私の言葉に、野口は更にごろりと転がって腹這いになる。 隣にあった眼鏡をかけて、いつも通りの性格悪そうな冷たい表情の出来あがり。 「そうだよね、嫌だよね。自分を無条件で肯定してくれる存在を失うのは、誰だって嫌だ。例え自分がそいつを好きじゃなくても、好きだって言ってもらえるのは気持ちがいいしね」 「…………」 それは、そうだ。 よほど気持ち悪い奴じゃなきゃ、好きって言われるのは気持ちがいい。 まして私みたいなのを好きって言ってくれる人は、稀だ。 だから、失いたくない。 「ねえ、三田、俺を失いたくない?」 「………」 「それなら、どうする?」 眼鏡をかけた野口が、上体を起こして、私の隣に座る。 触れ合うパーカーの布がさらりとしていて、汗ばむ肌に気持ちがいい。 「それなら、私は………」 こいつの存在は、確かに失いたくないものだ。 それなら、失わないでいるためには、こいつと付き合わなきゃいけないって言うなら。 「あんたと………」 「なーんて、本当に流されやすいよね」 「いた!」 ぺちっと冷たい手が、私の額を叩く。 突然の暴挙に何がなんだか分からず、額を抑えて隣を見る。 野口は呆れたように冷たい目元を眇めていた。 「………っ」 「また、簡単に丸めこまれて。単純。そんなだから藤原なんかに騙されるんだよ」 ついこの前まで膿んでいた生々しい傷を、抉られる。 そう、単純で馬鹿な私は、藤原君の嘘を信じ込んだ。 怒りと恥ずかしさで、頭の中がぐちゃぐちゃになって、さっきとは別の意味で熱くなる。 「お、まえは、何がしたいんだよ!」 「何が?」 それなのに、野口は相変わらず冷静で、小馬鹿にした目で私を見ている。 その変わらなさが、とてつもなくムカついてくる。 「私と付き合いたいのか、付き合いたくないのか、どっちだ!」 「勿論、付きあいたいよ?」 くすくすと笑う野口。 膝に顔を埋めるようにして、私の顔を見上げてくる。 きっと今私は泣きそうな、みっともない顔をしているのだろう。 「なら、なんで!」 「流されて付き合うって言われるのも寂しいだろ?」 「じゃあ、流すようなこと言うな!」 「だって楽しいから」 そこで、もう我慢が出来なかった。 思いっきりにそのムカつく顔を平手で叩く。 「ふざけんな!!!」 「った」 ようやくそのムカつく顔を歪めて、少しだけ溜飲が下がる。 けれど、もうこいつの隣にはいたくなくて、私は立ち上がって、海に向かって駆けだす。 「人は、お前のおもちゃじゃない!」 野口は追ってこなかった。 パラソルの下から出ると、焼けつくような日差しに頭のてっぺんが痛くなる。 ビーサンを履いていても、足に絡まる砂が熱い。 人ごみを掻きわけるように走る。 ああ、こんなに人がいっぱいいるのに、なんで私は一人なんだろう。 なんてみじめなんだろう。 一人でいたくなくて、私は友人たちの姿を探す。 あいつらを邪魔しようがなんだろうが、関係ない。 とにかくこんなところで一人でいたくない。 しばらく走ると、海の際にちょうど上がってきたのか美香と藤原君がいた。 「あれ、由紀どうしたの?」 「三田?」 私の顔を見て、不思議そうに首を傾げる。 見知った顔に、ほっとして立ち止まる。 なんだか、ちょっと1時間程度離れただけなのに、すごい懐かしい気分になる。 「野口は?」 「………寝てる」 藤原君の問いかけに、なんて答えたらいいか分からなくてそれだけ告げる。 私の様子がおかしいのに気付いて、美香が心配そうに顔を曇らせる。 「どうしたの?」 「………」 「由紀、野口君に何かされたの?」 「何も、されてない」 訳じゃないけど、なんとも言いづらい。 いつものようにからかわれただけだ。 ただ、それだけだ。 本当にいつものような、ただの言葉遊び。 それなのに、こんなに、痛い。 「本当に?野口君が何かしたなら、私、野口君を殴りにいくよ?」 「え」 「私の由紀を傷つけたりしたら許さないよ!」 美香が鼻息荒く眉を吊り上げて、握りこぶしを作る。 ああ、本当にずるいなあ。 