藤原君が慌てて手を引いて、私から一歩離れる。
私もなんだか焦って立ち上がって、眼鏡の男に向き合う。

「浮気?」

野口は相変わらず冷たい目で、じっとこちらを見ているだけだ。
その表情はいつもと変わらな過ぎて、逆になんだか不安になる。

「ち、違う!」
「違う!」

藤原君は手と首を横に思い切り振る。
私も同時にものすごい誤解を否定する。

「息ぴったり」

けれど私たちの行動を見て、野口は眉を顰めて目を細めた。
いつもテンションが一定の男がどことなく不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「元サヤ?焼けぼっくいに火がついた?再燃?」

淡々と紡がれる単語に、背筋に氷と落とされたようにぞっとすると同時に、頭に血が上る。
反射的に私は叫んでいた。

「そんな訳ないでしょ!」

ものすごい誤解だ。
ただの、友達の触れ合い。
もう私は藤原君なんて、なんとも思ってない。
さっき、それを確かめたばっかりだ。

「本当に?」
「嘘なんて言ってない」
「へえ」
「なんだよ!」

けれど野口は信じていない様子で、馬鹿にしたように笑う。
いつもムカつく笑い方しかしない男だが、今日はより一層ムカつく。
私の言葉を聞こうともしない男にムカつく。
そしてそれ以上になぜか、もやもやとして、息が苦しい。
喉が細くなってしまったように、うまく呼吸ができない。

「の、野口、今のは………」
「藤原は黙ってて」

藤原君が慌てて仲裁に入ろうとするが、野口の一言で黙った。
しゅんとして肩を落とす藤原君は、情けなくて、ちょっと可愛い。

「あんたって結構流されやすいし、かっこいい元カレによろめいちゃった?」
「………っ違う」
「ちょっと間があったね。目が泳いでる。あれ、本当によろめいた?」

確かに、さっきちょっとだけ、胸がざわついた。
少しだけ、前のことを、思い出した。
でも、それだけだ。
ただの、夕暮れ時の感傷だ。
昔の想いの、捨てきれなかった欠片が、ちょっとだけ残っていた。
でも、それもさっき、綺麗に片づけたのだ。

「違うつってんだろ、この馬鹿!」
「ムキになると、余計に怪しいね」
「………あんた、しつこい!」

でも、なんだか後ろめたくて、言葉がうまく出てこない。
私はやましいところなんてないけど、なぜだかちらりと罪悪感が沸いている。
こいつの方がもっとずっと、ひどいことしてるのに。

「そうは言っても他の男とベタベタしてるの、見せつけられたしな。信用できない」
「っ!」

冷たい目で、野口が私を見ている。
心臓に、大きな針を刺された気がした。
小さな、けれど鋭く深い痛み。
胸が痛くて、熱い。
手を握って、その痛みを、なんとかやり過ごす。

「の、野口」
「間男はもうちょっと黙ってて」

藤原君がおろおろと、私と野口を交互に見る。
野口はこの炎天下の中、やっぱり涼しい顔でで立っている。
眼鏡の下の目は不機嫌そうに細められている。

「じゃあ、どうすればいいのよ!信用できないなら、何しても一緒じゃない!」

何を言っても打ち消される。
否定される。
信用されない。
信じてもらえない。
そんなの、どうしたらいいんだ。

「そうだなあ」

野口はちょっと考えるように首を傾げる。
私は次の言葉をただじっと待つ。

「じゃあ、俺に本当に信用してほしいなら」
「………」

死刑執行を待つ犯罪者みたいな気分だ。
運動なんてしていないのに心臓が打つ音が必要以上に大きく耳元で聞こえる。

「………」
「三田からキスして?」
「は!?」

野口が少し笑って、そんなことを言った。
笑ってはいても、やっぱり冷たい印象の男。

「キスして。濃厚な奴。今ここで」
「な、何言って」
「藤原のことなんでもないって言うなら、出来るでしょ?」

そうだ、私は藤原君のことなんて、思ってない。
全部全部、こいつの勘違いだ。
でも、信じてもらえない。
こいつが言うように、キスしたら、こいつは私を信じるのだろうか。
そんな馬鹿な考えが、ちらりと頭をよぎる。
馬鹿馬鹿しい。
そうだ、馬鹿馬鹿しいことだ。

