「由乃」

ベッドに潜り込んでいると、軽いノックの音が部屋に響く。
黙っていると、入るぞと小さく断ってドアが開く音がした。
それでも潜り込んだままお兄ちゃんを無視する。
軽い足音が響いて、ベッドの端が沈んだ。

「由乃、起きてるか?」
「…………」

黙り込んでいるが、お兄ちゃんは私が起きていることが分かっているのだろう。
ぽんぽんと布団を軽く叩く。

「玲子から電話があった。なんかひどいこと言ったから謝っておいてくれって」

本当にどこまでも出来た人だ。
ひどいことを言ったのは私だ。
あの人は、ただ本当のことを言っただけ。
お兄ちゃんを困らせ、不幸にしているのは、私だ。

あの人のその完璧さが、私をみじめにする。
あんな人、大嫌いだ。

「玲子が何か言ったのか?ごめんな、大丈夫か」

どうして、お兄ちゃんがあの人に代わって謝るんだ。
そんな、身内のような態度。
許せない。
お兄ちゃんの妹は、お兄ちゃんの家族は私だけだ。
振子の揺れが、大きく揺れる。
残酷な気分でいっぱいになる。

私が布団から顔を出すと、お兄ちゃんはベッドの端に座り込んで私の顔を覗きこんでいた。
優しい優しい、慈愛に満ちた瞳で。

「お兄ちゃん、あの人と別れてよ」
「え?」
「玲子さんと、別れて」

それをぐちゃぐちゃにしてやりたくて、私はお兄ちゃんを睨みつけて毒をぶつける。
さすがに驚いたのか、端正な顔が間抜けになる。
しばし言葉を失っていたが、絞り出すように、問う。

「………どうしたんだ、突然」

私は最高に残酷な気分で、自分の中の汚いものを吐気出す。
お兄ちゃんもあの人も、一緒に汚れてしまえばいいと思いながら。

「あの人、すっごい性格悪いよ!」
「………どうしたんだ?」
「私がお兄ちゃんとの結婚に邪魔だから消えてくれって私に言ったの」

そう言ったも、同然だ。
ちくりと欠片ほどに残った良心が疼く。
けれど、そんなのどうでもいい。
お兄ちゃんもあの人も、大嫌いだ。

「あいつが………そんなことを?」
「そう、新婚生活に私なんていらないって」
「…………」
「邪魔だから消えてくれって」

つい、視線をそらしてしまう。
お兄ちゃんがまっすぐに私を見るのに、耐えられなくて。
しばらく、沈黙が落ちる。
そして、お兄ちゃんはそれを告げた。

「玲子は、そんなことは言わない」
「私を信じないの!?」

見抜かれた。
いや、見抜かれないはずがない。
こんな稚拙な嘘。
でも、いつものお兄ちゃんだったら困ったように笑って私を宥めるだけのはずだ。
こんな風に強い口調で、たしなめるようなことは言わない。
私より、玲子さんをとったんだ。

もうだめなんだ。
もう、お兄ちゃんは玲子さんのものなんだ。
もう、お兄ちゃんは、私のものではないんだ。

「由乃………」
「やっぱりお兄ちゃんもそう思ってるんだ!私が邪魔だって!消えてしまえって!そう思ってるんだ!」
「由乃そうじゃない」

堪え切れなくて、涙が溢れてきた。
癇癪を起す子供のように、起き上がってお兄ちゃんに枕をぶつける。
我慢できなかった。
私を置いていこうとするお兄ちゃんが、許せなかった。
何度も何度も枕をぶつけても、お兄ちゃんは黙ってそれを受け止める。
どうして、どうしてこんなときまで何も言わない。

「言えばいいじゃない!邪魔だって!どうして言わないの!どうして!?私に傷があるから!?あの火傷があるから!?」
「違う!お前は、俺の大事な妹だ」
「妹、なんて………」

