「俺が言ったこと、覚えてる?」 一人暮らしの彼の家で、二人きりになる意味。 覚えている。 嫌になるほど、覚えている。 忘れられなかった。 ずっとずっと考えた。 一か月ずっと、考えてた。 もっと考えることあるだろうに、私も本当に恋愛馬鹿。 「覚悟は、完了した」 野口はきっと、まだ待ってくれるだろう。 でも、多分私がこれ以上、神経が持たない。 ヤったら飽きられるか、ヤらなきゃ飽きられるか、そんなこと考えて、ぐるぐるするのに耐えられない。 それに、負けたくない。 あのおっさんにも、藤原君にも負けたくない。 ヤったからって、勝てるとは限らない。 でも、もっともっと野口に近しい人間になりたい。 世界は変わらないと、おっさんは言った。 これで野口に近づけるかは分からない。 これが正しいかは分からない。 でも、野口が欲しがってる。 それなら、あげたら、野口は喜んでくれるだろうか。 まとまらない感情。 見えない答え。 まだ迷いはある。 私みたいなつまらないのとヤっても、楽しいのだろうか。 こんな体見せられない。 恥ずかしい。 普通に、痛いらしいから怖い。 でももう正直考えるのも面倒になった。 なんで私こんなことで悩んでるんだろう。 あそこまでやってるなら、もう最後までいっても同じ気がする。 どちらにしても迷うなら、いっそ全て投げ出してしまえ。 飛び込んでから、後のことは後で考えよう。 「なんか、戦地に赴く兵士みたいだな」 私の言葉に野口が、首を傾げて笑う。 確かに、そうなのかもしれない。 気分はそれに限りなく近い気がする。 「途中で逃げようとしても、多分逃がせないよ?」 「………約束、だし」 風邪が治ったら、ヤらせると、約束した。 もう、あれから一月は経つ。 野口はそれについては何も言わなかった。 まあ、それ以外に色々色々色々されたが。 「そうか」 「………」 野口は私の顔をじっと見て、それからしばらくして頷いた。 私の手をとって、歩き出す。 「じゃ、スーパー行こう」 「は?」 「夕飯、作ってくれるんだろ?」 いや、確かにそうだが。 それは、なんか、こう、表向きの理由というか、口実というか。 本当に作るのか。 「何作ってくれるの?」 けれど野口はゆっくりと歩きながら、聞いてくる。 本当に作るのか。 こいつこそ、私の言ってること、分かってるのかな。 「………何、食べたいの?」 「んー、じゃあ、ここはベタに肉じゃが」 本当にベタベタだ。 料理、本当に作るのか。 いや、作るのはいいのだが。 全然いいのだが。 ただ、せっかくの決意が、揺らいでしまいそうだ。 「………あれって割と簡単だけどね。美味しいかどうかは別として」 「え、そうなの?」 「肉とじゃがいもとにんじんとたまねぎ突っ込んで煮るだけだし」 「カレーじゃん」 「行程は似てると思う」 でも、夕飯なんてどうでもいいじゃん、なんて言える訳でもなく、二人でスーパーに向かった。 野口の、綺麗な、けれどだいぶ年数は経っているマンションに着く。 エントランスに踏み入れて、スーパーから延々と続いている緊張がより強くなる。 心臓がかすかに早くなって、きゅっと軋む感じがする。 「………」 ああ、手に汗かいてきた。 ここに入ったら、とうとう、その時だ。 喉が、渇いてきた。 逃げ出してしまいたい。 野口と何を話しているのか、分からない。 もう、頭の中はぐるぐるのぐちゃぐちゃでいっぱいいっぱい。 「ついた。じゃがいも、結構重いな」 野口は本当に分かってるんだか分かってないんだがいつも通りの様子で、スーパーのビニールを抱える。 逃げ出そうかどうしようか迷っている間にも、部屋に辿りついてしまう。 鍵を差し込み、ドアをあける。 カチャリという音が、嫌に大きく聞こえた。 「さ、入って」 「う、うん」 促され、恐る恐る中に踏み入る。 明りのついてない室内は、まだ昼時だが薄暗い。 バタン、と音を立てて、ドアが閉まる。 ああ、もう、逃げられない。 「じゃ、とりあえずキッチンで」 靴がうまく脱げない。 手が、震える。 