「ねえ、お嬢ちゃん。菅野っていうんだよね」 「………う、ん」 「ああ、よかった。お父さんとお母さんが呼んでるんだ、一緒に来てくれるかい」 公園の砂場で遊んでいたら、見知らぬおじさんが話しかけてきた。 優しいおじさんはにこにこ笑いながら、私に手を差し伸べてくる。 「パパとママが?」 「ああ、僕が呼んできて欲しいって言われてね。すぐに一緒に来てくれるかい」 「………」 私はすぐにでもそのおじさんに着いて行きそうになった。 でも、パパとママに、知らない人に着いていっちゃいけませんと口をすっぱくして言われていた。 だから、一応警戒して、聞き返す。 「パパとママ、どうしたの?」 「さあ、僕はよくわからないけど、すぐ呼んで来てくれって」 小さい私にも、このおじさんの言ってることは変だと思った。 パパはお仕事だけれど、ママは家にいる。 何かあったらママが呼びに来るだろう。 例えママがいなくても、お手伝いさんが迎えにくるはずだ。 だから、このおじさんの言ってることは変だと思った。 「ほら、早く」 そう思った途端、優しげに笑うおじさんが急に不気味に思えて、私は逃げ出したくなった。 でも、おじさんが怖くて、その場を動けなかった。 逃げ出したら、捕まってしまいそうで、動けない。 だから、私は助けを来るまで待つことにした。 「も、もうすぐ、カガ君が来るの。そうしたら、一緒に行く」 カガ君は、おうちまでスコップを取りに行っていた。 すぐに帰ってくるはずだ。 強くて頼もしいカガ君なら、こんな人すぐに追い払ってしまえるはずだ。 「駄目だよ。急いで」 「嫌!痛い!」 おじさんが私の腕をつかみ、無理矢理引っ張り立たせる。 じたばたと暴れるが、大人の男の人の手は大きくて力が強い。 「行かない!おじさん怖い!行かない!」 私は思い切り腕を掴んでいた手に噛みつく。 すると一瞬おじさんの手が緩んだので、その隙に逃げ出した。 「いてえ!このクソガキ!」 「きゃあ!!」 おじさんがポケットから大きなナイフを取り出して、私に向ける。 それを見て、本能的な恐怖で頭が真っ白になった。 「嫌!嫌だ!」 何かを考える暇もなく、私は公園の外に向かって駆けだす。 後ろから追ってくる恐ろしいものから、逃げ出すために。 「パパ、ママ!カガ君!パパ!パパ!」 私を守ってくれる人を呼びながら、泣きながら走る。 けれどただでさえ鈍くさい私の足は遅く、後ろを振り向くとさっきの優しい顔をしたおじさんが、まるで別人のような顔をしてナイフを振り回していた。 「ひぃっ!」 「黙れ、ガキ!」 おじさんのナイフがギラギラと凶暴に光って私は目を瞑る。 ただ、必死にパパとママとカガ君の名前を呼んだ。 ガタンガタンと電車の揺れに弄ばれて、私は右に行ったり左に行ったり。 その度に隣の人にごめんなさいと謝って、どうにか踏ん張ろうとする。 いっそぎゅうぎゅうに混んでいたら、揺れる暇もなくて楽なのに、なんて思う。 「水葉」 その時カガ君の声が聞こえて、腕が引き寄せられる。 周りの人から庇うように、そして私のバランスを取ってくれるように手を握る。 カガ君の手は、ひやりと冷たい。 「あり、ありがと」 「じっとしてろ」 上を向いてお礼を伝えるけれど、カガ君はそっけなくそれだけ言った。 昔から変わらない、優しくて、怖いカガ君。 カガ君の傍にいると、怖いけれど、ほっとするのだ。 カガ君を見上げると、整った綺麗な顔がまっすぐに前を見ていた。 斜め前の女の人がカガ君に見とれているのが分かる。 カガ君は背も高くて格好良くて頭もよくて運動神経もいい、完璧な男の子だ。 昔から格好良くて頼もしかったけれど、最近ますます格好良くなった。 それなのに、私なんかの傍にいてくれる。 傍にいてくれるのに、とても遠く感じる。 女の子たちの言うことは、分かるのだ。 ただ幼馴染だからというだけで、カガ君に迷惑をかける権利は何もない。 カガ君は昔から変わらずこうして私を庇って、守って、傍にいてくれる。 ただ、幼馴染だと言うだけで。 ただ、昔のことを気に病んで。 あれはカガ君のせいでもなんでもないのに、カガ君は責任を感じている。 