チャイムを鳴らすと、すぐに玄関が開く。 先にメールで連絡してあったから反応は早い。 「いらっしゃい。どうしたの、急に?」 「えっと」 ちょっと前まで、毎日聞いていた、男にしてはちょっと高めの声。 なんだかひどく、懐かしい気がする。 緊張で、心臓の鼓動がどんどん早くなる。 手に汗を掻いてくる。 汗っかきの私は、この涼しい時期に、全身に汗を掻いてくる。 これからのことを考えてざわめく心を抑えるように、軽く深呼吸する。 「あのさ」 「うん、とりあえず中入れば?」 「えっと」 「藤原?」 促され、藤原君はどうしたものかとちらりとこちらに視線を送る。 玄関先にいた男が、不審そうな声を出す。 ああ、もう、演技の出来ない人だな。 仕方ない。 出たとこ勝負だ。 「藤原君、そのままドア開いておいて!」 言われて藤原君が、ドアを大きく開け放つ。 私は隠れていた廊下の隅から猛ダッシュ。 「野口!!」 開け放たれた玄関に飛び込むと、突然のことに驚いている眼鏡の男の腹に靴のまま飛び蹴りをくらわせる。 なんか簡単に折れそうだから、ある程度は加減しておいた。 でも、薄い男はそのまま後ろに倒れ込んで尻もちをつく。 「っ」 私はすぐさま靴を脱ぎ捨てて、座りこんだ野口を押し倒す。 ゴンっと音を立てて、野口は思い切り頭を廊下に打ちつけた。 「っ痛!」 倒れ込んだ隙に、そのお腹の上に乗り上げる。 逃げられなように、自分の足で固定して、体重をかける。 野口は蹴られた時に肺を圧迫されたようで、何度も咳き込む。 「かはっ、げほ」 苦しそうに体を歪めようとするが、私がいるせいで、それもできない。 それでも何度も何度も咳き込んで、少し落ち着いてから、私を見上げる。 「はっ……けほっ………三田?」 「そうだよ!」 ちょっとずれた眼鏡を直して、呆けたように私を見上げる。 「………」 「………」 勢いでここまで出てきてしまったが、何を言おうか、なんて考えてない。 思いついたら即行動っていうから、美香とジンさんとおっさんにそそのかされてここに来た。 確かに今を逃したら、また勇気を振り絞るのば難しくなりそうだから、その足でここにきた。 少しの間、黙って見つめ合う。 最初に動いたのは、野口だった。 その無表情をかえないまま、軽く首を傾げた。 「なんか用?てか重い」 なんともないその様子に、ガンっと頭を殴られたように衝撃を受けた。 心がビリビリに千切られるような痛みを感じる。 けれど、一回唇を噛みしめて、その痛みをこらえた。 こんなところで、諦めるな。 負けるな。 「用なんてありまくりだよ!てめえヤり逃げしてタダで逃げようとかフザけんな!」 「………それについては、悪かったと思う」 「悪かったですむか!人の処女返せ!」 思わず野口の襟首をつかんで、揺すぶると、後ろから恐る恐る、申し訳なさそうな声がする。 「えっと、三田」 あ、そうだ。 まだ藤原君がいたんだ。 私が言ったからって絶対開けてくれないだろうってことで、協力してもらったのだ。 今の発言を聞かれたのか。 うわ、顔が熱くなってくる。 いや、今はそんなことを言っている場合じゃない。 「あ、ありがと、藤原君。えっと、後は、私が、話す」 「………大丈夫か?」 心配そうな、藤原君の優しい声。 思わずここにいてって言いそうになる。 でも、駄目だ。 ここは、私が、頑張らなきゃ。 私が野口を、理解する。 人に頼らない。 野口を知ろうと、努力する。 「うん。後で、なんかあったら、お願い」 「分かった」 ちらりと後ろを振り向いて笑ってみせると、藤原君もぎこちなく笑った。 それから玄関がゆっくりとしまる。 ガチャリと音を立てて外の明りが入らなくなると、暗い部屋の中、玄関先に転がる私と野口だけになる。 「………」 野口はただ黙って、眼鏡の奥の冷たい目で私を見ている。 私は、一回息を吸って、吐いて、勤めて冷静な声で聞いた。 「で、申し開きは?」 「中国に処女膜再生手術ってあるらしいよ」 「ホントにいっぺん死ぬか、お前」 「確かに今のはちょっと悪趣味だったな」 ああ、もう、どこまでも最低な男。 人の気持ちを弄んでばっかり。 嬲って爪を立てて、転がして、遊ぶ。 最悪な男。 それなのに、こいつが私を見ているってだけで、涙が出そうになる。 本当に私はどうかしている。 こいつの毒に侵されて、心も体もめちゃくちゃだ。 「とりあえず、どいてくれるかな。俺薄いから痛い」 「………ほんと、骨ばっか。ていうかなんかまた痩せた?」 「そうかな」 なんか触った感じ、肋骨の感触を前よりもリアルに感じた。 最近あまり見てなかったから分からなかったけど、頬もちょっとそげただろうか。 元々痩せてる奴だったけど、やっぱり、痩せた。 「………逃げるなよ」 大丈夫、ここは野口の部屋。 もう野口に逃げ場はない。 私はゆっくりと野口の上からどくと、野口もゆっくりと体を起こした。 眼鏡の位置を直すと、腹をかばいながら立ち上がった。 