように。
俺に、優しくしてくれる。

「どうした?何があった?」
「………」
「なんでも聞いてやる。お前の大事な瑞樹にも話せないことなんだろう」

思わず、小さく体が震えてしまった。
男には、気付かれただろう。
頭を撫でながら、もう一度優しく冷たい声が問う。

「桜川のことか?」

だから、堪え切れずに口が開く。
こんな男に言ってどうするんだと、理性は訴えている。
でも、心の中に溜まっていたどろどろとした闇が噴き出してしまう。

「………瑞樹が」
「うん」

柳瀬は、優しく聞いている。
頭をずっと撫でながら、その爬虫類のような冷たい目で見ている。
俺を、見ていてくれる。

「………瑞樹が、あいつのことを、ずっと気にしているんだ」
「秋庭か?」

嫌な、名前。
俺から、大事なものを奪っていく名前。
下衆で野蛮で、馬鹿な男
でも、俺とは正反対の、強く明るく、魅力的な男。

「瑞樹はいつも、自分から去って行った人間なんて、気にしなかった。すぐに飽きた。ずっと執着する人間なんていなかった。なのに、なのに、なのにっ」

羨ましい。
悔しい。
苦しい。
ずるい。
あの強さが、欲しい。
瑞樹の隣にいてもふさわしい、強さと眩しさ。
そのうち飽きると思っていても、身を焼く焦燥感。
目を逸らしていても、襲ってくる恐怖。

「あいつだけは、いつまでも気にするんだ。あいつといると楽しいって言うんだ。退屈しないって。今までそんなこと言わなかったのに。言ったことなかったのに。ずっと一緒にいれたのは、俺だけだったのに」

ずっと、最後まで一緒にいれたのは俺だけだった。
いつか瑞樹は誰かと一緒になっても、俺は隣にいれると思った。
でも、そんなことはないんだって、あいつが現れて分かった。

瑞樹に本当に好きな人が出来たら、俺なんて邪魔なだけだ。
弱く薄汚れて役立たずの俺なんて、必要ない。
まして瑞樹に汚い感情を抱く俺なんて、障害になるだけだ。
瑞樹の相手は、俺を疎ましく思うだろう。
瑞樹だって、俺を嫌うに決まっている。
瑞樹にずっと縋って生きている訳には、いかないのだ。
そんな現実を突き付けられた。

「怖い。俺は一人になる。また捨てられる。また誰にも気にされない。また殴られる。また閉じ込められる。もう誰も助けてくれない。瑞樹も助けてくれない。誰も俺を………」

あの日も、兄に庭の片隅の物置に閉じ込められた。
泣きながら許しを請うた。
でも、誰も助けてくれなかった。
夕暮れになって、夕食時に表れないのに気付いた使用人の誰かが開けてくれるまで、ほとんどいつもそのままだった。
運が悪ければ、丸一日そのままだった時もあった。
かさかさと暗闇の中で蠢く虫が沢山いた。
狭くて、真っ暗で、何も見えなくて、それが余計に恐怖を煽った。
泣いても叫んでも、誰も助けてくれないって分かってるのに、泣き続けた。
でも、あの日は応えてくれる声があった。

『誰かいるのか?』

聞こえてきた声は、天使のように綺麗な声だった。
開かれた扉から漏れた光は、とても眩しかった。
差しのべられた手は、温かかった。
向けられた笑顔は、とても綺麗で、頼もしくて。

その日から、瑞樹だけが俺の全てだった。

「怖い、怖い怖い怖い。もう嫌だ。もう怖いのは嫌だ。もう寒いのは嫌だ。殴られるのは、嫌だっ」

俺を、守ってくれた、大きな手。
俺を、怖いものから遠ざけてくれた頼もしい腕。
不安なんて吹き飛ばしてくれた眩しい笑顔。
綺麗で強くて誰よりも愛しい瑞樹。

「瑞樹、瑞樹瑞樹瑞樹、瑞樹っ」

置いていかないで。
俺を捨てないで。
なんでもするから、捨てないで。
自由なんていらない。
俺を瑞樹の所有物にして。
俺を一人にしないで。

「一人にはならない」

冷たく通りのいい低い声が、吐息と共に耳を擽った。
肩に押しつけられるように、強く体を抱きしめられる。
甘い匂いに、一瞬頭が真っ白になる。

「………あ」
「言っただろう。お前は俺のかわいい犬だ。俺が一生お前を飼ってやる」
「………ちが、う」
「違くない。俺がお前の飼い主だ。ペットは一生面倒を見なければいけないんだ。捨てたりしない」