全身の肌がぴりぴりして、息がうまくできない。 玄関先でもたもたしていても、野口は何も言わなかった。 なんとか脱いで、嫌に長く感じる廊下の先にあるキッチンに辿りつく。 半月ぶり、ぐらいだろうか。 ここで、自分からキスをした。 そして今、ここで野口とその先もしようとしている。 「………」 耳元で心臓の音が聞こえる。 全力疾走した後のように、肺が苦しい。 血が沸騰しているようで、頭と顔が熱い。 ああ、なんかもう、力が入らない。 「あ、三田」 「うひゃあ!」 後ろから野口がぽんっと、肩を叩く。 その瞬間膝から力が抜けて床にへたりこんでしまった。 「………」 「………」 気まずい沈黙。 恐る恐る振り返ると、野口が黙って私を見下ろしている。 どこか驚いたように、目を見開いていた。 「大丈夫?」 「だ、だいじょうぶ」 しゃがみこんで、視線の高さを合わせてくる。 その近さに、また心臓が跳ね上がる。 「料理、作れる?」 これから、肉じゃがを作る。 その後のことをずっと考えながら、1時間ぐらいを過ごす。 「………き、緊張して、も、もう無理」 むしろもう立てない。 緊張で頭が真っ白で、体に力が入らない。 どうすることも出来ずに、仕方なく正直に白状する。 「………」 「………」 野口がじっと私を見ている。 私も動くことが出来ずに、ただその冷たい目を見つめる。 「はっ」 それから、野口が身をかがめて息を吐きだした。 一度、堪えるように手で口を覆って、目を瞑る。 けれど、我慢できないようで、肩をぴくぴくと震わせる。 「あははははは、はははは、あっははははは!」 そしてとうとう盛大に笑い始めた。 体を丸くして、体を震わせて笑う。 「わ、笑うな!」 「あは、ご、ごめん、あはははははは、くっ、あははははは」 抗議しても、エロ眼鏡の笑いは止まることはない。 どこか平坦な、無理矢理笑っているような、渇いた笑い。 けれどとても楽しそうに、口を開いて笑っている。 こんな風に笑う野口を見たのは、久々な気がする。 顔を抑えて、床にお尻をついて座りこみ、笑い続ける。 「あははははは、あっは」 「笑うなって!」 自分でも情けないって分かってる。 恥ずかしくてどんどん顔が熱くなってくる。 「ご、ごめん」 ひくひくと震えながら、野口がなんとか笑いを治める。 そして柔らかく目を細めて、右手を私の頬に手を添える。 それだけで、びくりと体が震えてしまった。 それに、野口は小さく喉を鳴らして笑う。 「じゃあ、夕飯は、また今度な」 「………うん」 もう作れるような余裕はない。 さっさと目的を果たしたい。 もうなんか、投げやりだけど、悩んでいる時間すら、苦しい。 「スーパーからずっと緊張してそわそわしてるあんたが、ものすごい可愛かった」 「………そんなん見てたのか」 「うん、ちらちらとこっちを見て様子を窺ってるのが、たまらなかった」 最低だ。 人が本当に分かっているのか分からなくて、どうしたらいいか分からなくて、ずっとぐるぐるしてたのに。 「本当はエプロンで料理作ってる三田を襲いたかった」 「本当に死ねよ、お前」 だから料理を作らせようとしたのか。 こいつはどこまで変態なんだ。 ていうか初めての女に何をさせようとしてんだ、この馬鹿は。 この変態エロ眼鏡。 「三田、好き、大好き。かわいい、大好き」 「………さんざん笑った後で言うことか」 「俺をこんな楽しくて………」 そこでまた笑いの発作が浮かんできたのか、ひくっと喉が引き攣らせる。 睨みつけると苦笑して、一旦息をついてから先を続けた。 「楽しくさせてくれるの、三田だけ」 そしてまた無表情に戻って、私をじっと見つめている。 頬に触れている冷たい手は、少しだけ震えている気がする。 「ね、三田、嫌なら今逃げて。俺を殴り飛ばして逃げて。まだ、我慢できる」 言われて、少しだけ考えてしまう。 今なら、まだ後戻りが出来る。 まだ、今までのようなぬるま湯のような生活を、享受できる。 でも、これからも悩み続ける。 捨てられる恐怖に怯え続ける。 