「いいか、水葉。多分、水葉にはこれから嫌なことがいっぱいあると思う」
「パパ?」

ある日パパが、少しだけ真面目な顔をして言った。
いつもおどけて笑っているパパの、そんな顔が珍しくて私は首を傾げる。

「お前はもしかしたら、人より苦労するかもしれない」
「どうして?」
「人より、恵まれているから」
「恵まれている?」
「ああ、格好いいパパに、綺麗で優しいママ!そして水葉はかわいく賢い!人に羨ましがられるに決まっている!」

力強く断言するパパに、私はおかしくてくすくすと笑う。
パパも笑いながら、水葉かわいいからな!と言って抱きしめてくれる。
それから言い聞かせるように優しく言う。

「だから、もしかしたら水葉は嫌な思いをすることがあるかもしれない。人よりも、苦労することが多いかもしれない」
「………パパは、守ってくれないの?」
「勿論、パパは全力で水葉を守るよ!かわいいかわいい水葉が幸せでいられるように全力で努力するさ!」

なんだか投げ出すようなことを言うので哀しくなって聞くと、パパは私の手を握って強く否定してくれる。
頼もしくて優しいパパ。
ずっと、私を守ってくれたパパ。

「パパは水葉を守ってくれる?」
「当たり前だろう!パパはママと水葉を守るために生きているんだから!!」

私は嬉しくなって、パパに思いっきり抱き付く。
パパも笑いながら、私の頬にキスを落とす。

「でも、パパも水葉にずっとついていられる訳じゃないからね」

どうしてそんなこと言うのか分からなくて、私はまた哀しくなる。
けれどパパは、穏やかに私の頭を撫でるのだ。

「でもね、水葉、嫌な思いをしても、人をあまり憎まないで。人を恨まないで」
「パパ?」
「嫌なことがいっぱいあっても、いいことの方を大事にして。嫌なことより、いいことを信じて。人の汚さより、人の美しさを信じて。憎しみよりも、優しさを信じて。人を嫌いにならないで」

言っていることがよく分からなくて、私は意味を聞くようにパパを見上げる。
パパは困ったように笑って、頭を優しく撫でる。

「難しいかな。でも覚えておいて」
「水葉は、パパと、ママ大好きだよ。パパとママ、優しいよ」
「うん。水葉はいい子だ。パパも水葉が大好きだ」

水葉もパパが好きだともう一度言うと、パパも好きだと言い返す。
ムキになって何度も何度も二人で言い合う。

「いいかい水葉。パパとママの他にも、いっぱいいっぱい優しい人はいるからね。その人達も好きになって」
「うん!水葉ね、カガ君も好き!」
「う、うーん」

なぜかそう言うと、難しい顔をするパパ。
複雑そうに顔を顰める。

「どうしたの、パパ?」
「水葉はもう少し、パパの傍にいてくれよ」
「パパ?」

パパは何でもないと言って、まだ複雑そうな顔をしていた。
でもその後、にっこり笑って、私の頭を撫でながら言った。

「水葉にはパパとママ、それと蛇神様がついているんだ。だから幸せになれる」
「うん!」
「だから水葉、人を好きになってね」

優しい声で、パパはそう言った。



***




カガ君についていく。
ここではない場所へ連れていってもらえる。
それは、なんて魅力的なんだろう。
ずっとずっと想像していた。
人の踏み入れない深い深い山の中、不思議な人達が住む村。
そこへ、連れて行ってもらえる

「………カガ君」

差しのべられた手に、手を伸ばす。
カガ君は動かずに、じっと私を見ている。
その目は、とてもとても安心して、とてもとても怖くなる。
ああ、頭が痛い。
ズキズキズキズキ痛む。
怖い。
訳もない恐怖が、心を覆って、カガ君の手を取ることを躊躇する。
訳もない恐怖?
違う。
訳はある。

私は知っている。
そう、知っているのだ。

なんでカガ君が怖いのか。
なぜこの手を取るのを躊躇するのか。
なぜカガ君から離れたかったのか。

私は知っている。

「カガ、君。私は………」

カガ君は、じっとその黒い黒い深い色の瞳で私を見ている。
あの時のように、じっと見ている。
優しい優しい、カガ君。
私はその優しさを利用するだけの、醜い生き物。
私は蛇神様にふさわしくない。
私は、人間なのだ。
醜い人間なのだ。

