小さな古びた平屋。
一見寂れて見えるが、よく見ると手入れが行き届いているのが分かる。
2坪ほどの小さな庭には、それほど華麗ではない、けれど優美な四季の草花の姿が見えた。
それが、この家の主人の趣味を伺わせる。


庭に面した縁側を開け放し、居間から女の姿が見える。
女はつややかな黒髪を下ろし、見事なすかし彫りの入った柘植の櫛で髪をとく。
薄紅色の襦袢はくつろいでいて、首元から白い肌が覗いている。


静かな朝を切り裂くように、庭の土を踏みしめる音。
それと共に聞きなれた声。
「おはようございます」
庭から入り込んできたのは若い男。
短く刈られた髪と、高い背は男の壮健さを表している。
「そっちは玄関じゃないと、何度言えば分かるんだい」
女はそちらを見もしないまま、ため息一つ、髪をとかす。
「私と貴方の仲じゃないですか」
「あんたとどんな仲にもなった覚えはないねえ。女の身支度前を覗くなんて、まったく野暮な男だよ」
「ははっ、貴方はいつだって綺麗だからいいじゃないですか。それに私は貴方の髪をといているのが好きなんだ」
女はまた一つため息をつく。
男には何を言っても無駄なことを思い知る。
野暮な男は縁側から上がりこみ、女の傍らに座り込む。
「ねえ、そろそろいい返事を返す気にはなりませんか」
「ならないねえ。いい加減諦めたらどうだい」
いつから始まったか分からない男の求婚。
いつだって袖にしているのに、男は諦める様子を見せない。
「それこそなりませんね。貴方が首を縦に振るまで百夜だって通います」
「それじゃ私は小野小町か。こりゃ光栄だ」
「私は深草少将のように、最後にしくじるようなことはしませんよ」
男は穏やかに微笑んでいる。
けれどその目は鋭く、真剣だ。
いつでものほほんとしている男らしくない、雄の顔。
「全く酔狂だね。十も年上の芸者崩れの妾後家、こんな女のどこがいいんだい」
「いつだって言っています。貴方のすべてが好きなんです」
若すぎる言葉に、女は鼻で笑う。
「大店の息子が、いつまでも遊んでいるんじゃないよ。とっとと帰って仕事をしな」
それきり顔を鏡に戻し、また髪をとかそうとする。
と、その手が引かれて畳に倒れこむ。
男が咄嗟に手で頭を受け止めたから、頭を打つことは免れた。
長い黒髪は畳に広がり、襦袢ははだけ白い足があらわになる。
肩を押さえつけられ、上に見えるのは男の顔。
「なんで分かってくれないんですか。私は貴方が好きなんです」
低く抑えた声。
熱っぽい手。
真剣な眼差し。
雄の匂い。
女は、自分の体が熱くなるのを感じる。
口にたまったつばを飲み込み、喉を上下させた。
目の前の若い男の腕に、このまま身を投げ出せたらどんなに幸せなことだろう。
しかし女は一つ笑うと、自由になる手を伸ばし、男の下腹部を思いきりつかんだ。
「うわ!いたたた!」
その隙に男の下から素早く這い出て、はだけた着物と髪を直す。
「こんないいもん持っているんだ。さっさと使って子供でもなんでもこさえておしまいよ、もったいない。ご両親を早く安心させておあげ」
男は痛みにしばらく蹲っていたが、そろそろと顔を上げると女をうらめしげに見た。
「全く貴方はひどい人だ」
「はは、そうさね。さっさと愛想つかしちまいな」
しっかりと胸元まであわせた襦袢に、男は拒絶を感じた。
大きなため息をつくと、縁側に下りていく。
「また来ます」
「また来るのかい」
呆れたようにつぶやく女。
「私は昔から諦めの悪い質なんです。貴方こそ早く諦めてくださいね」
お互い顔を見合わせる。
穏やかに微笑む男と、苦い顔をした女。
一つ挨拶をして、男は去っていった。


完全に立ち去るまで縁側を見ていた女は、傍らにあった三味を気まぐれに爪弾く。
三味は鈍い音をたてた。
「義理も人情も今日この頃は忘れて逢いたいことばかり、か」
昔馴染んだ都都逸の一説。
女は苦しいものを飲み込むように笑った。
「全く野暮な、男だよ」






TOP   2