昼休みの学食は、うるさいほどの喧騒に包まれていた。
公立の高校にしてはなかなかの広さを誇るその半地下の食堂は、それでもあふれかえる学生で埋めつくされている。
空席を探すのも難しそうだ。

冬子(とうこ)はそんな騒がしい学食の入り口で、立ちすくんでいた。
心なしか、白い顔が更に血の気を失い、青くなって見える。

「何してんの?ほら、入れよ」
そんな冬子の背中を、後ろにいた長身の男が軽く押した。
「…春日(かすが)君」
後ろを振り返り、自分をここまで引っ張ってきた張本人を見上げた。

朝のどさくさに紛れて交わされた、助けてもらったお礼に学食でおごるという約束を、春日はしっかりと覚えていたらしく、午前の授業が終わると冬子に何か言う隙も与えずに学食へと引きずっていった。
冬子もなんとか断ろうと苦心していたが、「約束やぶるの?」と言われてしまえば、引くことは出来なかった。
そんな事情で今、冬子は学食にいた。

「あー、やっぱ結構混んでるな。俺席取ってくるからお前食券買っといて。俺A定ね」
「え、ちょっと!」
呼び止める暇もなく、春日は人々の群れの中に入っていた。
所狭しと敷き詰められてた人間の間を器用に潜り抜けていく。
その様子を、冬子は少しの感嘆とともに眺めていた。
そして春日の姿が見えなくなったと同時に、自分がしなければいけないことを思い出し、下唇を噛んだ。

しょっけん…。
しょっけんて何……?
……職権?

職権:職務上の権限。公務員や法人の機関などがその地位ないし資格においてなし得る事務もしくはその範囲(広辞苑)

で、春日君はえーてい。
文脈からえーていのしょっけんを買うってこと…よね?
えーていって……何かしら。
営庭…英帝……。

営庭:兵営内の広場(広辞苑)
英帝:大英帝国の略?

わ、分からない。分からないわ。
イギリスの職務を買う?学食で?

無力感に苛まれたまま、冬子はその場に立ち竦んでいた。
その表情はとても硬く、親の敵でも見るような目で辺りをにらみつけている。
冬子を知らない人間は、そんな彼女を物珍しげに見ていくし、知っている人間はテリトリー内に入ってきた異物を敵意を含んだ目で見ている。
しかし今の冬子には、そんな視線にまったく気づく余裕はない。
学食という未知の場所においての混乱に、許容量いっぱいいっぱいだった。

どれくらいそうしていただろう。
「お前、何してんだよ?おせーよ、昼休み終わっちゃうじゃん」
昨日から急激に聞きなれた声が耳に入る。
その声に我に返り、いつのまにかうつむいていた冬子は、顔を上げた。
ほんの鼻の先にくるまで、気づかなかった。
目の前に春日が立っている。
「あ、春日君……」
冬子の出した声は、珍しく頼りないものだった。
「食券買ったの?」
それには気づかず、ちょっと不機嫌な様子で再度問う春日。
「やっぱり俺と一緒に飯食うの、イヤとか?」
「……違うわ」
「じゃ、何?」
空腹も手伝ってか、イライラとした仕草で髪を掻き揚げる。
冬子は再度口を開こうとして…、目を少し伏せ下唇を噛んだ。
「……何?どしたの?」
春日は少し声を和らげる。
学食に出入りする生徒達は、そんな二人を興味深げに見ては去っていく。
「その……」
「ん?」
小さな声で、うつむきながら話す。
いつもどんな話であろうと目をそらさず、しっかりと話す冬子らしくない態度だ。
「館乃蔵(たちのくら)?」
「あの……」
「だから、なんだよ?」
「…………」
ボソボソと口の中で何かを言う。
「聞こえないって」
「………」
口をつぐむ。
長身の男は、肩をすくめると腰をかがめて冬子の口元に顔を近づけた。
一瞬驚いて身をひいた冬子だが、踏みとどまるともう一度勇気を出して口を開いた。
「……しょっけんって何?」
「………」
「………」
「………えーと、マジ?」
気をつけなければ分からないぐらい小さな動作で、頷いた。
「………」
「………」