そんな立場はいらない。
そんな言葉を聞きたいんじゃない。
私は、もっと、別の言葉を聞きたい。
義務や贖罪のためじゃなくて。
もっと、別の。

でも、それでお兄ちゃんを縛り付けているのは、私

「由乃、俺はお前が一番大事だよ」
「じゃあ、別れてよ!あの女と別れて!」
「…………」
「別れてよ!」

重い重い沈黙。
お兄ちゃんの胸にすがりついて、私は泣き叫ぶ。
なんてヒステリックで、耳触りな私の声。
ああ、もうだめなんだ。
置いて行かれちゃうんだ。
今度こそ、お兄ちゃんは私を見捨てるだろう。

「…………分かった」

けれど、帰ってきたのはそんな答え。
それが予想外すぎて、私は顔を上げる。
お兄ちゃんは、笑っていた。
私を慈しむ、いつもの優しい笑顔。

どうして。
なんで。
どうして、そんなことを言うの。

「………え」
「玲子に電話してくる」

そう言って、私の頭を撫でると静かに立ち上がる。
望んでいた通りの結果なのに、なぜか私は焦る。
その背中に、思ってもない汚い言葉をぶつける。

「そ、そんなこと言って、ごまかしなんでしょう」
「………」
「ほとぼりが冷めるまで合わないとか、そういう事なんでしょう!私を騙そうとしてるだけでしょ!!そうはいかないんだから。私、騙されないんだから!!」

ああ、言葉が止められない。
これ以上、お兄ちゃんに呆れられたくないのに。
どうしても、止められない。
振子がふりきったまま、戻ってこない。

訳もない焦燥にかられて、私は叫び続ける。
すると、お兄ちゃんはスーツのポケットから電話を取り出した。
疲れたように小さく笑って、つぶやく。

「そうか」

そして携帯電話を操作し始める。
電話を、耳につける。

信じられない。
なんでそんなこと。
私のこんな嘘とわがままで、なんでそこまで。
どうして、私の我儘を聞くの。
どうして、私を振り払わないの。

嘘だ。
そんなの嘘だ。
玲子さんより、私をとるはずがない。
これは演技だ。
きっと演技だ。

「な、何よ、今ここで電話したって、あとで嘘だって言えばいいと思ってるんでしょう!」
「玲子か、話がある」

叫んでも泣いてでも、お兄ちゃんは聞かない。
淡々と電話の向こうの人と話し続ける。
電話の向こうから、かすかに女性の声が聞こえてくる。
本当にかけているんだ。

「演技なんていらない!そんな茶番はいらない!」

駄目だ。
そんなの駄目だ。

『このままじゃ、お兄さんを困らせて、不幸にするのよ!あなたも、不幸になるの!』

誰がお兄ちゃんを不幸にするの。
誰がお兄ちゃんを幸せにするの。
私の自慢の、お兄ちゃん。

私の大好きな、お兄ちゃん。

「ああ、俺と………」
「だめ!」

私は、ベッドから抜け出すと咄嗟に電話を奪い取る。
そして、急いで通話を切った。

電話からは、切電音が聞こえてくる。
力が抜けて、その場に座り込んだ。
涙が再び溢れてくる。
私は床につっぷして、お兄ちゃんから顔を隠す。
見られない。
見られたくない。
こんな、汚い私。

「由乃?」
「もう、いいよ………」

もういい。
もう、いいんだ。
振子は反対側に、また揺れる。

大好きな大好きなお兄ちゃん。
ずっと傍にいてほしい。
この家でずっと一緒にいたい。
私だけのお兄ちゃん。
私の自慢のお兄ちゃん。
たった1人の家族。
何を武器にしても、例え傷つけても、お兄ちゃんと一緒にいたかった。

でもね。
でもね、大好きなお兄ちゃん。

私は何より、あなたに幸せになってほしい。

「もう、解放してあげるよ、お兄ちゃん………」






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