「………」
「さ、早く」

再度促されて、迷いながらも、一歩足を踏み出す。
視界の隅に心配そうな、藤原君の顔が見える。
別に藤原君のことなんてなんとも思ってない。
でも、やっぱり人前でそんなことするのは、恥ずかしい。
何より、そんなことしなきゃ、信じてもらえないのかと思うと、胸が苦しい。

「三田?」
「………」

野口の触り心地のいいシャツに手をかける。
その眼鏡の奥の冷たい目を、見上げる。
どう、しよう。
思い切れなくて、手に力がこもる。

「………」
「あれ、もしかして本当に迷ってるの?」
「は?」
「いや、速攻断られるかと」

人が逡巡していると、いきなり野口は目を瞬かせて不思議そうにそんなことを言った。
私は何を言われているのか分からなくて、ただじっと目の前の男を見上げる。

「なんだ、それなら本当にしてもらえばよかった。もうちょい追いこんだらいけた?」

しくじったと無表情のまま言う男には、先ほどの不機嫌な様子は見えない。
いつもの、本当にいつもの、気まぐれで残酷な野良猫だ。

「………もしかして、からかった?」
「いや、別に。本当にしてくれたらラッキーとは思ったけど」

その口調も、平坦ではあるものの少しだけ和らいでいる。
ぞっとするような、感情が一切こもってないような、平坦な声とは違う。

「………今の、私を疑ってるみたいな発言はなんだよ」
「まあ、ノリで。俺、藤原のこと信用してるから」
「の、野口」

野口の言葉に、藤原君が感動したように顔を輝かせる。
ていうかどういうことだよ。
私は信用してないのかよ。

「へたれ藤原がそんなことできる訳ないだろ。勘違いとは言え付き合った女に1カ月も手を出さない男だよ?」
「の、野口………」

一気に情けなくふにゃりと顔を歪める藤原君。
ああ、本当に。

「………」
「三田?」

私は息を吸い込むと、野口のシャツから手を離した。
そして強く強く拳を握る。

「死ね馬鹿!」

吸い込んだ息を思い切り吐き出して、ついでに思い切り拳を振った。
野口の腹に、その拳は綺麗に決まった。

「いったー」

ああ、もう馬鹿馬鹿しい。
本当に馬鹿馬鹿しい。
そうだ、こいつが私にヤキモチなんて妬く訳ないんだ。
ただ、いつもからかうだけ。
私はただのこいつのオモチャ。
どうせ、三番目に好きな奴。

「あ、三田!」

藤原君の声が、歩きだした背中を追いかけてくる。
けれど、振り返らないまま私は校門の外目指しす。
走るのは、なんか悔しいから、全速力で歩く。

「三田」

後ろから小走りでついて来る足音がする。
でも絶対に振り返らない。

「三田ってば」
「………」
「おーい」
「………」
「すごい怒ってる?」
「うるさい、黙れ」

信じられないとか言われて。
それがただからかっただけで。
こいつに信用してもらおうと、馬鹿なことまでしようとした。
ああ、馬鹿だ。
馬鹿な私。
いつまでもこうやってからかわれる。
いつまでもこうやって遊ばれる。
悔しい悔しい悔しい。