なんでこの子はこんなにかわいくて、優しいんだろう。 妬ましくて時々すごいムカつくけど、でも、やっぱり大好きだ。 「そんなことしたら、あいつ喜ぶよ」 きっと、面白がって喜ぶだろう。 くすくすと笑って美香をいなす野口が目に浮かぶ。 「喜ぶような生易しい殴り方はしないよ」 「あんた、結構強いからなあ」 前にくらったビンタは、随分痛かった。 なんだかさっきまでの嵐のように荒れ狂っていた心の中が落ち着いてくる。 まったくもう、美香は本当に最高だ。 最高の、友達だ。 少しだけすっきりした気持ちで、私はその場にしゃがみこむ。 お尻に触れた砂が熱い。 つられて、二人もしゃがみこむ。 あんまりここにいたら、日射病になっちゃうかもな。 「ねえ、藤原君」 「何?」 藤原君が優しく笑って、気遣うように柔らかい声で聞いてくる。 本当に本当に、優しい人。 あいつとは大違い。 「あいつってさ、どういう奴?」 「どういうって………、ああいう?」 「あんな底意地悪くて、根性ひねてて、エロくて変態な奴、見たことない」 「えっと」 藤原君が困ったように空を見上げて頬を掻く。 それでもフォローするようなことは言わない。 だって、私の言うことは全て本当のことだから。 「なんで、藤原君、あいつと一緒にいれるの?」 「えっと、友達だから?」 だからなんで友達でいれるのかを聞きたいのだ。 藤原君は優しくて頭がいいけど、時折酷く馬鹿だ。 「あいつのどこがいいの?」 「うーん」 困ったように首を傾げて、しばらく黙りこむ。 そして思い至ったのか、ぽつりと、答える。 「一緒にいて、楽だから、かな」 「楽?」 「俺って、その、結構無神経じゃん」 「うん」 素直に頷くと、藤原君は傷ついたように形のいい眉を下げた。 だって無神経だし。 優柔不断だし。 しゅんとして肩を落とすが、それでも先を続ける。 「俺って、あんまり人の感情を読むとか出来ないし、鈍感だし、無神経だから、昔から結構人を傷つけたりしてたからさ」 「うん」 また頷くと、泣きそうになった。 かわいいなあ、この人。 前はかっこよくて、完璧な人だと思ってたけど、今はかわいくて頼りない人ってイメージだ。 「………あいつ、俺が変なこと言ったりしたら、容赦なく付きつけてくるだろ。むしろそこをつついて追い込んで再起不能まで追い詰めるぐらいの勢いだろ」 「………うん」 「だから、あいつといたら、無意識に傷つけるってことないし、悪いところ言ってもらえるし、楽だから」 確かに、あいつは人に気を使ったり、ムカついたことを隠したりしない。 そういうところは、正直すぎるほどに正直だ。 気を遣わないって点では、とても楽だ。 美香が藤原君の言葉にぽつりとつぶやく。 「………藤原君って、マゾだったんだ」 「ち、ちが、雪下違うから!」 でも、あいつと親友やってるって、かなりのマゾだよね。 普段もかなりいじめられてるし。 「まあ、美香も割とSだからお似合いなんじゃないかな」 「いや、だからマゾじゃないから!」 私のフォローに、藤原君は焦って言い返す。 藤原君の言葉は無視して、美香が私の顔を覗き込む。 「由紀は、野口君のこと、好き?」 「………」 「何を悩んでるの?」 何を悩んでいるのか。 さっきのあいつの言動なんて、いつものことだ。 それなのに、今日はなんで、こんなに、悩んでいるのか。 「………あいつさ、私のこと好きっていうんだ。でも、全然優しくないし、ふざけてるようにしか見えない」 「野口君のあれって、多分愛情表現だと思うよ」 「本人もそう言ってた」 美香の言葉に、少し笑ってしまう。 かなり歪んでひねくれて最低だが、あいつのあれは確かに愛情表現なのだろう。 その証拠に、あいつが一番苛めているのは藤原君だ。 そして美香にはほとんど絡まない。 「愛情表現かもしれないけど」 好きだ、付き合ってって言うけど。 でもあいつはどこまでもふざけていて、真意が見えない。 嘘はつかないって、思っているけど。 でも、あのふざけた男の心が、どうしても信じられない。 