「どうしたんだ、由乃?」 「もう、いいよ。分かったよ………」 もう、分かったよ、お兄ちゃん。 あなたの、優しさは本当だった。 あなたが、私を捨てることなんて、ない。 だからこそ。 私に、あなたを不幸にする権利はない。 もう、逃げない。 つっぷして体を震わす私に、お兄ちゃんが戸惑った声で話しかけてくる。 優しい手が、私の肩にかかる。 私は身を捩って、その手を振り払った。 「……由乃?」 「お兄ちゃんが、私のこと大事にしてくれてるって、分かったよ。だから、もういいよ……」 最初から、分かってたの。 本当は、分かっていたの。 でも、認められなかった。 お兄ちゃんが、私のものじゃないってことを、認めたくなかったの。 だって、お兄ちゃんは私だけの、お兄ちゃん。 顔をあげてお兄ちゃんを見上げる。 お兄ちゃんは座り込んで不思議そうな顔で私を覗き込んでいた。 「由乃?」 「解放してあげる。もう、義務なんかで、傍にいてくれなくていい」 その言葉に、お兄ちゃんは眉をひそめた。 座り込んで私に視線を合わせる。 「何度も言ってるだろう義務なんかじゃない」 「じゃあ、罪滅ぼし?」 「お前が望む限り、俺はずっとお前のそばにいる」 その言葉は、とても嬉しい。 でも、お兄ちゃんが私を甘やかす限り、私はお兄ちゃんに寄生する。 それは、もう、いやだ。 やだよ、お兄ちゃん。 もう、苦しいよ。 「じゃあ、もういいよ。もう、いいの………」 もう、疲れたよ。 お兄ちゃんを、騙しているのが疲れたよ。 ありもしない鎖で、お兄ちゃんを縛り付けるのは、もう、やだよ。 「………嘘だから」 「え?」 だから、私はとうとう告げる。 私のただ一つの武器を、手放す。 お兄ちゃんを繋ぐための鎖を、解き放つ。 お兄ちゃんの呆けたような声が、痛い。 逃げ出してしまいたい。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 でも、私はもう、逃げちゃダメなんだ。 私が、お兄ちゃんを不幸にしてるんだから。 「火傷の痕なんて、もうずっと前に、消えてるの……」 私は立ち上がると、シャツのボタンを外す。 むき出しになったみっともない体に、かつてあった火傷の痕はすでにない。 若い体は代謝を続け、醜い傷跡はよく見ないと気づかないぐらい薄れさせてしまった。 残ってはいるものの、体が成長しきって、形成を行えば、消えてしまうだろう。 中学に入った当時には、すでに大分薄くなっていたのだ。 「だから、病院も行ってない。もう火傷なんてないの。だから、お兄ちゃんはもう気にしなくていいの………」 「由乃………」 「ごめんなさい………ごめんなさい……」 涙は、いつまでもいつまでも溢れてくる。 いつまで流れれば、この涙は尽きるんだろう。 涙でかすんでお兄ちゃんの顔が見れない。 怒っているだろうか。 呆れているだろうか。 今度こそ、見捨てられてしまうだろうか。 お兄ちゃんの反応が怖くて、目を強くつぶった。 どんな報いでも受けよう。 ありもしない鎖で、お兄ちゃんを縛ろうとしていた。 いや、火傷自体、元々お兄ちゃんが悪くともなんともなかった。 怒るのも当然だ。 憎まれるのも当然だ。 10年近く、お兄ちゃんの人生をメチャクチャにした。 これから、私は断罪を受けなければならない。 「え」 けれど、帰ってきたのは怒声でも叱責でも痛みでも、なかった。 温かい抱擁が、私を包む。 「な、に………」 思わず眼を開くと、お兄ちゃんのダークグレーのスーツが目に入ってくる。 大きな手が私の背を撫でる。 力強い腕に、包まれている。 「なんで……」 憐れんでいるの? 馬鹿な妹を、それでも可哀そうだと思ってくれるの? どこまで、お兄ちゃんは優しんだ。 罵ってよ。 怒ってよ。 殴ってよ。 そうじゃなきゃ、私はもっともっと苦しい。 いっそ、憎まれたい。 ずっとお兄ちゃんを苦しめてきた。 その分の罰を受けたい。 それすらも、過ぎた望みだろうか。 