「私は………」
「駄目よ!」
「え」

いきなり後ろから抱きしめられる。
叔母さんの付けている香水の匂いがふわりと香る。
ぎゅっと、痛いくらいに抱きしめられる。

「駄目!駄目よ、この子を連れていかせない!」
「お、おばさん?」

叔母さんは私を後ろから抱きしめながら、カガ君をじっと睨みつける。
この人に抱きしめてもらったのは初めてで、びっくりして動くことができない。

「駄目よ!連れて行かせない!連れて行かないで!」
「だが水葉が望んでいる」
「駄目よ!」

叔母さんが、強く強く、私を抱きしめる。
そして私の肩に顔を埋める。
剥き出しの肌に、叔母さんの温かい息がかかる。

「私の、私の、たった一人の家族なんだから!」

いつも冷静で自信満々の叔母さんの、悲痛なまでの切ない声。
じわりと、叔母さんの息が当たる場所から温かさが広がって行く。
全身に、熱が灯って行く。

「そ、そりゃ、私は子供の扱い方なんてうまくないわよ。だから水葉にも嫌われてるわよ。分かってるわよ。でも、私の姪なんだから!兄さんと義姉さんにも、誓ったんだから!この子が大人になるまで、私が育てるって、誓ったんだから!」

嫌ってなんかいない。
苦手だとは思っていた。
怖いとは思っていた。
でも、私は叔母さんをずっとずっと、尊敬していた。
ずっとずっと、仲良くなりたいと、思っていた。

「私の家族、連れて行かないでよっ!」

ああ、この感情はなんなのだろう。
胸が痛くて、泣いてしまいたい、叫んでしまいたい。
哀しみでも苦しみでもない気持ち。
温かい。
叔母さんの腕が、温かくて、気持ちがいい。
こんな温かさ、ずっとずっと、忘れていた。

「その言葉に偽りはないな」

立ち上がったカガ君が、静かに、叔母さんを見おろす。
私でさえぞっとしてしまいそうなほどに、冷たい目。

「ないわよ!」

叔母さんはそれでも怯むことなく、怒鳴りつける。
するとカガ君が呆れたように小さく苦笑した。

「ならもう少し分かりやすい愛情表現をしろ。その馬鹿には伝わらない」
「わ、分かってるわよ!これからはそうするわよ!うるさいわね!」

もう、伝わっている。
もう、伝わった。
これ以上にないほどに伝わった。
馬鹿だった私。
こんなにも愛されていることに、気付かなかった。
愛されていた。
叔母さんはこんなにも、私を愛していてくれていた。
抱きしめてくれる手は、こんなにも温かい。

「だ、そうだ。水葉、どうする?」
「あ」
「俺と共に来るか、その女とここに残るか」

カガ君が私に視線を戻し、もう一度決断を迫る。
叔母さんとここに残るか、カガ君と蛇の村に行くのか。

「………私は」

さっきまでは、カガ君と一緒に行く気だった。
未練なんて一つもなかった。
私はここにいるだけで、周りに不幸を撒き散らす。
叔母さんだって、私がいなくなった方がいいと思っていた。

けれど、この手をの温かさを知ってしまった。
そうしたら、ようやく気づけた抱きしめてくれる手を、失いたくなくなった。
でも、私はもう一つ失いたくないものがある。

「………こ、ここに残ったら、カガ君は、い、いなくなっちゃう?」

叔母さんを失いたくない。
けれど、もっと失いたくないのは、カガ君。
カガ君がいなくなってしまうのは、嫌だ。
カガ君は珍しく目を細めて優しげに笑う。

「時がくればお前を連れて行く。その日までお前を守る」
「そ、傍に、いて、くれる?」
「当たり前だ。お前は俺の花嫁なんだから」

きゅうっと胸が締め付けられるように痛くなった。
嬉しいのだろうか。
分からない。
カガ君のお嫁さんになるということがどういうことなのか、私には分からない。
でも、カガ君が傍にいてくれる。
それは、とてもとても嬉しい。
それだけは確かだ。
こんな汚い人間である私に、蛇神様は、傍にいてくれると言っている。

「………迷惑、じゃない?」
「何が?」
「わ、私が、傍に、いても、カガ君の、迷惑に、ならない?」

私は、カガ君に迷惑をかけてばかり。
カガ君のためにしてあげられることなんてなにもない。
だから傍にいたくなかった。
だから自由になって欲しかった。

「お前が大人しくしていてくれれば迷惑じゃない」
「わた、私のこと、き、嫌いじゃない?」
「嫌いだったらとうの昔に見捨ててる」

大きな白い蛇を体に巻きつけたカガ君が、私を見下ろしている。
その目には、嘘はないように思える。

「お前みたいな不運を招き寄せる厄介な人間、気に入らなければ見殺しにしている」

うんざりとしたように、忌々しげに吐き捨てる。
私の馬鹿な行動の数々に、頭を痛めていたのはいつもカガ君。
とてもとても申し訳ない気分になる。
でも、嫌いじゃないのなら、嫌じゃないのなら、傍にいることを許してくれるのなら。
それなら、一緒に、いたい。

