美香の部屋は、シンプルでさっぱりしている。
かわいい小物もあったりするけど、アースカラーでまとめられた部屋にはあんまり無駄がない。
淹れてくれた麦茶をすすって、唇を湿らす。
美香は興味津々に私の言葉を待っている。
その好奇心に充ち溢れた表情には、ため息が出てしまう。

「美香はさ」
「うん?」
「藤原君といて、自分が嫌になることって、ない?」
「嫌になること?」

美香はさも不思議そうに首を傾げている。
女らしい仕草と外見に反して、美香はどこまでもさっぱりしてかっこいい。
こんな不安なんて、きっと、浮かぶこともないんだろうな。

前だったらきっと、こんな悩み、美香に言えなかった。
自分を強く見せたくて、悩みなんてないって思わせたくて、弱音なんて吐けなかった。
でも、今は美香にこんな本音が漏らせる。

「私は、野口といると、自分が嫌になってくる」
「なんで?」

本当に不思議そうだ。
自己嫌悪とか、感じたことあるのかな、この女。
いいなあ、美香は。

「なんか、野口の顔色窺ってばっかりで、疲れる。そんな自分にイライラする。あいつに嫌われたくないって考えて、何も出来なくなっちゃう。そんな自分が本当に嫌」

うじうじうじ、考えてしまう。
もっと楽に考えて、もっと楽しく過ごしたいのに。
ちょっと話しただけで、とんでもない労力。
くたくたに疲れてしまう。
何も楽しくない。
それでそんな自分が嫌になってしまう。

「………」

無言になった親友に視線を向けると、美香はなんかにやにやしていた。
うわ、いやらしい笑い方。
でもこんな笑い方でもかわいいからずるい。

「何?」
「由紀って、本当にかわいいよねえ」
「な!」
「超女の子って感じ!」

時々美香はそんなこと言う。
まあ、女の子っていったら女の子かもしれない。
違うな、野口の言葉でいえば、女、だ。
本当に女の嫌なところばっか集めたような私。
女のいいところばっか集めたように美香に。
ずるいなあ。
いいな。

「私そんなこと考えないもん。むしろ藤原君が私に合わせてって感じ。まあ、嫌なことはしないように、とは思ってるけどね。お互いちょっとずつ譲歩して、大事なところは譲らなくてって感じでいいんじゃないかなあ。普通でいいんじゃない?」
「普通が、分からなくなっちゃった」

今まで、どうやって話してたんだっけ。
どうやって接していたんだっけ。
分からない。
もう、分からなくなってしまった。
普通ってなんだっけ。

「ほんっとーにかわいいなあ、もう!」
「ちょ、やめてよ!」

美香が私に抱きついて、頭をぐしゃぐしゃにしてくる。
せっかくまとめたのに、なにしやがんだ。
ほんと、美香っていい匂いがする。
香水かな。
使っているシャンプーかな。
何つけてんだろ。
こんなにさっぱりしているのに、こんなに女の子らしい。

「私が野口君だったらそんなこと言われたらもうメロメロだけどなあ」
「………面倒じゃ、ないかな。つまらなくないかな」

床にしかれたベージュのラグを見ながら、弱音を吐いてしまう。
こんなつまらない奴、すぐ飽きちゃわないかな。
ただでさえ三番目に好きな奴。
ただでさえあんな変人。

「私に聞いてもしょうがないよ。野口君に聞けば?」

けれど美香はあっけらかんとそう言った。
だって、私じゃ解決できないもんって言いながら。
そりゃそうだけどさ。
なんかもっとあるだろうよ。
愚痴ぐらい聞いてくれてもいいのに。

でも最後に、私はそんな由紀が好きだけどねって言ってはくれたけど。



***




もやもやもやもや、やっぱり胸が重いまま。
隣を歩く眼鏡の男の一挙手一投足に反応して、びくびくしてしまう。
何を言ったらいいのか。
どんな行動をしたらいいのか。

今日も部活帰りに迎えに来てくれた。
それのお礼を私は言ったっけ。
でもわざわざ言うのもなんだか癪だし、恥ずかしい。
でも言わないないなんて失礼。
そうやってずっとぐるぐるして、結局黙り込んでしまう。
こんなの逆につまらないって思われる。

