次の日の朝。
警戒してホームの大分後ろに立っていた。
けれど電車が来て近づこうとした時、また誰かが私の背中を押した。

「ひっ」

しかし前の人の背中にぶつかるだけで、それ以上の危険はなかった。
勇気を振り絞って後ろを振り返るが、皆電車に乗るのに必死で、不審な動きをしているような人はいない。
立ち止まる私を邪魔っけに舌うちして、電車の中に吸い込まれていく。

私はその場に立ちつくしたまま、電車を一本見送ってしまった。



***




「今日は何もなかった?」
「だい、大丈夫」

学校に着いて早々に、学校ではあまり話さないようにしている蛇穴君が話しかけてきた。
周りの人達が怪訝そうに私たちを見ている。
特に女子の視線が、睨みつけるようで、落ち着かない。

「本当に?」
「ほ、ほんと、う」

でも一瞬口ごもってしまった私に気付いたのだろうか。
蛇穴君が心配そうに眉を寄せて、小さな声で囁く。

「やっぱり来週からは、迎えも行くよ」
「わ、悪いよ」
「駄目」

私の拒否は、けれど蛇穴君らしくない強い言葉で遮られる。
思わず黙ってしまうと、蛇穴君が真剣な目でじっと私を見つめていた。

「俺が、君を守るんだから。それが俺の役目なんだから」

胸がきゅうきゅうと、引き絞られるように痛い。
苦しくて、涙が出てしまいそうだ。

「………ねえ、水葉ちゃん」
「な、何?」

蛇穴君が、更に声のトーンを落とす。
そして辺りを少しだけ見回す。

「………」
「蛇穴君?」

蛇穴君らしくない苦しげな顔に、心配になって名前を呼ぶ。
しばらく迷うように視線を彷徨わせてから、蛇穴君は、ぼそりと言った。

「………君に危害を加えて、一番得する人って、誰なのかな」
「え………」
「ごめんね。嫌なこと言ってる。でも、ね」

私がいなくなって、得する人。
私がいなくなったら、一番、嬉しい人。

「君に何かあったら、得するのって………」
「………」
「ごめん」

私は泣きそうだった。
哀しくて、痛くて、泣きそうだった。

「ち、がう」

違う違う違う。
そんなの、考えたくない。

そんなの、違うのだ。



***




「お、叔母さん」
「なあに、今忙しいの。後にしてくれる」
「ご、ごめ、ごめんなさい」

土曜日なのに叔母さんは忙しそうで、ようやく捕まえられたのは夕方だった。
けれど書斎でやっぱり忙しそうにパソコンに向かっている。
一瞬怯んでしまうけれど、それでも、今を逃したらいつになるのか分からない。
だから、すげない叔母さんに、私は、頑張って食いついた。

「す、少し、だけ、だから」
「珍しいわね。あんたがそんな風に私に話しかけるなんて。何?」

叔母さんはようやくパソコンから面倒くさそうに顔をあげた。
唾をごくりの飲み込んで、深呼吸をする。
中々話しださない私に、叔母さんは苛々したように机を爪で叩く。
その態度にも、びくびくしてしまう私が情けない。

「い、今、お仕事、大変、なの?」
「そりゃ大変よ。今だけじゃなくて、いつだって。従業員抱えてるしね。食べさせていかなきゃ。あんたには分からないだろうけど」

私には、叔母さんの苦労は分からない。
叔母さんを助けることも、出来ない。

「………」
「何よ」

でも、一つだけ、出来ることはある。
叔母さんが困ってるなら、助けることが、出来るかもしれない。

「あの」
「だから何!はっきり話しなさい!」
「ご、ごめ、ごめん、なさい。ごめんなさい」

ぐずぐずと話す私に、叔母さんはとうとう怒鳴りつける。
興奮して舌がもつれるが、何度も唾を飲み込んで、深呼吸をして、なるべくうまく話そうと、心を落ちつける。
どうしてこんなに、私は愚図なのだろう。

「お、叔母さん、会社、大変?」
「だから、なんなの」
「あの、あ、あの、お金、困ってる?」
「………は?」
「その、会社、お金、困ってるなら………私の………」

それ以上続ける前に、叔母さんはバンと音を立てて机を叩いた。
その音に、体が跳ね上がる。

「あんた馬鹿にしてるの?たまに口聞いたと思えばそれ?私に恵んでくれようって訳?」
「あ、ち、ちが、ちがくて、その」

そうじゃない。
そうじゃないのだ。
ただ、叔母さんが困ってるのなら、私が出来ることがあるのなら、叔母さんの、役に立てるなら。

「もう出て行ってちょうだい。忙しいの。あんたに関わってる暇ないわ」

けれど叔母さんはつまらなそうに鼻に皺を寄せると、パソコンに視線を戻す。
これ以上話すことはないという意志表示。
仕方なく私は部屋を出るために、後ろを振り向く。

「ああ、そうだ」
「な、何?」

けれどドアにノブをかけた瞬間、叔母さんが声をかけてくれる。
少しの希望と恐怖を持って、私は後ろを振り向いた。
叔母さんはパソコンをカタカタとリズミカルに打って、こちらを見ない。