「本当にキスしてくれようとしてた?」
「んな訳ないだろ!」

足を速めても、声は執拗に追いかけてくる。
楽しそうに笑いを含ませて。
最低男。
変態。

「俺に疑われて焦った?なんでもするって気になった?」
「………っ」

我慢できなくなって、立ち止ってしまった。
後ろを振り返ると、楽しそうににやにやとチェシャ猫のように笑う野口。

「なんなんだよ!そんなに私をからかって楽しい!?」
「うん」

迷う暇なく頷かれて、頭が真っ白になった。
そして、その眼鏡面をひっぱたいていた。

「死ね、馬鹿!」

ああ、もう嫌だ。
本当に嫌だ。
なんでこいつに振り回されなきゃいけないんだ。
こんな奴、大嫌いだ。

「本当に乱暴だなあ」
「どうせ乱暴でガサツで女らしくない」
「そんでもって卑屈も治らないね」

もう一度背を向けて、歩き出す。
後ろの足音も付いてくる。
ムカムカが収まらない。
悔しくて、目が熱くなる。

「三田」
「ついてくんな!」

更に足を速める。
もう走ろうかなと思ったところで。

「あ、足元、危ない!」
「え!?」

急に大きな声を出されて、反射的に足元を見てしまう。
勢いづいていた体はよろめいて、後ろに倒れ込みそうになる。

「はい、捕まえた」
「な!!」

そして、後ろから腕がのびてきて私の体を支えた。
支えるだけじゃなく、その細い腕は私を捕えるように拘束する。
背中に感じる冷たい体に、心臓が跳ね上がる。

「は、離せ、この変態!」
「あんまり暴れないで。俺非力なんだってば」
「じゃあ離せ!」

なんなんだこいつは。
私をからかって弄んで、そんなに楽しいのか。
暴れる私を抑えるように、野口が更に腕に力を込める。
顔は見えないが首のあたりに、野口の息を感じる。

「ヤキモチ焼いたのは本当」
「あっそう!」
「だからちょっと、苛めたくなった」
「いつものことだろ!」
「そういえばそうか」

あっさり認めやがった。
本当にどこまでも根性がひねくれまくった最低男。
野口はくすくすと笑いながら、耳元で話す。

「思ったよりもずっと嫉妬した」
「………私に嫉妬したんじゃないの。藤原君とイチャイチャしてたから」
「ああ、なるほど。そういうこともあるか」
「………」
「どう思う?」
「知るか!」

どうせ藤原君は一番に好きだった人。
拘束して一人占めしたかった人。
私は三番目。
適当にしか、好きじゃない人間。

「ああ、泣きそう」
「泣いてない!」
「大丈夫、今回は藤原を殴り倒したくなったから」

嘘だ。
絶対嘘だ。
全然動揺なんてしてなかった。
いつも通りに冷静に楽しんでいた。
私が誰とどうなろうと、こいつには関係ないのだろう。

「ああ、でも、なんかいいね」
「何が!」
「胸の痛みが、気持ちいい。嫉妬で苦しむのも楽しい」

うっとりと、感情のこもらない声にそれでも喜色をにじませる。
野口が私の肩に顔をうずめる。

「あんたに与えられる痛みが、心地いい」
「この変態!」
「痛みがない恋なんて、楽しくないと思わない?」
「思わない!」

恋って、楽しいものだと思っていた。
一緒にいると嬉しくて、ドキドキして、舞い上がってしまいそうで。
でも、藤原君といた時も苦しかった。
こいつといる時なんて、嬉しくて舞い上がる感情なんて感じる暇もない。