夕暮れの道の周りは空き地ばかりで、人はいない。
この静けさが、逆に困る。

「どうしたの?」

黙り込んだ私に、野口が顔を覗き込んでくる。
顔が接近して来て、心臓が嫌な感じに跳ね上がる。

「三田?」
「あの、さ………」

何を言ったらいいのかな。
何を聞いたらいいのかな。
分からない。
私のこと、嫌じゃないだろうか。
まだ、好きだと言ってくれるだろうか。

「………私のこと、好き?」

繰り返し確認してしまう、弱い弱い私。
私の言葉に、野口はやっぱり皮肉げに唇の端を持ち上げる。

「また聞きたがるんだ。好きだよ。お望み通り、何度も言ってあげる。あんたが好き」

からかうように馬鹿にするように言う言葉は、いつものこと。
前は腹立っていたのに、いや今も腹立ってるけど、でも今はこの言葉にほっとしてしまう。
悔しい。
こんなの、私だけがぐるぐるしてるなんて、嫌だ。

「………面倒じゃない?私、なんもとりえがなくてつまらないよ?」
「それは否定を期待した答えかな?どうしてほしい?言ってほしい言葉をあげる」

本当にこいつはどこまでも根性が悪い。
冷たい、感情が見えない目は、獲物を見つけた猫のように細められている。
否定は、確かに欲しい。
欲しいよ。
でも、これは、たぶん、私に自信が欲しいんじゃない。
そうじゃない。
ただ。

「………そういうのじゃなくてっ」
「自分を肯定してほしいってのは、よく分かる。無条件に肯定されたいよね。別に恥じることじゃないでしょ?」

違う、そうじゃない。
そうじゃないのに。
どうしてそう決めつけるんだ。
確かに私は何もしないくせに人に認めたがられるいじましい性格をしている。
でも、今はそうじゃないんだ。

「………っ」
「泣く?」
「泣かない!」

からかうように言う男に、即座に言い返す。
泣いてたまるか。
こんなことで泣いてたまるか。
負けて、たまるか。

哀しみと悔しさが、怒りに変わっていく。
そうだ、どうしてこんな奴に泣かされなきゃいけないんだ。
こんな奴に嬲られなきゃいけないんだ。
負けて、たまるか。
私は唇を噛みしめて、顔に力を入れる。
立ち止まって、眼鏡の性格のものすごく悪そうな男に視線を合わせる。

「やっぱ、やだ!」
「何が?」
「あんたといると、疲れる!」

野口がぱちぱちと何度か瞬きをする。
特に傷ついた様子とかはない。
ただちょっと驚いたようだ。

「そう?」
「あんたの顔色気にして、あんたの言葉いちいち気にして、ぐじぐじする自分がやだ!あんたなんてやだ!」
「ふーん?」

小さく笑って、首を傾げる。
その余裕ある態度にもむかつく。
むかつくむかつくむかつく。

「あんた優しいことなんて言ってくれないし、あんたが面倒なんじゃないかってびくびくして暮らすの、やだ!」

私ばっかり悩んで、私ばっかり苦しんで、なんか私ばっかり損してる気がする。
損得じゃないんだろうけど、でも、こんなのやだ。
もっと楽になりたい。
もっと楽しくなりたい。
藤原君の時はどこか最初から諦めていた。
手の届かない人だと思っていた。
だから、辛くても、仕方ないのだと思っていた。
でも、野口は違う。
この前まで、対等に話せていたのに。
こんなのずるい。

「疲れる、もうやだ!前みたいなのがいい!」

ためこんだ感情が堰き切って溢れだす。
一人でぐるぐるして、一人でキレて、最低だ。
でも、もう、考えるの疲れた。

「もうやだ、あんたなんてやだ!」

手を強く握りしめて、アスファルトを見つめて叫ぶ。
もうどうにでもなれ。

「………」
「………」

そう思ってるのに、沈黙が怖い。
野口の反応が怖い。
熱くなっていた頭が急激に冷えていく。
手が震える。
私に飽きるなら、早く飽きてくれ。
こんな風に悩み続けるのは、もう疲れた。
さっさと終わらせて楽になりたい。

