朝もやがようやく明ける、まだ早朝といえる時間帯。
街中は騒がしく動き始めるものの、その活気から取り残されたような外れにその家はあった。
小さく古びた平屋の家は、主人の意志を守ってか、静寂を守っている。
空気に溶け込むぐらいふさわしく、そしてどこか、寂しい。

しかし、その静寂を切り裂く、場にそぐわない力強く若い足音。
垣根をかき分ける乱暴な音。

居間で鏡に向かっていた女主人は、大きくため息をついた。

「おはよ……」
「そっちは玄関じゃないと、何度いったらわかるんだい。こちらの図体ばかりがでっかいトンチキは」

庭からの闖入者が口を開く前に、そちらを向こうともしないまま厳しい言葉を投げる女。

「ははは、だって今更恥ずかしいじゃないですか。玄関から声をかけるのも」
「人様の家に勝手に上がりこむ礼儀知らずのほうがよっぽど恥ずかしいと思うけどね」
「私とあなたの仲…」

いつものお決まりの台詞を口にしようとした男が、言葉を途中で止める。
同じくいつものようにすげなく切り替えそうとしていた女が、訝しげにようやくそちらに視線を投げる。

縁側に腰掛けてこちら見ていた男は、口を開いて呆けたようにこちらを見ていた。

「なんだい、そんな馬鹿面下げて」
「……あなたに見とれてました」

いつもの傍若無人ぶりもどこへやら、男は顔を赤らめすらして、見慣れた女に目を奪われていた。
その素直な若い賞賛に、女は苦笑を浮かべる。
それは年長者としての余裕に満ちていて、男はちくりと自尊心が疼く。

「どうせなら、もっと気の利いた言葉はないのかい」
「綺麗だ。ものすごく」
「どうだい、いい留袖だろう」
「ええ、でもそれよりも、貴方がとても綺麗だ」
「全く、ちょいと洒落た文句の一つも言えないようじゃ、女1人落とせやしないよ」

率直で真っ直ぐな視線も言葉も、遊びなれた旦那衆にはなかったもので、居心地が悪くなる。
男はその目を細め、疑いのない慕情をみせる。

「でも、綺麗だ」
「それしか言えないのかい、あんないい学校に出してもらってる学士様が」
「じゃあ、今すぐ脱がしてしまいたい」

女はどこか浮ついた落ち着かなさを、大きなため息をともに吐き出すと、ぺしりと、こちらを見上げてる若い男の額を叩く。

「調子に乗るんじゃないよ」
「ひどいなあ、素直な感想なのに」
「相変わらず野暮な男だよ。そんなんじゃ、嫁を貰うもいつのことやら」
「あなた以外と、所帯を持つ気はありませんよ」

女は、今度は小さくため息をつく。
ちりりと、熱くなる体を誤魔化すように。
男の繰り返される求婚をすげなく袖にして早2年。
男は諦める様子を見せない。
その若さと馬鹿さは、時に燃えあがり、熱を持ち、女を惑わせる。
その熱は、女すら巻き込む温度を持ち、狂わせそうになる。
それは甘く、しかし苦い。

「全く、野暮な男だよ」
「あなたこそ、早く素直になってくださいよ」
「あたしゃ誰よりも素直だよ」

繰り返される求婚。
繰り返される拒絶。

しかし、今日の男は、それ以上迫ることもなく、肩をすくめ、ひいた。

「それで、今日はどこかへ行かれるんですか」

女は朝も早くから、身支度を整えていた。
普段の落ち着いた色調の紬姿ではなく、華やかな色合いの色留袖。
白羽二重をきっちりと着込み、見事に着こなしている。
金糸を縫いこんだ帯は、派手になりすぎないよう着物を引き締め、引き立てる。
結い上げた髪に珍しくかんざしが飾られ、薄化粧を施した女は、匂い立つような色香を放っていた。

「最高級の礼装じゃないですか。どなたかの結婚式か何かですか」
「ふふ、さすがに大店の息子だねえ、女の身に着けるものが分かるのはいいことだ」
「貴方に出会って、学んだんですよ」

着付けや三味を教えて生計を立てている女の家に上がりこみ、ものめずらしそうに質問ばかりしていた男。
その頃の無邪気な、まだまだ少年だった姿を思い出し、女はどこか懐かしそうに微笑んだ。

「年に一度の晴れの日さ。……ああ、そうだ。あんたも来るかい」
「え!?私も行っていいんですか」
「ああ、祝い事には人が多いほうがいいさね」

機嫌よく微笑む女に、男がそれ以上に嬉しそうに笑う。
女が男を誘うなんて、それこそ年に一度あるかないか。
無理矢理男が引っ張りだす以外、連れ合い出かけることなどない。
男は二つ返事で頷いた。



***




「それで、来たところが、墓場、ですか…」

男の意気消沈した声がおかしくて、女は小さく噴出す。
白い日傘をさし、影が落ちた白いうなじの後れ毛が、男には眩しく感じた。

「男がそんなしみったれた声を出すんじゃないよ」
「だって、ひどいじゃないですか、せっかく楽しみしてたのに」
「どこに行くのか聞かないあんたがいけないね」

くすくすと機嫌よく笑う女を見て、男がそれでも自分が嬉しくなるのを感じる。
そんな自分が少し、情けなく嬉しく哀しい。
女はいつになく上機嫌で、笑顔を崩さない。
男の軽口にも楽しそうに付き合っていた。
今日の女は、衣装のせいもあってか、どこか少女めいていて、若やいでみえた。
そんな一面にも心踊り、想いに体が熱を帯びる。
いつもすげなく追い払われることを考えれば、墓参りぐらいなんでもなかった。