「で、でも、じゃ、じゃあ、傍にいて、くれる?嫌にならない?」
「だからそう言ってるだろ!」
「ひっ!」

さすがにしつこかったのか、怒鳴りつけられる。
カガ君が怒るのは、いつものように怖い。

「………面倒くさいし迷惑かけられっぱなしだけれど、見捨てられないんだから仕方ない」

そしてカガ君は諦めたように、深く深くため息をつく。

「大体お前が恋愛結婚がいいとか言い出すからこんなまどろっこしい真似してるんだ」

カガ君らしくなく口を尖らせて、そっぽを向く。
なんだかその姿が少しだけ幼く見えて、心が温かくなった。
カガ君は、私の傍にいてくれる。
これまでもいてくれた。
そしてこれからもいてくれる。

「じゃあ、もう少し、ここにいる」

この世界は嫌い。
優しくない。
哀しくて痛いことばっかり。

「カガ君と叔母さんと、ここに、いたい」

でも、それでも、カガ君と叔母さんがいてくれるなら、頑張れる。
後、少し、逃げずに、頑張りたい。
パパが言ったように、いいことを信じたい。
今度はいいことを信じたい。
口先だけではなく、嫌なことばっかりを見るのではなく、いいことを信じてみたい。

「水葉!」

叔母さんが嬉しそうに、声をあげて私をまたぎゅっと抱きしめる。
その腕が温かくて温かくて、堪え切れなくて涙が一粒零れてしまった。

「あり、ありがとう、叔母さん。私も、もっと、素直に、なるね。ごめんね、ありがとう」
「………水葉」
「あのね、私ね、叔母さんのこと、好きだよ」

自然と、どもることなく、伝えられた。
叔母さんの鼻を啜る音が、すぐ後ろで聞こえる。
それがとても嬉しくて、顔が緩んだ。

「ごめん、ね、カガ君。もう少し、迷惑かける、けど、もう少しだけ、ここにいたい」
「………分かった。では今しばらく人の世に置いておこう」

見上げると、カガ君は苦笑して頷いてくれた。
そして静かに近づいてくると、私の肩に顔をうずめている叔母さんの頭をそっと撫でる。
途端に叔母さんの体から力が抜けて、ずるずると床に崩れ落ちた。
後ろを振り向くと、血に濡れてはいるが穏やかな顔で目を瞑っている。

「叔母さん?」
「眠っただけだ」

今度はカガ君が、私の頭に手をそっと置く。
ひやりとした感触は、私の体温を吸って、僅かに温かくなる。

「………私の記憶、また失くしちゃうの?」
「また?」
「カガ君が蛇神様ってこと、また忘れちゃうの?」
「その方がいいだろう。お前は嘘がつけない。分かっていると色々不都合がある」
「………そっか」
「時がくれば、思い出す」
「そっか」

覚えていたい。
この痛みも苦しみも全て、覚えていたい。

「………前の時のことは思いだしのか」
「うん」

思いだした。
前の時のことを、思い出した。
私は知っていた。
カガ君が蛇神様だということを知っていた。

「俺が、怖いか?」

カガ君がじっと私の顔を見てくる。
気のせいか、その目は少しだけ不安に揺らいでいるような気がした。

「怖く、ないよ」

確かにカガ君が怖かった。
カガ君と一緒にいると、恐怖に襲われた。
でも、それは、カガ君のことが怖かったのではない。

「あのね、怖かったのは、自分なの」

カガ君が怖かったのではない。
醜い人間の私が、怖かった。
パパの言いつけを守れなかったことが、怖かった。
カガ君に迷惑をかけつづける私が、怖かった。
カガ君を利用した私が、汚くて汚くて、怖かった。
そしてカガ君に嫌われるのが怖かった。

「ごめんね、カガ君。ごめん、ね。カガ君に酷いことさせて、ごめんね」

優しいあなたを利用して、ごめんなさい。
もしかしたら傷つけていたのかもしれない。
全部全部、ごめんなさい。

「お前のせいじゃない。俺がやったんだ。お前を傷つけるものは、俺が許さない」

けれど、そっとカガ君に抱きしめられる。
いつのまにか巻き付いていた蛇は、どこかへ行ってしまっている。
懐かしい、幼馴染の腕の中。
昔と同じように、ようやくこの腕の中で心から落ち付くことが出来た。

「お前は俺の花嫁なんだから」
「………うん。大好きだよ、カガ君」

これが恋かは分からない。
蛇穴君にたいするものだって、恋ではなかった。
ただ、ここではないどこかへ行きたかっただけ。

「大好きだよ、カガ君」

でも本当はずっと、カガ君と一緒にいられればと、思っていた。
許されるなら、それでよかった。

醜い醜い私。
醜い人間の私。
パパの言いつけを守れなかった私。

でも、カガ君が私を許してくれるなら、それでいい。
カガ君が傍にいてくれるなら、それでいい。

ごめんね、パパ。
でもね、カガ君がいいなら、それでいい。
それでいいんだ。

それなら、まだ頑張れる。






BACK   TOP   NEXT