「でも、私が付き合うって言ったら、馬鹿にされて、傷つけられそうで、怖い」 「つまり、由紀は付き合う気はあるんだ」 「あ………」 美香の言葉に、私は小さく呻く。 無意識に出てしまった言葉に、自分で驚く。 「由紀は、野口君と付き合って、傷つけられるのが、怖いんだ」 「………怖い、よ」 もう隠していられなくて、吐き出すように答える。 だって、あいつに心を許したら振り回されて弄ばれそう。 あいつが一番に好きな奴が出来たら、私は捨てられて、また一人ぼっちだ。 もうそんなのは、絶対に嫌なのに。 「由紀、かわいい」 「は!?」 「なんか、すごいかわいい」 いつの間にか落ちていた視線を上げると、美香はにっこりと笑っていた。 いきなり何を言い出すんだ、この女は。 顔が熱くなってくる。 美香はぺたりと砂の上に座りこんで、思案するように首を傾げる。 「まあ、野口君はかなり特殊だから、私的にはあまりお薦めはできないなあ」 「いや、野口は、うん………うーん」 藤原君が一瞬フォローをいれようとして、しかしすぐに黙り込む。 「………だよね」 誰から見ても、そうだよなあ。 あの男は、どう考えても恋人向きではない気がする。 けれど美香はにっこり笑う。 「でも、由紀は好きなんだよね」 「………」 「なら、付き合ってみればいいんじゃない?」 ものすっごい軽い言葉に、思わず憮然とした言葉が出てしまう。 「………軽いな」 「いいじゃない、まだ若いんだからさ!付き合って、合わなきゃ別れれば!」 「だってよ、藤原君」 「ええ!?」 話をふると、黙って聞いていた藤原君は飛び上がる。 そして縋るような目で美香を見つめる。 ああ、本当にこの人はかわいいなあ。 美香は困ったように笑って、その頭を撫でる。 「大丈夫、藤原君のことはまだ好きだから」 「あ、そ、そっか。よかった」 まだって言われてるけど、いいのかな。 まあ、気付いてないならいいか。 美香は彼氏を軽くあしらうと、もう一度私に視線を合わせる。 「由紀は、野口君のこと、好きなんでしょ?」 「………」 「好きじゃなきゃ、付き合うか付き合わないかなんて悩まないし、傷つけられたくないなんて思わない。好きじゃなきゃ傷つかないもん」 それは、そうなのだろう。 私の気持ちはきっとずっと前から決まってる。 藤原君の時のような、熱い気持ちじゃない。 何がなんでも、付き合っていたいという訳じゃない。 でもやっぱり失いたくない。 そして、そう。 一緒にいると、楽なのだ。 失いたく、ないのだ。 「なら、いいじゃない。そのうち野口君が逃げちゃうかもよ。そうなったらきっと後悔するよ」 「………野口と、おんなじこと言ってる」 「え、やだ」 本当に嫌そうに顔を顰めるから、思わず笑ってしまった。 知らなかった、美香って野口が好きじゃないのか。 なんだか楽しくて、声を出して笑ってしまった。 さっきと同じ言葉。 でも、その言葉は、野口に言われた時よりもずっと素直に聞くことが出来る。 「そうだよね、どうせ後悔するなら、行動を起こしてから、後悔したほうがいいよね」 「うん、そう思うよ。私はね」 「うん………」 普段穏やかで朗らかなのに、いざっていう時とっても決断が早くてまっすぐな美香。 普段は明るいふりをしているのに、中身が腐って暗い私とは、正反対だ。 「美香は、かっこいいよね」 「へ?」 「かっこいい」 どこまでも、私の憧れ。 美香のように、なりたい。 外見だけじゃなく、美香は中身まで、とても綺麗。 大好きな親友は、照れたように顔を赤らめる。 「由紀はかわいいよ。すっごいかわいい」 「………ありがとう」 いつもならこいつに言われても何も嬉しくないって思うけど、今回は素直に受け取った。 そんな気分だった。 美香の言葉は、きっと本心からだって、今は信じられるから。 今だけかもしれないけど。 「それにしても元カレといい、由紀って男の趣味悪いよね」 「………あんたに言われたくない」 確かに、と言って美香は笑った。 藤原君がへこんで俯いていた。 |