次の日の朝。 警戒してホームの大分後ろに立っていた。 けれど電車が来て近づこうとした時、また誰かが私の背中を押した。 「ひっ」 しかし前の人の背中にぶつかるだけで、それ以上の危険はなかった。 勇気を振り絞って後ろを振り返るが、皆電車に乗るのに必死で、不審な動きをしているような人はいない。 立ち止まる私を邪魔っけに舌うちして、電車の中に吸い込まれていく。 私はその場に立ちつくしたまま、電車を一本見送ってしまった。 「今日は何もなかった?」 「だい、大丈夫」 学校に着いて早々に、学校ではあまり話さないようにしている蛇穴君が話しかけてきた。 周りの人達が怪訝そうに私たちを見ている。 特に女子の視線が、睨みつけるようで、落ち着かない。 「本当に?」 「ほ、ほんと、う」 でも一瞬口ごもってしまった私に気付いたのだろうか。 蛇穴君が心配そうに眉を寄せて、小さな声で囁く。 「やっぱり来週からは、迎えも行くよ」 「わ、悪いよ」 「駄目」 私の拒否は、けれど蛇穴君らしくない強い言葉で遮られる。 思わず黙ってしまうと、蛇穴君が真剣な目でじっと私を見つめていた。 「俺が、君を守るんだから。それが俺の役目なんだから」 胸がきゅうきゅうと、引き絞られるように痛い。 苦しくて、涙が出てしまいそうだ。 「………ねえ、水葉ちゃん」 「な、何?」 蛇穴君が、更に声のトーンを落とす。 そして辺りを少しだけ見回す。 「………」 「蛇穴君?」 蛇穴君らしくない苦しげな顔に、心配になって名前を呼ぶ。 しばらく迷うように視線を彷徨わせてから、蛇穴君は、ぼそりと言った。 「………君に危害を加えて、一番得する人って、誰なのかな」 「え………」 「ごめんね。嫌なこと言ってる。でも、ね」 私がいなくなって、得する人。 私がいなくなったら、一番、嬉しい人。 「君に何かあったら、得するのって………」 「………」 「ごめん」 私は泣きそうだった。 哀しくて、痛くて、泣きそうだった。 「ち、がう」 違う違う違う。 そんなの、考えたくない。 そんなの、違うのだ。 「お、叔母さん」 「なあに、今忙しいの。後にしてくれる」 「ご、ごめ、ごめんなさい」 土曜日なのに叔母さんは忙しそうで、ようやく捕まえられたのは夕方だった。 けれど書斎でやっぱり忙しそうにパソコンに向かっている。 一瞬怯んでしまうけれど、それでも、今を逃したらいつになるのか分からない。 だから、すげない叔母さんに、私は、頑張って食いついた。 「す、少し、だけ、だから」 「珍しいわね。あんたがそんな風に私に話しかけるなんて。何?」 叔母さんはようやくパソコンから面倒くさそうに顔をあげた。 唾をごくりの飲み込んで、深呼吸をする。 中々話しださない私に、叔母さんは苛々したように机を爪で叩く。 その態度にも、びくびくしてしまう私が情けない。 「い、今、お仕事、大変、なの?」 「そりゃ大変よ。今だけじゃなくて、いつだって。従業員抱えてるしね。食べさせていかなきゃ。あんたには分からないだろうけど」 私には、叔母さんの苦労は分からない。 叔母さんを助けることも、出来ない。 「………」 「何よ」 でも、一つだけ、出来ることはある。 叔母さんが困ってるなら、助けることが、出来るかもしれない。 「あの」 「だから何!はっきり話しなさい!」 「ご、ごめ、ごめん、なさい。ごめんなさい」 ぐずぐずと話す私に、叔母さんはとうとう怒鳴りつける。 興奮して舌がもつれるが、何度も唾を飲み込んで、深呼吸をして、なるべくうまく話そうと、心を落ちつける。 どうしてこんなに、私は愚図なのだろう。 「お、叔母さん、会社、大変?」 「だから、なんなの」 「あの、あ、あの、お金、困ってる?」 「………は?」 「その、会社、お金、困ってるなら………私の………」 それ以上続ける前に、叔母さんはバンと音を立てて机を叩いた。 その音に、体が跳ね上がる。 「あんた馬鹿にしてるの?たまに口聞いたと思えばそれ?私に恵んでくれようって訳?」 「あ、ち、ちが、ちがくて、その」 そうじゃない。 そうじゃないのだ。 ただ、叔母さんが困ってるのなら、私が出来ることがあるのなら、叔母さんの、役に立てるなら。 「もう出て行ってちょうだい。忙しいの。あんたに関わってる暇ないわ」 けれど叔母さんはつまらなそうに鼻に皺を寄せると、パソコンに視線を戻す。 これ以上話すことはないという意志表示。 仕方なく私は部屋を出るために、後ろを振り向く。 「ああ、そうだ」 「な、何?」 けれどドアにノブをかけた瞬間、叔母さんが声をかけてくれる。 少しの希望と恐怖を持って、私は後ろを振り向いた。 叔母さんはパソコンをカタカタとリズミカルに打って、こちらを見ない。 