離れなければと思うものの、そうすると一人ぼっちになってしまうので、カガ君の優しさに甘えっぱなしだった。 いつまで、私はカガ君に迷惑をかけているのだろう。 私はいつまでこうして人に迷惑をかけて生きて行くのだろう。 ただここにいるだけで、私は人に迷惑をかけている。 もう嫌だ。 嫌なんだ、こんな生活。 私が消えても、誰も困らない。 私が消えれば、皆自由になる。 私が消えたら、皆喜ぶ。 カガ君だって自由になれる。 叔母さんだって自由になれる。 ここには私を愛してくれる大好きなパパとママもいない。 私を愛してくれる人は、誰もいない。 パパとママのところに行きたい。 でも臆病な私は怖くて行けない。 だからお願いします、蛇神様。 どうか私を、連れて行ってください。 私はもう、ここにいたくないんです。 「あれ、水葉ちゃん、どうしたの」 「あ、蛇穴君」 校舎の前でカガ君を待っていると、蛇穴君が笑いながら近づいてきた。 蛇穴君がこの学校に来てからもうそろそろ二週間。 学校ではあまり話さないけれど、夜のお散歩はもう最初の時をいれて、6回も一緒に歩いた。 結局あれから蛇神様に近づく話は出ないけれど、蛇穴君と話しているのはとても楽しい。 穏やかな蛇穴君と話していると、落ち着いた気分になれる。 それと同じぐらいドキドキするんだけれど、決して悪い気分ではない。 私を急かしたりしない、馬鹿にしたりしない、変な目で見たりしない。 蛇穴君は、私をとても普通に扱ってくれる。 「帰らないの?」 「あ、か、カガ君、待ってるの」 カガ君は今日はクラスの用事で遅くなっているのだ。 先に帰ると言ったのだけれど待っていろと言われてしまった。 もう行き帰りぐらい、一人でいても平気なのに。 運動神経もいいのだから、カガ君は部活でもやってほしい。 もっともっと、学校生活を楽しんでほしい。 私のことなんて放っておいていいのだ。 私からは寂しくて離れられない。 だから、カガ君から離れて欲しいなんて、我儘なことを考える。 「カガ君?」 「あ、えっとね、3組の、磯良君って言って」 「ああ、分かった。いっつも水葉ちゃんと一緒にいる奴か」 「う、うん、そ、そう」 行きも帰りも一緒の私たちは、いつも一緒だと思われている。 だからこそ、カガ君を好きな女の子たちに怒られてしまうのだけれど。 「………その、磯良って奴、水葉ちゃんの彼氏?」 少しだけ声を低くして、蛇穴君が聞いてくる。 その言葉に私は慌てて首を横に振った。 「ち、ちが、違うよ!」 カガ君に申し訳ないという気持ちと、蛇穴君に誤解されたくないという気持ち、どっちが大きかったのだろう。 自分でも、よく分からない。 「本当に?」 「あ、ありえないよ!」 「そっか」 あんなに完璧なカガ君と私が、恋人になるなんて、あり得ない。 カガ君は私に嫌々付き合ってるだけなのだから。 蛇穴君が悪戯っぽく笑う。 「いつも一緒にいるから、心配しちゃった」 「あ、あの、あ、え」 その言葉の意味を計りかねて、頭が真っ白になってしまう。 そんなことを言われると、勘違いしてしまいそうだ。 そしていつものように舌をもつれさせる私に、蛇穴君が穏やかに笑った。 「落ち着いて」 言われて、私はすーはーと深く呼吸を繰り返す。 とにかく、こんな誤解はカガ君にも悪いだろう。 落ち付いて、ゆっくりと説明する。 「カガ君、磯良君はね、幼馴染、なの。生まれた時から、お隣さんなの。それでね、昔から、面倒見てくれるの」 「幼馴染なだけで?」 「………昔、昔ね」 ただの幼馴染だったのなら、よかったのだ。 それなら、きっと中学校上がる頃には、お互い性別も違うしバラバラになっただろう。 けれど、あの出来事が、カガ君を今も縛っている。 「うん?」 「私、誘拐されそうに、なった時があって、その時カガ君が傍にいて、それで、カガ君が、ギリギリで見つけてくれたから、助かった。だから、よかったんだけど、でも、その時のこと、今でも、カガ君、気にしてて。だから、今も、面倒見てくれる、の」 「………へえ。責任感が強い奴なんだね」 「うん。