「でも痛みだけじゃいやだな」

野口は私の言葉なんてちっとも聞かない。
いつも通りにマイペースに先を続ける。

「ねえ、三田?痛みと一緒に気持ちいいこともしたい」
「は!?」
「キスしていい?」
「いやだ」

何言ってるんだ、こいつは。
なんでこの流れで、こんなことになるんだ。
私は怒ってるんだ。
試されて、からかわれて、笑われて、怒ってるんだ。

「キスしたい。恋人が他の男とイチャイチャしてショックを受けてる俺を慰めて」
「全然ショック受けてないだろ!」
「胸が張り裂けそう」
「嘘つけ!」

しかし野口は私の体に回した腕に力を込めて、耳元で囁く。
まるで映画のヒーローが恋人に囁くように、切なく、優しく。

「本当だよ。安心したい。あんたを感じたい。もっと近くにいたい」

思わず騙されてしまいそうな、苦しそうな声。
じわじわと、怒りとは別の感情で体が熱くなっていく。
駄目だ。
騙されるな。

「ねえ、キスしたい」
「私はしたくない」
「じゃあ、ここで無理矢理押し倒していい?」
「いい訳あるか!」

こいつならやりかねない。
早く逃げたいが、野口の腕は全く緩む様子はない。

「じゃあキスさせて」

更に追い詰めるように、言葉を重ねる。
もうどうしてこいつはこんなに性格が悪いんだ。
逃げ場を塞がれ、じわじわと捕まえられる。

「………やだ」
「じゃあ押し倒すけど」
「………どんなキス?」
「どんなキスがいい?」
「べ、ベロは入れないで!」
「うわ、なんか三田にそういうこと言われると興奮するな」

自分で言ったことの意味を理解して、頭の血が沸騰する。
何言ってるんだ私は。
全く野口に毒されている。

「あ、真っ赤」
「う、うるさい!」
「ベロは入れないから、下の方に」
「死ね!」

自由になる足で、思い切り足を踏んづけた。
野口は小さく呻いて笑った。

「冗談冗談。じゃあ、ベロは入れないから」
「………絶対だな」
「うん、今回は」

今回はの言葉が気になるけど、これ以上押し問答しても無駄だろう。
ここで断ったら、今度は何をされるか分からない。

「………分かった」

仕方なく小さく頷くと、野口がようやく腕を緩めた。
そして腕をひかれて、学校の裏の林にひっぱりこまれる。
向き合うと、野口は楽しそうに笑っていた。
性格悪そうなチェシャ猫の笑い。
近づいてくるのが耐えられなくて、目を強く瞑る。

「ん」

最初に触れたのは、力の入った瞼の上だった。
くすぐったくて、身をよじると、野口が小さく笑った。
そして今度は頬に触れる。
眉間に。
顎に。

「な!」

そしていきなり唇が舐められて、飛び上がった。
思わず目を開いてしまう。

「いれてないよ」
「………っ」
「もうちょっと」

唇をもう一度舐められる。
ぞわぞわと、全身に走る、変な感触。
ただ、唇が触れているだけ。
いつも、何も意識をすることなんて場所なのに。
何に触れても、何も感じないのに。
この冷たく湿った感触に、お腹のあたりがもぞもぞとする。

「う、ん」

小さな痛み。
下唇を、やんわりと噛まれる。
いつの間にか強く掴んでいた野口の腕を押しのけるように力を込める。
けれどそれを窘めるように今度は上唇を強く噛まれた。

「っ」

また頬に唇が戻る。
目尻、こめかみ。
柔らかな感触にほっとしたのもつかの間。

「った!」

耳たぶに走った鈍い痛みに体が跳ねる。
衝撃で、再度目を開く。
野口がぺろりと自分の唇を舐めて、にやりと笑う。
何をされたのか分からなくて、ぱくぱくとみっともなく金魚のように口を開くが、言葉が出てこない。

「はい、ご馳走様」
「な、な、な!」

野口が濡れた唇を拭って、楽しそうに笑っている。
私はいまだにじんじんと熱い耳を抑えて、一歩後ろに下がる。

「う、嘘つき!」
「ついてないよ」
「な、こ、こんなところに、か、噛んだ」
「場所は指定されてない。噛むなとも言われてない」

しれっと言う男に、言葉が出てこない。
心臓がバクバクとものすごい勢いで、動いている。
頭がくらくらする。
息が苦しい。
全身が、熱い。

「さ、お茶して帰ろっか。恋人らしく」

野口が、後ずさる私の手をとる。
とても機嫌が良さそうに。

「………あ、あんたなんて大っ嫌いだ!」

やっぱりこんな奴を選んだのは、失敗だった。
私の選択は間違っていた。

「そう?俺は三田が大好きだよ」

でもやっぱり、野良猫はそう言って笑った。





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