「あの、サラギだっけ?」 「う、うん」 急に話が飛んで、意味が分からず首を傾げる。 叔母さんはそのまま声のトーンを変えずに続けた。 「あいつに近づくのはもうやめなさい」 「なっ」 「いいわね」 「な、なん、なんで、そんな」 いきなりの命令に、私はまた舌がもつれて言葉が出てこない。 叔母さんはそんな私をちらりと見て、うんざりしたようにため息をついた。 そのため息にもまた、哀しくなる。 「な、なんで………」 「………」 叔母さんがまたもう一度、ため息をつく。 頭の悪い奴の相手は面倒だというように、投げやりに。 「あの子の身元、おかしいのよ。どうにもはっきりしない。すっきりしない。とりあえずはっきりするまであの子には近づくのはやめなさい」 いつのまに蛇穴君の身元を確認したのか、なぜ確認したのか、どうしてそんなことを言うのか。 聞きたいことは一杯ある。 けれどそれ以上に、蛇穴君の身元が分からないというところに、私は意識を持ってかれてしまった。 蛇穴君の、身元がはっきりしない。 じゃあ彼は、どこから来たのだろう。 「………」 「いいわね」 私は頷くことも首を横に振ることもなく、そのまま頭を下げて部屋を出た。 少しの間のことで心が疲れきって、部屋を出た途端に大きくため息をついてしまう。 「おっと、水葉ちゃん?」 「わ!」 「ああ、驚かせてごめんね」 いつのまにか目の前に勝田さんがいた。 私が飛び上がって驚いたので、苦笑しながらぽんぽんと肩を叩いてくれる。 全然気付かなかった。 「大丈夫かい?なんか大きな声が聞こえたけど。あいつが何か言ったのかい?」 「………」 黙りこんだ私に、勝田さんは困ったようにため息をついた。 そして腰を屈めて私に視線を合わせ、優しく笑う。 「気にしないで。今会社がうまくいってないみたいで、少し機嫌が悪いんだ」 「あの、あ、か、会社、大丈夫、なん、ですか?」 「大丈夫。あいつは強い奴だ。すぐに元通りになる。後少しで金策もうまくいくだろうし。ごめんね、水葉ちゃんを傷つけたかもしれないけど、あいつは本当は優しい奴なんだ」 いつも繰り返す、勝田さんの言葉。 私にだって、分かっているのだ。 こんな優しい勝田さんという恋人がいる叔母さんは、きっと優しい人なのだろう。 「ただ、ちょっと不器用なだけなんだよ。だから許してやって」 そうだ、叔母さんは優しい人なのだ。 だから信じたい。 信じられる。 信じよう。 「どうしたの、水葉ちゃん。やっぱり暗い顔してる」 「………」 今日もメールが来て、夜のお散歩に私たちは飛び出す。 月明かりの下、色素の薄い蛇穴君はなんだか光っているように見える。 その光景がとても非現実的で、とても遠く感じた。 「ねえ、蛇穴君。わ、わたし、遠くへ、行き、たいよ」 「………水葉ちゃん」 だから、今まで誰にも言ったことのない言葉が、つい出てきてしまう。 我慢できなくて、零れてしまう。 「もう、ここは、嫌だよ。ここに、いたくない」 苦しいことも、辛いことも、哀しいことも、もう嫌だ。 もう、疲れた。 もう何も考えたくない。 考えれば考えるほど、嫌なことばっかり。 何も考えなくて済む場所へ行きたい。 ここでないどこかへ、行きたい。 「俺が一緒にいても?」 「………それでも、ここは、もう嫌だ」 「………」 私の言葉に、蛇穴君は哀しそうに顔を曇らせる。 それから少しの間目を閉じて、また開いて私をじっと見る。 その温かい手で、私の頬をそっと撫でる。 「ごめんね。でも、まだちょっとだけ、早いんだ。水葉ちゃん」 「………」 「大丈夫。俺が守る。君を、俺が守るから」 そして優しく、抱きしめられた。 温かい腕の中、胸がいっぱいになる。 苦しくて苦しくて、泣きたくなる。 この腕の中でずっと、眠っていられたら、きっと幸せなんだ。 「………あのね、誘拐犯が、出所、してくるかもしれないの。私に、恨みを、持っているかもしれない」 結局私を誘拐できないまま、捕まってしまった人。 きっと、私を恨んでいるだろう。 あの人に会うのも、怖い。 「大丈夫。また来たら、今度はもう二度と君に近づかないようにする」 「家を燃やした人達も、また来るかもしれない」 「大丈夫。そいつらからも、守る」 怖くて、体がいつのまにか震えていた。 それを止めるように、蛇穴君が、私をぎゅっと抱きしめる。 「君を傷つける、何もかもから、俺が守るよ」 私は苦しくて苦しくて、やっぱり我慢出来なくて、涙がこぼれてしまった。 隠すように、温かい胸に顔を埋める。 「………あり、がとう」 この苦しみも、この恐怖も、この哀しみも。 いつか消えることは、あるのだろうか。 |