ちょっとやりすぎただろうか。 大丈夫かな。 こいつほんと薄いし。 野口は軽くため息をついて、面倒くさそうに聞いてくる。 「それで、何の用?」 「………とりあえず、もっかい話したい」 「話すことなんて、俺にはないんだけど。アレで全部」 「あんなんで納得できるか!」 「男に縋りつくの?鬱陶しい、惨めな女だな」 「っ」 心が、抉られる。 今にも、お前になんてもういらないって言って、逃げ出したくなる。 でも、それで後悔するのは、もう分かってる。 こんなこと言われても、私は、野口が、好きなのだ。 だから、嫌いだ、顔も見せるなって、言われるまで、逃げない。 はっきりされてから、泣こう。 そこまでされて、ようやく諦めることが出来る。 「うるさい!せめて土下座して侘びいれさせるぐらいしないと気がすまない!」 「それですむなら、いくらでもするけど」 「すむか!」 野口が面倒くさそうに、大きくため息をついた。 「………どうしろって言うんだよ」 そして投げやりに吐き捨てる。 なんかその言い方が、珍しくて、少し面喰う。 野口が投げやりになっているところなんて、見たことがない。 やっぱり、本気で私のこと、面倒だと思っているのだろうか。 そうなの、だろうか。 駄目だ、弱気になるな。 自信を持て。 大丈夫。 「とりあえず」 唾を飲み込んで、唇を湿らす。 喉が、渇く。 落ち着け。 冷静になれ。 野口のペースに巻き込まれるな。 「とりあえず、リビング行く」 「あ」 座って、向かい合って、飲み物でも飲んで、それで、話そう。 落ちつけば、少しは、違うかもしれない。 嫌われたなら、それで諦めよう。 すっごい痛いだろうけど、それなら納得できる。 それなら、忘れる努力が出来る。 「三田、待った」 「うるさい」 ずかずかと人の家の奥に向かうと、野口が制止する。 聞いてられる訳がない。 「三田」 「うるさい!少し黙れ!」 「待って!」 リビングに続くドアを開く。 そこは、やっぱり電気がついてなくて薄暗くて、奥の部屋の窓からの外の明りで照らされてるだけ。 暗い、深い蒼と黒の部屋。 そしてソファと床には白いものが散らばっていて、それが眩しいコントラストだった。 「何この部屋、汚ないなあ」 掃除はしっかりして部屋を綺麗にしていた野口らしくなく、散らかっている。 乱雑に乱れた床に何気なく手を伸ばして、その白いものが布だと分かる。 そのままぐいっと引っ張ると、思いの他でかい布だった。 「シーツ?なんでこんなところに。それに………」 シーツの周りにはにはまだ二、三点の布が散らばっていた。 それには、どこか見覚えが、あった。 「………」 後ろから、野口がじっと見ている気配がする。 心臓が、バクバクとまたスピードを速めてくる。 耳にも響いて、野口にも聞こえるんじゃないかってぐらい、大きい音を立てている。 「………」 顔が、体が、指先が、熱を持つ。 頭がぐるぐるする。 混乱して、考えがまとまらない。 でも、これは。 「………の、ぐち」 後ろで、衣擦れの音がする。 野口が少しだけ、動いた音だ。 「野口」 私はもう一度名前を呼んで、後ろを振り返った。 野口はリビングの入り口のところで突っ立っていた。 暗くて表情はよく見えない。 「野口、もう一回、聞く。正直に言え」 「………何」 どこか投げやりな、諦めたような、声。 私は一歩野口に近付いて、その表情を見ようと目を凝らす。 「正直に言ったら、殴らないであげる」 「………」 更にもう一歩、近づく。 野口は俯いて、床を見つめていた。 ああ、そういえばあの日、別れようと言われた時も、そうだったっけ。 こんな風に、目を逸らしていた。 「私に別れようって、言ったのはなんで?」 「………もう、いいから」 そう、もういいって言っていた。 こんな風に目を逸らしながら。 その時と違うのは、野口が苦しそうに、眉を寄せているところ。 とんでもない失敗をして、怯える子供のように頼りない顔をしているところ。 「なんで、もういいって言ったの?」 ああ、この変態。 変態。 最低の変態野郎。 とんでもない馬鹿の、変態野郎。 「ねえ、なんで?」 この家で、野口の看病をして一晩過ごした。 そして野口と寝て、シャワーを浴びて、シャツを借りて、一時話した。 穏やかで、くすぐったくなるような、時間。 「野口?」 床に散らばった、白いシーツ、シャツ、タオルケット。 見覚えがあるのは、当然。 それは、全て私がこの家で、身に着けていたもの。 「………」 「野口」 また一歩近づく。 もう手を伸ばせば、野口に届く距離。 見上げると、野口は、苦しそうに、一回あえいだ。 「野口」 そして、白状した。 「あんたの手足をもいで目と喉潰して拉致監禁したくなったから」 ああ、最低だ。 最低の変態。 本当に変態の馬鹿野郎。 どんだけ最低の変態の馬鹿野郎なんだろう。 私は。 こんな言葉が、泣きたくなるぐらい、嬉しいなんて。 |