「ぶは!」
近くで奇妙な破裂音がして、冬子が顔を上げる。
そこには口元を押さえて小刻みに震えている春日がいた。
「…春日君?」
「い、いや……な、なん、で…も」
苦しそうに途切れ途切れに言葉を切る。
冬子から顔をそらし、先ほどよりも震えている。
「………笑ってくれて結構よ」
こちらも目をそらし、はき捨てるように言う冬子。
許可が出た途端に、春日は食堂中に響き渡る声で笑い出す。
「ぶは、ぶはははははは!!!!マジ!?マジかよ!!!すげーよ館乃蔵!」
「………」
しょうがないことと諦め、冬子は下唇を噛んで耐える。
しかし、しばらくたっても目の前の男の笑いは静まることがない。
食堂中の視線が二人に集まる。
その視線にようやく気づき、冬子は慌てる。
「ちょ、ちょっと春日君!いい加減にしてよ!」
「ぐ、ははは、ご、ごめ!あ、む、無理!あっはははは!」
腹を抱えて座り込み、涙まで流して笑っている。
なんとか止めようとしていた冬子だが、だんだんと腹もたってきた。
屈辱と羞恥で赤かった顔が、今度は逆に顔が青ざめてくる。
「そういうことだから私はこれで失礼します。借りは別の形で返させて頂くわ」
静かな口調でそう言って、座り込んでいる男に背を向けた。
「あー待った待った!」
春日は慌てて立ち上がり、その肩を掴む。
突然掴まれた肩におかれた手を、思わず冬子は振り払った。
「何?」
振り返らないまま、棘のある声で問う。
「わーるかった!俺が悪かったって!笑わない、もう笑わないから!」
「もう結構よ」
にべなく立ち去ろうとする。
しかし春日は今度は慌てずに、後ろからそっと耳元に囁く。
「いいの?学食の仕組み知らないままで」
耳元にかかった息に、冬子は体をびくりと震わせる。
しかしその場で足を止めた。
「………」
「このまま一生学食の仕組みを知らないまま生きていくのか?そんなんでいいのかお前の人生?」
「………」
学食の仕組みはもちろん興味があった。
しょっけんも、えーていのことも知りたい。
だからと言って後ろの無神経な男に聞くのは、とてもとても癪に障る。
「……あなたに教わらなくても……」
「お前が他の人に教わることできるの?」
「………」
出来ない。
出来るわけがない。
冬子にそんなこと出来ていたら、今頃ここまで孤立していない。
後ろを振り向かないまま、冬子は動きを止めた。
そんな冬子の肩に後ろからそっと両手を置く春日。
今度は冬子も振り払わなかった。
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥って言うだろ。な、今俺に聞いておけば安心だぞ。俺の授業は完璧だ。この先どんな食堂へ行ったって、お前は完璧なマナーで利用することができる!」
優しく柔らかな春日の声は、悪魔の囁きのように冬子の心に染み渡る。
「でも……」
それでも最後の意地が、冬子を押しとどめる。
さっき冬子を馬鹿にして大笑いしたこの男に、教わっていいものか。
「大丈夫、俺は口も堅い。こんなこと誰にも言わない。どうする?いいのか、このまま学食のすべてを知らないままで。今ならバインダータイプで分かりやすいテキストもついて、なんとスペシャルランチ一つでご提供だ!」
「………」
冬子の中のつまらない意地が、その言葉で崩れ去った。
肩から力を抜き、大きく息をつくと後ろを振り返った。
背筋を伸ばし、春日としっかりと視線を合わせる。
その顔は、少々緊張と不安と羞恥のために強張っていた。
しかし強く、真っ直ぐな視線だった。
「……教えて頂ける?」
「もちろん!」
春日は嬉しそうに、子供のようなあどけない笑みを見せた。


***




「ああ、最初にオーダーを決めておくのね」
「そ、俺が言ったA定はコレ。A定食の略ね。今日はお前のおごりでスペシャルランチ!肉だ肉!」
「A定食の略だったの!そう、定食、定食ね」
「で、お前はどうすんの?」
「どうするって言われても……」
困ったように辺りを見渡す。
メニューが書いてあるプラスチックのプレートからは、何も想像できない。
うどんやそばなら分かるのだが、それにした方がいいのだろうか。
「ああ、メニューわかんねえよな。カウンター行けば見本あんだけど……ま、いっか。じゃあ、俺のお薦めはこれ。今日のどんぶり。デザートもついてボリュームも納得の好評の人気メニューだ!」
「そ、そうなの?じゃあ、これにするわ」
押されるままに頷く冬子。
その顔は真剣そのもので、いつもだったら反発している春日の言葉にも素直に従っている。
「はい、で、注文が決まったらこっちの券売機で食券を買う」
「しょっけん」
「食べる券て書くの。それで食券。ここで券を買って、向こうのカウンターで食べ物と交換」
「会計をここで済ましてしまうの?」
「そ、混雑してる時にカウンターでお金のやりとりすんのは大変でしょ。だから先にやっちゃうの」
「会計をする人はないの?」
「……いないねえ」
「そうなの」
もう昼休みも中盤を迎え、学食はだんだん閑散としてきた。
さっきまでとても並んでいた3台の券売機の前には誰もいなかった。
「ここにお金を入れて、自分の食べたいもののボタンを押す」
「分かったわ」
そうして小脇に抱えていたかわいらしいポーチの中から、財布を取り出す。
財布の中から紙幣を取り出し、慣れない手つきで券売機に入れようとした。
しかし、券売機はすぐさま紙幣を吐き出す。
もう一度入れるが、やはり吐き出された。
「…入らないわ」
不安げな眼差しで春日を見上げる。
「えー、ちょっと待ってお札が曲がってんじゃ…、てこれ諭吉じゃん!入らねえよ!そりゃあ!」
「一万円札ではダメなの…?」
「ほら、ここに書いてあんだろ。五千円まで、って」
紙幣の投入口の前に、確かに千円札と五千円札のマークしかなかった。
「これは、そういう意味なのね……」
「あー、とにかく諭吉じゃなくて一葉か漱石さんはいないの?」
慌てて高級皮が有名なブランドの財布を探る冬子。
しばらくして、情けない顔で顔をあげた。
「ないわ……」
「ありゃ」
「だめなの…?私はもう、学食を経験することはできないの…?」
この世の終わりのような絶望的な声を出し、うつむく。
真っ直ぐにおろした手を、握り締めている。
春日はその手を、そっと両手で包み込んだ。
「大丈夫だ!まだ諦めるな!ゆきちんを両替すればいいんだ!そんな顔をするな!」
「春日君…」
「さあ、事務室までいくぞ。時間が残り少ない!ダッシュだ!」
「ええ!」



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