「あ、由乃ちゃん。お帰りなさい」
「………こんにちは」

学校から帰宅すると、家の前にはいつか見た大人の女性が立っていた。
どんよりと曇る心を押し隠して、私は軽く会釈した。
玲子さんは私の無愛想な態度を気にした様子もなく、にこにこと笑っている。
明るくて、朗らかで、綺麗で、大人の女性で。
普通だったら、好きなタイプの人だ。
この人が、お兄ちゃんの結婚相手でさえなければ。

「兄は、まだ仕事から帰ってないと思いますが……」
「ああ、知ってるわ。今日は由乃ちゃんとちょっとお話したくて」

ついに、来たと思った。
この人が事あるごとに私と話そうとしているのを、ずっと避けていた。
もうあの話が出てから随分経つ。
いい加減、しびれも切らすだろう。

「ちょっと、お話していい?そこの喫茶店でどう?」
「………ここにしてくれませんか?」
「ここじゃ、ちょっとね」

私のケンカを売っているかのような態度にも、この人は怒らない。
困ったように首を傾げて笑う。
大人っぽい女性なのに、そうすると印象が幼くなってかわいい。
家の中に入れろと言わない、その慎ましさも好ましい。
ああ、いやだな。
なんて完璧な女性。
お兄ちゃんに、よく似合っている。

私は逃げ出したくなる気持ちを押さえつけて、頷いた。
ここで逃げても、きっとこの人はまた来る。
お兄ちゃんが好きなんだ。
お兄ちゃんが、欲しいんだ。
だからきっと、諦めたりしない。
いつか来ることなら、今、しておいた方がいい。

「ごめんね、疲れてるところ。なんでも好きなの食べていいから」

玲子さんはそう言って、にっこりと綺麗に笑った。



***




「あのね、由乃ちゃん」

軽々しく、名前で呼ばないでほしい。
私はまだ、あなたの妹でもなんでもない。
親しくない、他人だ。

むすりと黙りこんでケーキを食べる私。
しかし玲子さんは気にせずにコーヒーを一口飲んでソーサーに戻した。
その仕草に、一瞬見とれる。
ああ、本当に綺麗な、大人の女性だ。
こんな風になれたら、私の心も揺れたりしないんだろうか。
ゆらゆらと揺れる振子が、止まるのだろうか。

「由乃ちゃん、私のこと嫌いかなあ」
「………なんでですか?」

まるで子供に話しかけるように、語尾を甘くするのはやめてほしい。
確かに私は何もできない子供かもしれない。
我儘ばかりを言う、癇癪を起こす駄々っ子かもしれない。
でも、そんな機嫌をとるような態度に、この人への悪感情が湧いてくる。
この人にそうされるのは、何よりも苛立ちが募る。
子供扱いを、するな。

「由乃ちゃん、私のこと避けてるでしょ」
「………そんなこと」

ある。
まあ、気づくだろう。
そりゃ、気づく。
あんなにあからさまに避けていたら。
そりゃそうだ。
だって私はこの人が嫌い。
私からお兄ちゃんをとっていくこの人が、嫌い。

私の思っていたことが分かったのか、玲子さんは苦笑して無意味にコーヒーの中に入ったスプーンをかき回した。
私がこの空間を居心地が悪いと思っているのと同様に、きっと玲子さんも持て余しているのだろう。

「お兄ちゃんがとられちゃうのが、嫌かなあ」
「…………」
「2人ともすごい、仲いいもんね」

私たちの仲を知っていて、そんなことを言うのだろうか。
お兄ちゃんはこの人に私の我儘をすべて言っているのだろうか。
2人で私のことを笑っているのだろうか。
悪口を言っているのだろうか。
どす黒い感情が、胸の中に広がっていく。
ケーキをぶちまけて、この場から立ち去ってしまいたい。

「ね、私も2人の仲間に、入れないかなあ」

玲子さんは、俯いたまま、甘えるように告げる。
かちゃかちゃとコーヒーを掻き回す音が激しくなる。
この人も緊張している。
必死なんだ。
お兄ちゃんが、大好きなんだ。
こんな可愛くない妹でも、お兄ちゃんの妹ってだけでこんなに下手になれるぐらい、好きなんだ。

胸が痛い。
ケーキがなぜか、苦い。
さっきまで柔らかくて甘かったスポンジが、ボソボソとして喉を通らない。
苦しくて、つい、喉にこびりついた言葉を吐き出してしまった。

「………お兄ちゃんが、好きなんですね」
「あ、えっとね、うん。結婚もね、考えてるの」

ああ、言われてしまった。
ずっと避けてきた、その言葉を言われてしまった。
私がきゅと唇を噛みしめたのが分かったのか、取り繕うように玲子さんは手をパタパタとふる。

「で、でもね、だから、由乃ちゃんとも仲良くしたいのよ。由乃ちゃんとも家族になりたいの」

この人は、今までお兄ちゃんが連れてきた中でもトップクラスに最高な人だ。
綺麗でかわいくてお茶目で、そして優しい。
さすがお兄ちゃんが、選んだ人だ。

「私、お姉さんになれないかな」

吐き気がした。
胃がムカついて今食べた物を吐き出しそうだ。
家族に、なる。
この人が、私とお兄ちゃんの間に入ってくる。
お父さんとお母さんの思い出が入った、あの家に入ってくる。
今はお兄ちゃんと2人きりの家が、この人に侵略される。

「………やだ」
「え」
「いや、無理。認められない。いや」
「よし、のちゃん」
「私たちの家に、入ってこないで!」

これ以上ここにいれなかった。
驚きと悲しみで顔を歪ませる女性を尻目に、私は席を立つ。

いやだいやだいやだ。
私たちの中に、入ってこないで。
あの家を汚さないで。
私とお兄ちゃんの間に、入らないで。
私たちを、引き離さないで。

「由乃ちゃん!ごめんね、急に!でもっ」

玲子さんも、人目を気にせず立ち上がり叫ぶ。
背中に、綺麗な人の声が追いかけてくる。
必死なんだ、この人も必死なんだ。

でも、拒絶の感情が消えない。
鳥肌が立つほどの嫌悪感が、ぬぐえない。

「このままじゃ、お兄さんを困らせて、不幸にするのよ!あなたも、不幸になるの!」

悲鳴のような女性の甲高い声が、耳触りだ。
消えて消えて消えて。
あんな人、消えてしまえ。

そんなことは、私が一番よく知っている。





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