「あ、由乃ちゃん。お帰りなさい」 「………こんにちは」 学校から帰宅すると、家の前にはいつか見た大人の女性が立っていた。 どんよりと曇る心を押し隠して、私は軽く会釈した。 玲子さんは私の無愛想な態度を気にした様子もなく、にこにこと笑っている。 明るくて、朗らかで、綺麗で、大人の女性で。 普通だったら、好きなタイプの人だ。 この人が、お兄ちゃんの結婚相手でさえなければ。 「兄は、まだ仕事から帰ってないと思いますが……」 「ああ、知ってるわ。今日は由乃ちゃんとちょっとお話したくて」 ついに、来たと思った。 この人が事あるごとに私と話そうとしているのを、ずっと避けていた。 もうあの話が出てから随分経つ。 いい加減、しびれも切らすだろう。 「ちょっと、お話していい?そこの喫茶店でどう?」 「………ここにしてくれませんか?」 「ここじゃ、ちょっとね」 私のケンカを売っているかのような態度にも、この人は怒らない。 困ったように首を傾げて笑う。 大人っぽい女性なのに、そうすると印象が幼くなってかわいい。 家の中に入れろと言わない、その慎ましさも好ましい。 ああ、いやだな。 なんて完璧な女性。 お兄ちゃんに、よく似合っている。 私は逃げ出したくなる気持ちを押さえつけて、頷いた。 ここで逃げても、きっとこの人はまた来る。 お兄ちゃんが好きなんだ。 お兄ちゃんが、欲しいんだ。 だからきっと、諦めたりしない。 いつか来ることなら、今、しておいた方がいい。 「ごめんね、疲れてるところ。なんでも好きなの食べていいから」 玲子さんはそう言って、にっこりと綺麗に笑った。 「あのね、由乃ちゃん」 軽々しく、名前で呼ばないでほしい。 私はまだ、あなたの妹でもなんでもない。 親しくない、他人だ。 むすりと黙りこんでケーキを食べる私。 しかし玲子さんは気にせずにコーヒーを一口飲んでソーサーに戻した。 その仕草に、一瞬見とれる。 ああ、本当に綺麗な、大人の女性だ。 こんな風になれたら、私の心も揺れたりしないんだろうか。 ゆらゆらと揺れる振子が、止まるのだろうか。 「由乃ちゃん、私のこと嫌いかなあ」 「………なんでですか?」 まるで子供に話しかけるように、語尾を甘くするのはやめてほしい。 確かに私は何もできない子供かもしれない。 我儘ばかりを言う、癇癪を起こす駄々っ子かもしれない。 でも、そんな機嫌をとるような態度に、この人への悪感情が湧いてくる。 この人にそうされるのは、何よりも苛立ちが募る。 子供扱いを、するな。 「由乃ちゃん、私のこと避けてるでしょ」 「………そんなこと」 ある。 まあ、気づくだろう。 そりゃ、気づく。 あんなにあからさまに避けていたら。 そりゃそうだ。 だって私はこの人が嫌い。 私からお兄ちゃんをとっていくこの人が、嫌い。 私の思っていたことが分かったのか、玲子さんは苦笑して無意味にコーヒーの中に入ったスプーンをかき回した。 私がこの空間を居心地が悪いと思っているのと同様に、きっと玲子さんも持て余しているのだろう。 「お兄ちゃんがとられちゃうのが、嫌かなあ」 「…………」 「2人ともすごい、仲いいもんね」 私たちの仲を知っていて、そんなことを言うのだろうか。 お兄ちゃんはこの人に私の我儘をすべて言っているのだろうか。 2人で私のことを笑っているのだろうか。 悪口を言っているのだろうか。 どす黒い感情が、胸の中に広がっていく。 ケーキをぶちまけて、この場から立ち去ってしまいたい。 「ね、私も2人の仲間に、入れないかなあ」 玲子さんは、俯いたまま、甘えるように告げる。 かちゃかちゃとコーヒーを掻き回す音が激しくなる。 この人も緊張している。 必死なんだ。 お兄ちゃんが、大好きなんだ。 こんな可愛くない妹でも、お兄ちゃんの妹ってだけでこんなに下手になれるぐらい、好きなんだ。 胸が痛い。 ケーキがなぜか、苦い。 さっきまで柔らかくて甘かったスポンジが、ボソボソとして喉を通らない。 苦しくて、つい、喉にこびりついた言葉を吐き出してしまった。 「………お兄ちゃんが、好きなんですね」 「あ、えっとね、うん。結婚もね、考えてるの」 ああ、言われてしまった。 ずっと避けてきた、その言葉を言われてしまった。 私がきゅと唇を噛みしめたのが分かったのか、取り繕うように玲子さんは手をパタパタとふる。 「で、でもね、だから、由乃ちゃんとも仲良くしたいのよ。由乃ちゃんとも家族になりたいの」 この人は、今までお兄ちゃんが連れてきた中でもトップクラスに最高な人だ。 綺麗でかわいくてお茶目で、そして優しい。 さすがお兄ちゃんが、選んだ人だ。 「私、お姉さんになれないかな」 吐き気がした。 胃がムカついて今食べた物を吐き出しそうだ。 家族に、なる。 この人が、私とお兄ちゃんの間に入ってくる。 お父さんとお母さんの思い出が入った、あの家に入ってくる。 今はお兄ちゃんと2人きりの家が、この人に侵略される。 「………やだ」 「え」 「いや、無理。認められない。いや」 「よし、のちゃん」 「私たちの家に、入ってこないで!」 これ以上ここにいれなかった。 驚きと悲しみで顔を歪ませる女性を尻目に、私は席を立つ。 いやだいやだいやだ。 私たちの中に、入ってこないで。 あの家を汚さないで。 私とお兄ちゃんの間に、入らないで。 私たちを、引き離さないで。 「由乃ちゃん!ごめんね、急に!でもっ」 玲子さんも、人目を気にせず立ち上がり叫ぶ。 背中に、綺麗な人の声が追いかけてくる。 必死なんだ、この人も必死なんだ。 でも、拒絶の感情が消えない。 鳥肌が立つほどの嫌悪感が、ぬぐえない。 「このままじゃ、お兄さんを困らせて、不幸にするのよ!あなたも、不幸になるの!」 悲鳴のような女性の甲高い声が、耳触りだ。 消えて消えて消えて。 あんな人、消えてしまえ。 そんなことは、私が一番よく知っている。 |