この許しこそが、私の罰だろうか。 でも、次の言葉は、さらに予想外だった。 「知ってたよ」 「え」 私は何を言われたか分からず、間抜けな声が出る。 動揺しすぎて、涙が止まる。 私が体を固くしたのが分かったか、お兄ちゃんは更に抱擁を強める。 痛いくらいの力に、息が、つまる。 「知っていたよ。火傷がもうないことなんて。ずっと一緒に暮らしてるんだから」 お兄ちゃんの声は優しい。 いつもと変わらず、私を慈しむ温かい声。 けれど言っていることが、理解できない。 知っていた。 知っていた? 私がずっと、隠しておきたかった、ただ一つの秘密を。 私のたった一つの、切り札を。 「う、そ………」 「病院からも連絡来てたしね。俺はお前の保護者だぞ?」 嘘だ。 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。 私は常にパンツを身につけて足を見せなかった。 丈の長いトップスを着て、肌を見せることはしなかった。 お兄ちゃんにだけは、絶対に見せられなかった。 でも、よく考えれば、わかることだ。 先生と連絡を取り合うのも、治療について話し合うのも、保護者の、役目だ。 寝像の悪い私が眠ってる間に肌を見せることがあったかもしれない。 いくらでも、私の嘘を見抜く機会なんて、あった。 むしろ、それに気付かない私が、馬鹿だ。 それでも、信じられない。 だって、ずっと、これだけは知られてはいけないと思っていた。 ずっとずっと、隠していたことだ。 知られたら生きていけないとすら、思っていた。 でも、動揺のないお兄ちゃんの声。 温かい腕。 これは本当? でもなんで。 じゃあ、なんで。 なんで、ずっと、黙っていたの。 どうして、私の嘘に付き合っていたの。 「じゃあ、なんで………」 「お前は、そんな嘘をついてまで、俺を傍に置いておきたかったんだろ?」 そうだ。 私の目的はいつでも一つ。 この家に、ずっとお兄ちゃんと一緒にいたい。 ただ1人の家族のお兄ちゃんを離したくない。 「だったら、知らないふりをしてるのも、いいと思った」 「な、んで………」 「俺もお前の傍にいたかったから」 お兄ちゃんの声に、躊躇いはない。 落ち着いた低い声は、ただ優しい。 大きな手が、私の髪を撫でる。 「え」 スーツに顔を埋めている私には、お兄ちゃんの表情は見えない。 ただ、この抱きしめてくれている腕が全て。 お兄ちゃんは耳元に囁くようにゆったりと話す。 「あの日、父さんと母さんがいなくなった時」 暗い家。 誰もいない、音のない家。 押し寄せてくる孤独。 1人きりの恐怖。 あの時の暗闇が襲ってくるような気がして、私はお兄ちゃんのスーツをぎゅっと掴む。 宥めるように、力強い手が背を撫でる。 「1人で泣かずに、ずっと頑張っていたお前を見て、絶対もうお前を1人にしないと誓った。もう絶対、お前を置いていかないって」 「うそ、だ………」 「どうして?」 不思議そうにお兄ちゃんは聞いてくる。 意地を張って事実を認めようとしない子供をあやすように。 「だって、私は………、お兄ちゃんにそんなにしてもらえる子じゃない。いい妹じゃない。こんな嘘ついて、騙して、我儘ばっかり言って」 「言っただろ。お前はかわいいかわいい世界一大事な妹だって」 嘘だ嘘だ嘘だ。 だって私はこんなに性格が悪い。 お兄ちゃんに迷惑をかけてばかりだ。 1人暮らしを満喫していたお兄ちゃんを呼び戻して、学生生活を育児に費やさせて、働き始めてからは脛をかじって、コブつきなせいで彼女と別れることもあって。 どこをとったって、私がいていいことなんて、なかった。 「わ、私は、お兄ちゃんに、迷惑かけてばっかりで」 「お前にかけられる迷惑なんて、ない」 「私、お兄ちゃんが1人暮らし辞めて戻ってきてくれた時、喜んだ。またお兄ちゃんといれるって、お兄ちゃんの都合なんて考えずに」 「俺もお前と暮せてうれしかった。