「たまらないね」

聞こえてきた答えは、そんな静かな声。
特に怒った様子もないから、覚悟を決めて、恐る恐る顔を上げる。

「……何が」

私の問いに、野口は応えず問いで返してくる。
その顔は嬉しげに笑っている。
やっぱりどこまでも性格が悪そうだけど。

「なんで?」
「………へ?」
「なんで俺の顔色気にするの?」

くるりと体を私に向けて、首を傾げて聞いてくる。
楽しげに声が少し弾んでいる。

「………だって、あんたが面倒だって、思ったら」
「嫌?だからなんで?俺に面倒だって思われるの、どうして嫌なの?」
「それは」

だって、それは、面倒だって、疲れるって、つまらないって思われたら、嫌だ。
なんでって、なんでも、嫌だ。
何が言いたいんだ、この男は。

「面倒だって思われて、嫌われるのが嫌なんだよな」
「………」
「今まで三田は俺なんてどうでもいいって思ってた。嫌ってた。だからなんでも言えた。それが楽だった」

そうだ、こいつのことなんて、どうでもよかった。
性格極悪の藤原君の友人、それだけだった。
こいつのことが嫌いだったから、どう思われようとどうでもよかった。
だから、一緒にいるのが、とても楽だった。

「でも今は違うよな?俺に嫌われたくない。なんで?」
「………」
「自分を肯定してくれる人間を手放したくない?」

こいつに好きだって言われるのは、確かに、嬉しい。
でも、それだけなのだろうか。
そうなのだろうか。
否定はすぐにやってきた。

「それもあるかもね。でもそれだけじゃないよな。肯定だけしてほしいなら、こんな回りくどいことばかり言う面倒な男じゃなくてもいいんだから」

そこで野口が一歩私に距離を詰める。
薄く笑いながら、吐息が触れるほどの距離で、耳元で声を吹き込む。

「ね、三田、なんで?」

野口に面倒って思われたくない、疲れるって思われたくない、嫌いだって思われたくない。
それは結局、答えは一つ。
突き付けられた答えに、また頭が熱くなる。
本当にこいつは、性格が悪くて、大嫌いだ。

「………あんたなんて、だいっきらいだ!」

野口がするりと私の方に腕を回す。
少しだけ上にある目が、私を見下ろす。

「三田、好きだよ。大好き。ねえ、もっと俺のことで苦しんで、泣いて、喚き散らして」
「………」
「好きだよ。あんたが望むなら何度でも言うよ。安心して、そして不安になって、ぐちゃぐちゃになって、頭の中、俺でいっぱいになって」

平坦な声で、でも楽しげな言葉。
その中身は本当に変態で最低。
なんでこいつはこういう言い方しかできないんだろう。
それなのに、この手が振り払えない。

「ねえ、三田、キスしていい?」
「………っ」
「キスしていい?」

言葉に詰まると、再度聞かれる。
けれどやっぱり応えられずにいると、野口はもう一度聞いてくる。

「ねえ、いい?」
「な、んで………」

いつもは勝手にするくせに、今日はなんでこんなしつこく聞くんだ。
顔が熱い。
野口が触れたところが熱い。
見ていられなくて、顔を逸らす。

「承諾してからにしろって言っただろ?」

そうだ、確かに私はそう言った。
そう言ったのは私だ。
くそ、私の大馬鹿。

「だ………」
「駄目?したいな。ねえ、三田、キスしたい」

駄目って言おうとしたのをさえぎられて、野口が小さな子のようにねだる。
体の熱がどんどん上がる。
心臓が激しく打ち過ぎて、息が苦しい。

「させて」
「…………」
「ね、三田?」

分からないぐらい小さく、本当に小さく、頷く。
だって、こんなに頼まれたら、しょうがない。
意図はそのまま伝わって、野口がくっと喉の奥で笑う。
そしてその顔を更に近づけてくる。
我慢できずに、強く目を瞑る。

「………っ」

最初は額に冷たい感触。
そして、頬。
最後に唇にものすごい近い頬に触れられる。

「ご馳走様」

そっと、体が離れて行く。
酸欠で頭が痛い。
心臓が苦しい。
体の力が抜けて行く。
今すぐこの場に座りこんでしまいたい。

「これから時間ある?」
「へ?」

しかしへたりこむその前に、野口の骨ばった手が私の腕を掴む。
まだ頭が働かない私は、何を言われたか分からなかった。

「行きたいところあるんだよね。ついてきてくれない?」

そして野口は私の手をそっと引いた。





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