周りから取り残されたような静けさの中にある小さな家。
庵とでも呼ぶのがふさわしいような、年季の伺える古風な、けれど手入れの行き届いたたたずまい。
朝から降り続く音のない雨が、更にこの家を忘れ去られた存在にする。
または世間の喧騒から、守っているかのような心地よい静謐。
2坪ほどの小さな庭に植えられた草木も、露を吸って力なくうなだれる。
時折雨どいを伝った大きな水滴が水溜りに落ち、不調和な音で存在を主張した。
その自然の作り出す音楽に身をゆだねて、女は気まぐれに三味を爪弾いていた。

「ねえ?」
「なんだい」

雨に閉ざされてる家には2人の人間。
女は今日も普段着用の紬をきっちり身に着けて、背筋を伸ばして座っていた。
畳にだらしなく寝そべった男が、見上げて甘えた声を出す。
目の前の想い人はどんな時でも、自分に隙を見せたりはしないことを少し寂しく思いながら。
それでも風流な長雨に、今日の女は機嫌がよく男の存在を許している。
男にとっては鬱陶しいだけの天候も、すると嬉しくなるから不思議だ。
そしてこんな雨には、思い出されることがある。

「覚えてますか、こんな雨の日でした」
「さあねえ。こっちはもう三十路も越えた女だよ。雨の日の思い出なんてそれこそ降るほどあるさ」
「またそんなつれないことを。三年前の、こんな雨の日でした」

女は無言で、けれど弦をはじく指に、少しだけ震えが走る。
かすかに混じった不協和音に、男は女が自分と同じ思いを共有してくれていること感じ嬉しそうに微笑む。

「私が貴女と出会ったのは、こんな雨の日でしたね」



***




それは男がまだ実家を遠く離れた都会の学校に通っていた頃。
長期の休みに親に顔を見せに、故郷に帰省していた時だった。
その日はすでに去った梅雨にかえったような、肌寒く湿気の多い静かな雨が降っていた。
久しぶりに会った友人と夜通し語り明かし、男は抜け切らない酒気と共に傘もささずに足早に歩いていた。
急いていたのが悪かったのか、急に右足が引っかかり男はぬかるんだ道に倒れこんだ。
咄嗟に手をつき頭から地面に突っ伏すことは逃れられたものの、泥が跳ね上がり着物は派手な模様が増えている。
何が自分を転ばせたのかと右足に視線をやり、男は小さく毒づいた。

「ああ、くそ」

鼻緒が切れた下駄を脱ぎ、眉を寄せた。
その時、ぴしゃりと水が跳ねる音がして、ただでさえ薄暗かった林の道に影が差す。
そして、少しだけかすれた凛とした声が響いた。

「どうしたんです?」
「え、あ……」

しゃがみこんだまま、後ろを振り向くとそこには和装の小柄な女。
首を傾げて朱色の唐傘を抱えなおす仕草さは洗練されていて、しかし一目で玄人と分かる婀娜っぽい色気を持ち合わせていた。
突然のことに、言葉が出てこない男に、女は男の右足を見て事情を察した。

「ああ、こいつぁ難儀なことでしたねぇ」

女は懐からするりと手ぬぐいを取り出すと、男の傍にしゃがみこむ。
ふわりと鼻をくすぐる白檀の香りに、かすかに胸が疼いた。

「履物を貸してくださいな」
「え、で、でも…」
「困った時はお互い様ですよ」

反論する暇を与えずに、すでにぬかるみに座り込んでしまっている男に傘を手渡し、女は代わりに右足の下駄を受け取る。
下駄は鼻緒がとれ、ぶらりと情けなく揺れている。
かすかに笑ってから、女は手ぬぐいを銜えて細く切り裂いた。
八重歯が覗き、思ったよりも女が若いことに気付いた。
着物でしゃがみこんだままの辛いだろう姿勢で、女は器用に手ぬぐいの切れ端を結わえていく。
男は間抜けに黙ったまま、ただそれを見ていた。
結い上げた髪の下の、白いうなじが、暗い雲の下でも鮮やかだった。

「さ、出来ましたよ」
「あ、その、あの」
「こんなもので悪いですが、どうぞ」

八重歯の除かせて笑うと修繕に使った手ぬぐいの残りで、泥化粧の男の顔を拭う。
その細い指が自分に触れて、男の心臓が大きく波打つ。
相変わらず呆けたままの男から傘を受け取り、女は綺麗な仕草で立ち上がった。
そしてようやく男は我に返る。

「あ、あの、ありがとうございます!」
「ええ」

流れるように、裾をさばき着物を調え、女は傘を抱えなおす。
女が去ってしまう気配を感じて、男は性急に立ち上がり引き止める言葉をかけようとした。

「あ、あの、その」
「ねえ御仁、そこまで一緒にいっていただけませんか?女の一人歩きは物騒でいけない」

けれど、男の言葉よりも早く、女が傘を男にさしかける。

辺りは雨で薄暗いといえど、まだ日は高い。
人気のない道といえど、この辺りは治安もよくそこまで危険もないだろう。
だからこそ、女も1人で歩いていた。
その女の誘いに、自分への親切が含まれてることに気付けないほど馬鹿でもない。

「あ、ありがとうございます!その何かお礼を!」

急いで立ち上がって、懐を探り出す男に、女は一つ笑ってその指を若い男の唇に当てる。
その親しげなふるまいに、男は目を丸くして黙り込む。

「野暮なお人だね。こんな時は黙って傘を受け取るものさ」

男はその時、自分の中に芽生えたほのかな熱を、しかし確かに感じたのだ。



***



懐かしげに微笑んで、男は甘えるように女を見上げる。

「あの時から、私は貴女の虜です」
「全く、慣れないことはするもんじゃないね。おかげでやっかいごとをしょいこんだ」
「ひどいな。私をひきつけて止まないのは貴女なのに」

寝転んだまま手を伸ばし、三味を爪弾くのを止めていた女の中指をそっととる。
されるがままに、女は苦虫を噛み潰したような顔をする。

「本当に、諦めの悪い男だよ」

女の心から呆れたような声に、男は朗らかに笑った。

「諦めましたよ」

女は意図を理解して、苦笑しつつも先を続ける。

「どう諦めた」
「諦められぬと、諦めた」







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