楽しかった」 「な、何もできないで、お兄ちゃんに頼るばかりで……」 「何もできない訳じゃない。お前の作ってくれるメシが毎日楽しみだった」 「あ、あんなまずいの………」 「お前が作ってくれるなら、なんでもうまい」 そう、思ってくれていたの? 本当に思ってくれていたの? 兄妹の義務じゃなくて。 火傷の負い目じゃなくて。 自分でそれを使ってお兄ちゃんを縛りつけながら、私はいつも怖かった。 お兄ちゃんに疎まれて、嫌われることが怖かった。 それが怖くて、お兄ちゃんの蔑む目が見たくなくて、私はますますお兄ちゃんを縛った。 強制でもなんでもいいから、傍にいてほしかった。 でも、それじゃあ。 私と一緒にいることを、少しでも望んでいてくれた? 涙が止まらない。 お兄ちゃんのスーツが汚れていく。 ああ、またお兄ちゃんに迷惑をかけている。 「ほ、本当に、わた、しと、いても、いやじゃ、なかった?」 「お前といるのは、何よりも楽しい。絶対お前を1人にしたりしない」 「………ほん、と?」 「ああ、お前が望んでくれるなら、俺はずっとお前の傍にいる」 ゆったりと宥めるように髪を撫でていてくれた手が、ぴたりと止まる。 不思議に思って顔を上げると、お兄ちゃんは苦笑して私を覗きこんだ。 「だけど、こんなことをばらすってことはもう俺はいらないのか?」 「そんな訳ない!」 そんなはずがない。 お兄ちゃんがいらなくなるはずなんかない。 お兄ちゃんとずっと一緒にいたいの。 お兄ちゃんがいてくれれば、それで、何もいらなかった。 「おばさんのところに行きたいか?」 思いきりかぶりを振る。 私が帰ってくる場所は、ここだけだ。 私の家は、お兄ちゃんがいるところだけだ。 「まあ、行きたいって言われても、行かせないけどな」 ちらりと苦笑して、いつものようにこつんと、額をぶつけられる。 お兄ちゃんの、私よりも幾分短いまつげが間近に見える。 「ねえ、じゃあ………わたし、ここにいてもいい?」 「いてもいい?じゃなくて、いてくれ。お前がいないと寂しくて死んじまいそうだ」 「玲子、さんは?」 「例え玲子や他の女とどうなろうと、俺が一番大事なのは、お前だ。大事な大事な、かわいい妹だ。俺だけの由乃だ」 ようやく、この言葉が、信じられる。 ずっと信じられなかった。 私の呪いの言葉のせいで、お兄ちゃんを縛っていられるのだと、思っていた。 もっと早く言ってしまえばよかった。 そういえば、お兄ちゃんをもっと早く信じられた。 私の浅知恵のせいで、お兄ちゃんを苦しめた。 そして、私も苦しかった。 とても馬鹿な回り道を、した。 でも、最後に1つだけ。 お兄ちゃんに聞きたいことがある。 「私、お兄ちゃんを不幸にしてない?」 その言葉に、お兄ちゃんは楽しそうに笑った。 昔、一緒にイタズラを考えたときのように。 「お前じゃなかったら、誰が俺を幸せにしてくれるんだ」 そう言って、お兄ちゃんは私を強く抱きしめてくれた。 懐かしい、腕。 最近はこの抱擁も遠ざかっていた。 私は、小さい頃のように力いっぱいその背に抱きつく。 何のためらいもなく、私のお兄ちゃんに抱きつく。 私だけの、お兄ちゃんに。 「………大好き、お兄ちゃん」 「俺も由乃が大好きだ」 ああ、これで大丈夫だ。 何があっても大丈夫。 私はお兄ちゃんを信じられる。 例えお兄ちゃんが誰と付き合おうが、誰と結婚しようが、私は平気だ。 寂しくても、笑っていられる。 だって、お兄ちゃんは私を置いて行ったりしない。 1人きりにはならない。 だから私はようやく心から、あなたを大好きだと言える。 子供の頃のように、純粋に好きだって言える。 大好きな大好きなお兄ちゃん。 いつだってかっこよくて頼りになって、私のヒーローだったお兄ちゃん。 お兄ちゃんが、幸せになれますように。 世界中で、一番大切なお兄ちゃん。 ずっとずっと、大好きな私のお兄ちゃん。 ゆらゆらゆらゆら、振子が揺れる。 いったりきたり振子が揺れる。 振子のように揺れてた心。 ぴったり止まった。 |