「あの、サラギだっけ?」
「う、うん」

急に話が飛んで、意味が分からず首を傾げる。
叔母さんはそのまま声のトーンを変えずに続けた。

「あいつに近づくのはもうやめなさい」
「なっ」
「いいわね」
「な、なん、なんで、そんな」

いきなりの命令に、私はまた舌がもつれて言葉が出てこない。
叔母さんはそんな私をちらりと見て、うんざりしたようにため息をついた。
そのため息にもまた、哀しくなる。

「な、なんで………」
「………」

叔母さんがまたもう一度、ため息をつく。
頭の悪い奴の相手は面倒だというように、投げやりに。

「あの子の身元、おかしいのよ。どうにもはっきりしない。すっきりしない。とりあえずはっきりするまであの子には近づくのはやめなさい」

いつのまに蛇穴君の身元を確認したのか、なぜ確認したのか、どうしてそんなことを言うのか。
聞きたいことは一杯ある。
けれどそれ以上に、蛇穴君の身元が分からないというところに、私は意識を持ってかれてしまった。
蛇穴君の、身元がはっきりしない。
じゃあ彼は、どこから来たのだろう。

「………」
「いいわね」

私は頷くことも首を横に振ることもなく、そのまま頭を下げて部屋を出た。
少しの間のことで心が疲れきって、部屋を出た途端に大きくため息をついてしまう。

「おっと、水葉ちゃん?」
「わ!」
「ああ、驚かせてごめんね」

いつのまにか目の前に勝田さんがいた。
私が飛び上がって驚いたので、苦笑しながらぽんぽんと肩を叩いてくれる。
全然気付かなかった。

「大丈夫かい?なんか大きな声が聞こえたけど。あいつが何か言ったのかい?」
「………」

黙りこんだ私に、勝田さんは困ったようにため息をついた。
そして腰を屈めて私に視線を合わせ、優しく笑う。

「気にしないで。今会社がうまくいってないみたいで、少し機嫌が悪いんだ」
「あの、あ、か、会社、大丈夫、なん、ですか?」
「大丈夫。あいつは強い奴だ。すぐに元通りになる。後少しで金策もうまくいくだろうし。ごめんね、水葉ちゃんを傷つけたかもしれないけど、あいつは本当は優しい奴なんだ」

いつも繰り返す、勝田さんの言葉。
私にだって、分かっているのだ。
こんな優しい勝田さんという恋人がいる叔母さんは、きっと優しい人なのだろう。

「ただ、ちょっと不器用なだけなんだよ。だから許してやって」

そうだ、叔母さんは優しい人なのだ。
だから信じたい。
信じられる。

信じよう。



***




「どうしたの、水葉ちゃん。やっぱり暗い顔してる」
「………」

今日もメールが来て、夜のお散歩に私たちは飛び出す。
月明かりの下、色素の薄い蛇穴君はなんだか光っているように見える。
その光景がとても非現実的で、とても遠く感じた。

「ねえ、蛇穴君。わ、わたし、遠くへ、行き、たいよ」
「………水葉ちゃん」

だから、今まで誰にも言ったことのない言葉が、つい出てきてしまう。
我慢できなくて、零れてしまう。

「もう、ここは、嫌だよ。ここに、いたくない」

苦しいことも、辛いことも、哀しいことも、もう嫌だ。
もう、疲れた。
もう何も考えたくない。
考えれば考えるほど、嫌なことばっかり。
何も考えなくて済む場所へ行きたい。
ここでないどこかへ、行きたい。

「俺が一緒にいても?」
「………それでも、ここは、もう嫌だ」
「………」

私の言葉に、蛇穴君は哀しそうに顔を曇らせる。
それから少しの間目を閉じて、また開いて私をじっと見る。
その温かい手で、私の頬をそっと撫でる。

「ごめんね。でも、まだちょっとだけ、早いんだ。水葉ちゃん」
「………」
「大丈夫。俺が守る。君を、俺が守るから」

そして優しく、抱きしめられた。
温かい腕の中、胸がいっぱいになる。
苦しくて苦しくて、泣きたくなる。
この腕の中でずっと、眠っていられたら、きっと幸せなんだ。

「………あのね、誘拐犯が、出所、してくるかもしれないの。私に、恨みを、持っているかもしれない」

結局私を誘拐できないまま、捕まってしまった人。
きっと、私を恨んでいるだろう。
あの人に会うのも、怖い。

「大丈夫。また来たら、今度はもう二度と君に近づかないようにする」
「家を燃やした人達も、また来るかもしれない」
「大丈夫。そいつらからも、守る」

怖くて、体がいつのまにか震えていた。
それを止めるように、蛇穴君が、私をぎゅっと抱きしめる。

「君を傷つける、何もかもから、俺が守るよ」

私は苦しくて苦しくて、やっぱり我慢出来なくて、涙がこぼれてしまった。
隠すように、温かい胸に顔を埋める。

「………あり、がとう」

この苦しみも、この恐怖も、この哀しみも。
いつか消えることは、あるのだろうか。





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