「本当に来たの……?」 初めての学食を体験した翌週。 家から少し離れた小さな公園に、春日の姿があった。 やや呆然としながら自転車に乗る長身の男を見返す。 「え、何?嘘だと思ってたの?」 「……正直、半分冗談かと思っていたわ」 「まー、館乃倉さんたらひどいんだから!私嘘つきません。ちょっとしか」 軽口を叩きながらも、子供のようなあどけない顔でにこにこと笑っている。 確かに半分冗談だと思っていた。 でももう半分は、本当に来るのでは、と思っていた。 「まあま、いいから早く乗れって」 「後ろに……?」 「…他にどこに乗る気だよ」 「そ、そうよね」 この前乗った時は非常時だったし、結構強引に乗せられた形だった。 それなのであまり羞恥などは感じる暇はなかった。 今、いざ自転車の荷台に、自分から乗るとなるとかなり勇気のいる行動だ。 このままバスで行ったほうがいいのかもしれない。 けれどいつもと同じ時間出てきてしまったので、バス通学なら確実に遅刻だ。 冬子は思わず動きを止めたまま、自転車をずっと見つめていた。 「はーやーくー!遅刻するっての。俺遅刻ヤバイんだよ!」 そんな冬子に、春日が痺れを切らしたようにせかす。 腕時計をちらりと見ると、確かにもうそろそろ行かなければまずい時間だ。 冬子は覚悟を決めることにした。 一つ息を吸って、唇を噛む。 制服の胸元を強く握って、春日を真っ直ぐに見つめた。 「それでは、よろしくお願いするわ」 「……そんなに気合入れるものなの?チャリの二ケツって」 ぶつぶつと何かをぼやいている春日に気づかないまま、冬子は上品な仕草で自転車に横のりした。 「はい、じゃ、ちょっとヤバイから飛ばすよ」 そんな不吉なことを言って、春日は自転車を発進させた。 「いやー!!!お願い!!止めてー!!!」 「自転車は急には止まれません!おっしゃ第三コーナードリフト走行でで楽々クリアー!!」 「いやー!!!!」 冬子や春日の家は高台の方面にある。 よって学校へ行く道は下り坂が多い。自然とスピードの出る道だ。 そこを春日はわざわざ更にスピードを上げながら疾走していく。 冬子は知らず知らずのうちに、春日の腰に思いっきり抱きついていた。 大声でわめきながらものすごいスピードで駆け抜けていく一台の自転車を、通りの人々が振り向きながら見ていた。 「はい、とーちゃく!ぴったり5分前、さすがだな俺!」 校舎の裏側にある自転車置き場にて自転車を止めながら、春日が満足気に言った。 冬子は後ろの荷台ですでに声もなく青ざめている。 「あれ、どしたの館乃蔵?」 「………」 ぼそぼそと何か言うが、春日の耳には届かない。 春日は冬子の口元に耳を近づけると、もう一度問う。 「館乃蔵?」 「あ、あぶないじゃない!!!」 「うわあ!」 突然の大声に驚き、春日は耳を押さえて身を引いた。 「な、何突然!」 「と、突然じゃないわよ、ず、ずっと止めてって言ってるのに……!」 青ざめたまま、肩で息をして訴える。 春日はその剣幕にちょっと驚くが、目を何度かしばたく。 「……そんなに怖かった」 「こわ、怖いわよ!」 怒ってはいるものの、いつもの毅然とした態度も迫力もない。 自分が言っているのがいかに情けないことか気づくことはない。 春日はそんな冬子の様子に、思わず噴出す。 「……何よ?」 「館乃蔵、かわいいなあ、と思って」 憮然としながら問う冬子に、なんでもないことのように返す春日。 冬子は一瞬間を置いた後、青ざめた顔が一気に赤くなる。 思わず怒りを忘れてしまう。 「な、何、何を言って……!」 焦って言葉が出てこない。 春日はにこりと笑うと、ごめんな、と一回頭を下げた。 「ごめんな。今度はもっとゆっくり走る」 素直に謝られると、それ以上強く出ることもできない。 「そ、そうしてくれるなら……」 さっきの衝撃とともに、頭がまわらなくなり、つい許してしまいそうになる。 しかし春日のその後の言葉に、冬子はもう一度頭に血が上った。 「でもさあ、スピード上げれば上げるほど、館乃蔵抱きついてくるし。館乃蔵ってば見た感じよか胸がおっきいー…」 バキ! 最後まで言わせることもなく、冬子は教科書のぎっしり詰まった皮バッグで春日を殴りつけた。 殴られたほうは思わず言葉なくしゃがみこむ。 「あ、あなたは本当に無神経で恥知らずだわ!」 顔を真っ赤にさせながら、冬子は春日に背を向け、足早にその場を立ち去る。 「ま、待った」 頬を押さえながらもどうにか立ち上がった春日は、よろよろとその後を追った。 教室の前に来ると、冬子は一度息を吸った。 胸に手を当てて、心を奮い立たせる。 なんだか、先日もこんなことをした気がする。 その時と同じように、冬子は緊張していた。 むしろ今の方がより緊張しているかもしれない。 来る途中、春日と一つ話したことがある。 教室に入ったら、とりあえず笑顔で挨拶をしろ、ということだ。 『冬子のお友達ゲット作戦その1☆』と笑いながらあの軽薄な男は言っていた。 春日はすでに先に教室内に入っている。 冬子が1人でやりとげなければならない。 もう一度深く深呼吸をする。 下唇を強く噛むと、冬子は意を決して扉に手をかけた。 