怖い。 逃げたい。 でも、逃げるのも怖い。 なら、逃げないのを選ぶ。 「へ、平気」 「本当に?」 私の言葉の真意を確かめるように、静かに問う。 いつものように馬鹿にする様子はない。 ただ、じっと、穏やかに凪いだ目で私を見ている。 「これ以上いったら、どんなに泣きわめいても、無理矢理押さえつけて犯す」 「………っ、人の決心を鈍らせるようなことを言うな」 そういうこと言われたら怖くて逃げ出してしまいそうだ。 野口がちらりと笑って、左手も、私の顔に添えてくる。 「あんたがどういう気持ちでヤってもいいって思ったのか分からない。でも、どうでもいい。そんなの知らない。後であんたが後悔しても関係ない。くれるっていうなら、もらう。自分を大事にしろなんて言わない。同情どんとこい。据え膳万歳」 膝をたてて体を持ち上げて、顔を近づけてくる。 キスをされるのかと反射的にぎゅっと目を瞑る。 「痛っ」 けれど、襲ってきたのは鼻への痛み。 鼻を噛まれた。 外歩きまわって油浮いてるのに。 休日だから化粧してるのに。 「何すんだよ!」 けれど野口は聞かないで、また鼻を噛む。 唇を噛む。 喉を噛む。 「痛い!痛っ!」 押しのけようとしても、私の手の力が入らないこともあり、思いのほか強い力で抑えつけられる。 耳を噛まれて、頬を噛まれて、顎を噛まれる。 このまま、食べられてしまいそうだ。 「痛いってば!」 「我慢できない。欲しい、あんたが欲しい」 野口が体を離して、肩に顔を埋める。 首筋に、熱い吐息を感じる。 野口のコロンの匂いが、ドキドキするのにどこかほっとする。 「欲しい。頂戴。お願い、頂戴。あんたを、頂戴」 野口の、感情のこもらない平坦な声。 けれどそれはいつもより切羽詰まったような響きを感じた。 それは、私の気のせいかもしれないけれど。 「三田、三田、三田、お願い、三田」 名前を何度も繰り返し呼ばれる。 首に筋張った腕が回されて、ぎゅっと縋りつかれる。 「三田、三田、三田」 きゅーっと、胸が熱くて、痛くなる。 哀しくないのに、目が熱くなって、涙が出そうになる。 「………いいよ、………あげる」 言った途端、どばーっとダムが決壊したみたいに、胸から体中に感情が溢れてくる。 首に縋りつく腕を、肩に埋まった頭を、撫でる。 さらさらと乾いた髪の感触が気持ちよくて、苦しくて、その背中を掻き抱く。 ああ、触れたい。 野口に触れたい。 触れられたい。 触れて欲しい。 野口が欲しいというなら、あげたい。 こいつが喜ぶなら、嬉しい。 ああ、こいつが好きだ。 野口が好きだ。 好きだ。 好きだ。 好きだ。 思いが堰き切って、体の外にも、溢れだしそう。 こんな、気持ちになるのは、初めてだ。 苦しくて、切なくて、哀しくて、でも嬉しくて嬉しくて嬉しくて。 藤原君の時だって、こんな気持ちになったこと、ない。 「好き、三田。大好き」 いつの間に、こんなにこいつが好きになってたんだろう。 こんな性格極悪エロ眼鏡なのに。 いつから、好きだったんだろう。 分からない。 でも、好きだ。 好きだ。 どうしようもなく、好きだ。 私は本当に馬鹿だ。 こんな男を好きになってしまうなんて。 私は本当に馬鹿だ。 こんなに好きだなんて、今まで気付かなかった。 「三田」 野口が、そっと体を離して、見つめてくる。 冷たい目が、上気して潤んでいる。 「………」 私はただ目を瞑る。 衣擦れの音がして、唇に冷たいものが重なる。 それだけで、胸も体も熱くなっていく。 ただ、皮膚と皮膚が触れているだけなのに。 「ベッド行こう?」 手をつないで、指を優しく絡められる。 それすらも、体は反応してしまう。 体の奥から、熱くなっていく。 心臓が痛い。 苦しい。 喉が、渇く。 「………シャワーは、浴びたい」 「そのままでいいのに」 「絶対嫌だっ」 「分かった」 野口が小さく笑って、額にキスをする。 私は、手を引かれて、熱に浮かされたようにぼんやりと立ち上がった。 痛くて、熱くて、汚くて、エグかった。 |