一生、飼う。
一生、面倒を見てくれる。
昔、犬や猫に、なりたいと思ったことがあった。
そうすれば、誰に疎まれることもなく、迷惑をかけることもなく、瑞樹の側にいれると思った。

この男の犬になれば、この男に飼われれば、俺は一人ではないのだろうか。
皆が捨てていく俺を、置いていかないでくれるのだろうか。
この男は、俺を所有物にしてくれるのだろうか。
捨てないで、くれるのだろうか。
でも。

「違う、俺は、瑞樹の、ものだ」
「瑞樹は、お前の兄だろう?」
「………っ」

前は嬉しかった、瑞樹の言葉。
けれど、今告げられるそれは、恐怖でしかない。

「兄は、いつか別れる。別々の人生を歩む。一生一緒には、いられない」
「嫌だ!」
「嫌でも何でも、それが事実だ」

お前は俺の家族だ、と言われる度、嬉しかった。
父も兄も母も、俺の家族ではなかった。
瑞樹が唯一の家族だった。
言われて、泣きだすほどに、嬉しかった。
それなのに、今はただ、それが怖い。

「瑞樹はお前と別れて、秋庭でも他の女とでも、誰かと幸せになるだろう」
「違う、俺は瑞樹のものだ、一生瑞樹のものだ」
「桜川はそう思ってないだろう?」

瑞樹の言葉が、脳裏に浮かぶ。
困ったように笑って、告げられる。

『お前は、俺のかわいい弟なんだからな』

それは、弟なんだから、俺に頼れという愛情。
弟なんだから早く自立しろという呆れと激励。
そして、弟なんだから俺の気持ちは受け取れないという拒絶。

「お前の自立を望み、お前が自分から離れることを望んでいる。優しい優しい兄だ」
「あ……、い、や……」
「嫌でもなんでも変えられない。認めろ」

恐怖が反射的に俺を突き動かした。
怖いことばかり言う男の胸に、拳を叩きつける。

「嘘つき!」

すぐに大きな手が頬を打った。
恐怖で、体が一瞬で冷える。
更に、容赦なく、冷たい声が追い打ちをかける。

「………く」
「兄は、いずれ弟とは別の道を行く」
「あ………」
「兄は、弟を捨てる」

いやだいやだいやだいやだいやだ。
もう、あの冷たく怖く痛い場所には行きたくない。

「でも」

そっと、大きな冷たい手が、俺の顔を包み込む。
感情を移さない細い目が、薄く笑う。

「飼い主はペットが死ぬまで、面倒みなければいけないんだ」

冷たい薄い唇が、そっと額に押し当られる。
ひやりと冷たいのに、触れた場所がほんのり熱を持つ。

「俺が一生面倒見てやる。かわいい俺の秀一」
「………う、そだ」
「嘘じゃない。自分の犬は、一生大事にする。誰にも手を出させない。守ってやる」

慰撫するように、冷たい唇が顔をなぞる。
瞼に、頬に、鼻に、唇に。
こんな嘘つきで、卑怯で、冷酷な、最低な男。

「一生一緒にいてやる、秀一。俺のかわいい犬」
「………」

それなのに、何も、言えなくなってしまう。
体から、力が抜けていく。

「いい子だ。秀一」

優しく響く、冷たい声。
もう一度、唇を吸われて、俺は目の前の体に体重を預けた。

「いい子だ」

どうしようもなく苦しくて、甘い匂いのする胸に顔を押し付けて、深く息をついた。
目が熱くなって、閉じた瞼から、堪え切れない涙がこぼれた。





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