「だからね、貴則さん。由乃ちゃんは私たちが引き取るから」 「おばさん、だからその話は何度もした通り………」 「でもあなたもそろそろ将来のことを考えなきゃいけないでしょ」 お兄ちゃんの苦り切った声が聞こえる。 西口のおばさんは、嫌い。 いつだって私とお兄ちゃんを引き離そうとする。 私をこの家から連れ出そうとする。 分かってる、おばさんは私たちのことを考えてくれている。 例えそれが有難迷惑だったとしても、両親のいない私たちの後見人になってくれたのはおばさんだ。 感謝こそすれ、恨むなんて筋違いだ。 でも、私とお兄ちゃんを引き離そうとする人は、嫌い。 私は家にいないふりをして、部屋に閉じこもっていた。 しばらくして、玄関のドアが開閉する音がする。 おばさんが、帰ったのだ。 私は下の様子を確かめながら、部屋を恐る恐る出た。 玄関にはお兄ちゃんが立っていて、珍しく疲れた顔をしていた。 散々同じことを繰り返されたのだろう。 天井を仰ぎ、大きく溜息をつく。 きゅ、と胸が引き絞られるように、痛む。 疲れさせているのは、私のせいだ。 私がおばさんのところへ行けば、お兄ちゃんがこんな苦労をすることもない。 貴重な大学生活を、私のために費やすこともなかった。 社会に出たての身で、こんなこぶつきになることもなかった。 でも、出ていってなんて、あげない。 お兄ちゃんは、私の傍にいなきゃいけないんだから。 「………また、来たのおばさん」 私が声をかけると、お兄ちゃんは階段の中ほどにいる私を見上げて笑う。 少しだけ疲れた、でも優しい苦笑。 言えたら、どれだけ楽になれるんだろう。 疲れさせてごめんって。 もういいよ、って。 でも、言えない。 言えないの。 「ああ、あの人も懲りないな。心配してくれるのは有難いんだけどな」 「………私は、おばさんのところになんかいかない」 「ああ、お前は俺がちゃんと嫁に出すまで育てるから」 「お嫁になんていかない!いけない!」 「………たとえ、火傷の痕があってもお前のことを好きになってくれる人はいるよ。お前は俺の自慢の妹なんだから」 自慢の妹って言われて、昔は嬉しかったのに。 それなのに、今はこんなに寂しくなる。 お嫁に行ったら、お兄ちゃんの傍にはいれないのだろうか。 この家から出ていくなんて、いやだ。 私はお兄ちゃんとずっと一緒にいたい。 もうあの暗い部屋を、思い出したくないの。 「私は………お嫁になんていかない」 「困った奴だな。ずっと俺の傍にいるのか?」 傍にいたい。 傍に許されるなら、傍にいたい。 ずっとずっと傍にいたい。 苦笑するお兄ちゃん。 私の目の前まできて、視線を合わせる。 階段一段分。 それでちょうど、私たちは同じ視線。 お兄ちゃんが、私の頭を撫でる。 その仕草は優しくて優しくて。 私は、唇を噛みしめて涙をこらえる。 私の心はいつでも揺れている。 お兄ちゃんを楽にしてあげたい。 お兄ちゃんを逃がしたくない。 もう、解放してあげたい。 ずっとずっと、傍にいたい。 だって、お兄ちゃんが大好きだから。 「………お兄ちゃん、本当は私、おばさんのところに行った方がいいよね」 「………行きたいのか?」 「行かない、けど、お兄ちゃんは、本当はそっちの方がいいよね。玲子さんと結婚できるし、余計なお荷物いなくなるし……」 「そんな訳ないだろう。俺はお前が一番大事だ」 私の頬を大きな両手で挟んで、お兄ちゃんが覗きこむ。 アーモンドの形をした目元。 私とおんなじ目の形。 私たちはよく似ている。 お兄ちゃんは、確かに私のお兄ちゃん。 大好きなお兄ちゃん。 振子時計のように、私の心はいったりきたり。 おばさんのところへ行こうと思った次の瞬間、私はまたお兄ちゃんを縛り付ける。 「………でも、いなくなってあげない。私のこの傷がある限り、お兄ちゃんは私の傍にいなくちゃいけないんだから!」 「………ああ」 お兄ちゃんは最近ずっと見せている困ったような笑顔で、頭を撫でる。 私がお兄ちゃんを困らせている。 お兄ちゃんは、困っている。 振子が、もう一度反対側に揺れる。 「………お、にい」 「そういば、お前最近病院に行ってないけど大丈夫か?」 「え」 良心に負けて、私がそれを口にしようとすると、お兄ちゃんは予想外のことを問う。 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。 「先生のところへ、行ってないだろう。少しでも綺麗にするために、ちゃんと通わないとだめだぞ」 振子がまた揺れる。 頭が一瞬にして熱くなる。 激情が、心と体を、支配する。 「あ………、行ってるわよ!そんなに私を追い出したいの!?早く傷跡を消して厄介払いしたいんだ!」 「そうじゃないだろう。消せるなら、ちゃんと消した方がいい。そろそろ形成だってできるだろう。ちゃんと通って………」 そんなに、私の傷を消したいのか。 ただ一つお兄ちゃんを繋ぎとめることのできる鎖を、奪いたいのか。 そんなのは、許さない。 「うるさい!!放っておいて!!」 「由乃」 階段をかけのぼろうとして、足を踏み外す。 あ、と思った時にはお兄ちゃんに背中から抱きとめられていた。 「危ないだろう」 安心したように、ほ、と息をつく。 その吐息が耳に触れて、また胸がきゅと引き絞られる。 大きくて、力強い手。 広くて頼もしい、胸。 温かい体温。 懐かしくて、また涙が出そうになる。 もうずっと、こんな風に抱きしめてもらっていない。 いつからだろう。 お兄ちゃんに素直に甘えられなくなってしまったのは。 ただ、この腕を失いたくないだけなのに。 お兄ちゃんに、傍にいて欲しいだけなのに。 こんな傷、誰かに見せられるはずがない。 誰にも見せられない。 医者にだって、見せられない。 誰にも見せたりなんかしない。 絶対に、これは隠しておかなければいけない。 |