そう、ずっと、気にしててくれるの」 あの時のことがなければ、もっと私たちは楽でいられただろう。 私も昔のように純粋にカガ君が好きでいられただろう。 でも今はただ申し訳なさと罪悪感でいっぱいだ。 私はもうあの時のことを気にしていない。 だから、カガ君も気にしなくて、いいのに。 「水葉ちゃん、危ない!」 「え」 そんなことを考えていたら、急に背中を押された。 はずみでその場に転んでしまうと、すぐ傍でドスっと何か重い音がした。 その音にびっくりして、体が震える。 「………っ」 何が起こったのか分からなくて、私は地面に膝をついたまま瞬きを繰り返す。 すると優しく温かい手が、私の肩をそっと抱く。 「大丈夫?怪我はない?」 「だ、大丈夫」 ゆっくり立たせてくれる蛇穴君に甘えながら、反射的に応える。 何がなんだか分からない。 気が付いたら、転んでいた。 「危ないな。誰が落としたんだ。下手したら大事故だ」 「………」 言われて、私が今いた場所に視線を落とす。 そこには重くて堅そうなハードカバーの本が落ちていた。 それでようやく理解する、あれが上から落ちてきて、蛇穴君が私を庇ってくれたのだ。 地面を抉っているその本を見て、恐怖がじわじわと沸いてくる。 あれが当たっていたら、タダでは済まなかっただろう。 「水葉ちゃん、平気?」 蛇穴君がそっと頬を撫でてくれて、自分がカタカタと震えていることに気付いた。 私は慌てて何度か深呼吸をする。 「あ、あ、ありがとう」 「大丈夫だよ。安心して。俺がいるから」 柔らかな言葉と共に、慰めるように頭を撫でられた。 何度も何度も優しく頭を撫でてもらっていると、徐々に堅くなっていた心が、落ち着いてくる。 「さらぎ、くん、ありがとう」 「………君のその背中に誓って、俺が守るよ」 「え」 小さく囁かれた言葉に、耳を疑う。 私は顔をあげて蛇穴君に今の言葉の意味を聞こうとするが、その前によく知った声が響く。 「水葉!」 声の方を見ると、カガ君が怖い顔でこちらを睨みつけて早足で近づいてくる。 その顔を見ただけで、条件反射でビクビクとしてしまう。 カガ君は、怖い。 「あ、カ、カガ君」 肩を抱かれて頭を撫でられていた私を、カガ君が蛇穴君から引き離す。 そしてそのきつい目で、蛇穴君を睨みつけた。 そう言えば、カガ君は蛇穴君をよく思っていなかったのだ。 近づくなと言われてから、カガ君の前では話さないようにしていたのだけれど、この状況はまずかったかもしれない。 「………お前、蛇穴だっけ?」 「うん、えーと、磯良君?よろしくね」 「………ああ」 不機嫌そうにカガ君が、目を細める。 そのあまり友好的でない態度に、こっちがハラハラして来てしまう。 幸い、蛇穴君はあんまり気にせずいつものように穏やかに笑っているのだけれど。 「………なんだ、これ」 カガ君が私の足元にある本に気付いたのか、眉間にしわを寄せる。 「お、落ちて、来て」 「大丈夫か!?」 「さ、蛇穴君が、庇って、くれたよ」 慌てて私に怪我がないかを確かめるカガ君に、私は蛇穴君のおかげで怪我がなかったことを伝える。 するとカガ君はしばらく間を置いてから、やっぱり不機嫌そうに頷いた。 「………そうか」 それからもう一度蛇穴君に向かう。 「悪かったな、蛇穴」 「ううん。水葉ちゃんに怪我がなくてよかった」 その蛇穴君のなんでもない言葉に、なぜかカガ君がますます眉間の皺を増やす。 なんだろうと思っていると、カガ君が私を見下ろした。 「水葉ちゃん?」 蛇穴君の親しげな呼び方が、気になっていたらしい。 近づくなと言われていたのに、近づいていたことがばれてしまっただろうか。 「あ、え、あ」 「水葉」 頭が真っ白になっていると、その時鞄の中から着メロが流れ出す。 私は天の救いとばかりに鞄に飛びついた。 「あ、で、電話」 着信は勝田さんからだった。 カガ君の目から逃れるように、後ろを振り向いて携帯を耳に当てる。 「は、はい」 『水葉ちゃん?今学校の近くにいるんだけど、まだ学校にいるかい?それなら送るよ』 いつもは遠慮するところなのだが、その時は思いっきり頷いたのだった。 |