「しかし、いいんですか。墓参りに留袖なんか着てきて」
「いいんだよ。これはお祝い事なんだから」
「どなたのお墓なんですか」
「三国一のロクデナシ、さ」

女が悪戯っぽく笑う。
しかし男は、その笑みにどこか苦いものが混じっているのを見て取れた。
ロクデナシ、その言葉が指すものは。

「福田屋の、旦那さんですか」
「ああ、あのどうしようもない宿六さ」
「……福田屋さんの命日は、今日でしたっけ?」
「いいや、おっ死んだ日は明日だね」
「それじゃあ」
「馬鹿だね。命日に妾が墓参りしてどうするのさ。あちらと会ってもお互い決まりが悪いだろう」

福田屋とは、男と女の住む町では結構な老舗の呉服問屋だ。
二人の言う福田屋とは、先代の主人。
女に惚れ込み、女に家を与え、置屋から引き取り、ほんの一時一緒に過ごした。
女の旦那だ。

女とは30も離れていた福田屋には、すでに妻子がいた。
遠く離れた街で芸を売っていた女は、知らずに男についてきた。
騙されたと知り、嘆き怒りを抱えても、それでもこの街に住み着いた。
本宅をいつでも慮り、ひっそりと。

福田屋が死んだ時、女は葬式にも出なかった。
男が与えた家で、静かに喪服に身を包んだ。

「………」

男は複雑な心持ちで、墓を見つめる。
その墓は他のものより立派で、手入れがよく行き届いている。
それを見つめる女の心情は、計れない。
男は唇をかみ締める。
嫉妬、悔しさ、怒り。
そして、女への哀れみ。

「ほらたんとお飲み」

女はそんな男を気にすることなく、男の腕から大吟醸を取り上げる。
一升瓶を細腕で抱え上げると、そのまま墓に振りかける。
思わず男から言葉が漏れた。

「ああ、もったいない」
「はは、そうさね。こいつにはもったいない酒だ」
「花とはいいんですか?」
「花が食べれるかね。酒と女がいれば十分だよ、こんな男」

冗談めかして言う女だが、男には分かった。
花なんか飾れば、明日くるだろう本宅が気分を害すだろうこと。
後日にしないのも、本物の家族の来た後の墓場を荒らすようでいやなのだろう。

それなのに、一番の美しい姿を、福田屋に見せるのだ。

「福田屋さんがいたら、殴りかかっていたかもしれませんね」
「おや、温厚なお坊ちゃんが珍しい」
「貴方をかけて、決闘していましたね。福田屋さんが、うらやましい」

半場本気で墓を睨みつける男を、女は苦く笑う。
男が率直に口にする想いは、いつでも女を戸惑わせる。
忘れていた熱情を、思い出しそうになってしまう。

「馬鹿だね。こんなもう終わった女なんて見限って、早く所帯をお持ちよ」
「私には、あなたしか、いませんから」
「何言ってんだか、この野暮天が」
「福田屋さんと違って、私はあなた一筋です」
「ほー、それじゃあこの前千鳥で一緒にいたかわいらしいお嬢さんはどなたなんだい」
「ええ、なんで知ってるんですか!?違いますよ、あれは店の娘で!」

必死で言い訳をする男に、女は密やかに笑う。
からかわれてると知りながら、女の誤解を恐れる男。
余裕を持つ女の笑みに、悔しく、さらに闘争心が煽られる。

酒を全部振りまくと、女は静かに手を合わせた。
男は、とりあえずそれにあわせる。
しばらくして、2人は顔をあげる。

「……福田屋さんが、今でも忘れられませんか?」
「さてね。この男には色々なことを教わったよ」

身を焦がす想いも、裏切られる苦しみも、一人にされる寂しさも。

墓参りをするたびに、その感情は生々しく女の身を覆った。

しかし、近頃、その生々しさが薄れていく。
女のすべてだった男が、過去のものとなっていく。

それはなぜかと考えるのを、女は恐れていた。

「福田屋さん、彼女のことは、私に任せてください」
「………」
「私は、あなたに負けません」

福田屋には色々なことを教わった。
身を焦がす想いも、裏切られる苦しみも、一人にされる寂しさも。

この男は、どうなんだろう。

頭一つ高い、隣の男の顔を見上げる。
まだ少年の面影を残した男。
男の身長がこんなにも高くなったのは、いつからだったろう。
気がつけば隣にいて、少し鬱陶しいぐらいに纏わり着いていた。
少年から男への成長を、傍らで見つめていた。

気がつけば、それが自然となるぐらい。
思い出そうとか、忘れるとか、そういう問題ではないくらい、自然に。

「さあ、帰りましょうか」
「ああ、そうだね」

女は白い日傘をさしなおすと、男の腕に手を絡める。

「今日は付き合ってもらったからね。何か外で食べていこう」
「え、ええ」

こんな風に接してくれるのは初めてで、気まぐれと分かっていても、男は体が熱くなる。
女はその堅い腕に、若々しい生命力を感じる。

「思い出すよじゃ惚れよがうすい 思い出さずに忘れずに」

昔馴染んだ、都都逸の一説。

「何か、言いましたか?」
「いいや、なんでもないよ。ほら、いくよ」
「は、はい」

隣の男が、教えてくれるもの。

思い出さずに、忘れずに。






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