その手は少し震えている。 ガラリ。 少し立て付けの悪い引き戸は、音をたててスライドした。 教室内の人間が一斉にこちらをむく。 え、笑顔笑顔笑顔。 それで挨拶。 なんとか笑顔を作ろうとする。 しかし表情筋は強張りすぎて、なかなか動かすことができない。 それならともかく挨拶だけでも、と思うが声帯が凍りついたかのように動かない。 しばらくそのまま立ちつくす。 すでに教室内の人間はそれまでしていた作業に戻っている。 冬子は血が出そうなほど強く強く唇をかみ締めると、黙って席に向かった。 意識的に春日の方は見ない。 冬子らしくなく、うつむいていた。 自分が情けなかった。 「ま、徐々に慣れていくしかないって」 春日は苦笑しながらも、怒ることはなかった。 それでも冬子は落ち込んで、暗い表情をしている。 放課後。 行事のための特別日程で、今日は半日授業だった。 二人は約束どおりに自転車の練習をするため、朝待ち合わせた小さな公園に来ていた。 遊具もろくになくベンチぐらいしかないその公園は、昼間だというのに人気が少ない。 自転車の練習をするくらいのスペースはあるが、ボール遊びをするには不向きな狭さ。 練習風景を人に見られたくない冬子には、絶好の場所だった。 「自分が情けないわ」 「そんなに落ち込むことねーよ。また今度、頑張ればいいだろ」 「出来るかしら…」 正直に弱音を吐く冬子に、春日は呆れたように片眉を上げた。 「出来る出来ないじゃなくて、やるの。努力は必要だけど、才能はあまり必要ないだろ。反省はいいけど、あきらめたらおしまいです」 言い方は軽いが、言っていることは正論だ。 静かに諭すように話す春日の言葉は、こういう時いつも素直に耳に入ってくる。 「貴方って時々とても正しいことを言うから、腹がたつわ」 「なんだそりゃ」 「貴方の言葉に納得してしまう自分の力不足が、情けないってことよ」 大きくため息をつく。 ずっと、目の前の男を軽薄で無神経な男だと蔑んでいた。 その馬鹿にしていた男より、劣っている自分が情けない。 つまりは八つ当たりだ。 「なんでもないわ」 「ま、いいけど。足、もう大丈夫なんだろ?」 「ええ、おかげさまでもう痛まないわ」 その言葉に春日はにっこりと微笑む。 「じゃあ、始めるぞ」 「ええ」 春日はそう言ってベンチから立ち上がった。 冬子も少し微笑んで、それに続いた。 「では館乃蔵君!私のことはコーチと呼びたまえ!」 「……何を言ってるの?」 「えーノリ悪いよ館乃蔵。そこは『はい、春日コーチ!』でしょ」 呆れた目で見返す冬子に、春日は不満そうに口を尖らせたが黙った。 すでに冬子は隅にあるトイレでジャージに着替え済みだ。 自転車ここに来る前に、春日の家からピックアップしてある。 「館乃蔵、髪は結ばないの?結構邪魔になると思うよ」 「そう?結んだ方がいいかしら?」 「うん、あ、ゴム貸して、俺やる」 躊躇する暇なく、春日は冬子が取り出した黒いゴムを取り上げて後ろに回ってしまう。 冬子の肩より少し長い髪を、短時間でまとめ上げてしまった。 その手つきは器用で、まとめられた髪は綺麗だった。 冬子は人に髪を触られることに羞恥や嫌悪感を感じる前に、感心してしまう。 「すごい、器用なのね」 「俺妹いてさ。髪いじんの好きなんだよね」 髪に手をやってそのできばえに驚く冬子に、春日は自慢げに子供のように笑った。 すっかり辺りも暗くなった頃、二人の特訓はようやく終わりを告げた。 冬子はベンチにへたり込んだまま、息を絶え絶えにしている。 長袖のジャージを着ていたものの、むき出しの部分には擦り傷が見える。 「……うそつき。手、放さないって言ったのに……」 恨みがましい目で、春日を見上げる。 ベンチの前に立っていた春日はそんな冬子に少々すまなさそうに笑う。 「いやー、そりゃお約束でしょ。あそこで手を放さない方がおかしいって。あのまま後ろ見なかったら乗れてたのに」 「そんなこと言われても…」 困ったように眉を下げる冬子。 結局今日は乗れるようにはならなかった。 「私、自転車に乗る才能ないのかしら……」 「いや、自転車あんまり才能関係ないから。努力はそれなり必要だけどね。これまた諦めないで進むのみ!」 また沈み込む冬子に、手をパタパタと振りながら軽く言う春日。 冬子は大きくため息をついた。 春日は苦笑すると、ちょっと待ってて、といってその場を去る。 1人残された冬子は、すっかり暗くなって辺りが見えなくなった公園を眺め、もう一度ため息をつく。 何もかもうまくいかない自分が、本当に情けなかった。 「はい」 落ち込んで暗い表情をする冬子に、いつのまにか戻ってきていた春日が何かを差し出す。 驚いて顔を上げると、缶ジュースを差し出す長身の影があった。 思わず大人しく受け取る。 「何がいいか分からないから、とりあえずポカリにしといたけど」 「あ、ええ、ありがとう」 ベンチの隣に座り込み、春日は自分のコーラを口にした。 ぷはーと親父臭く息をつく。 冬子は受け取った冷たい缶をじっと眺めた。 結構熱くなっていた体が、手から涼しくなっていく。 その感触が、心地よかった。 「飲まないの?ポカリ嫌いだった?」 そうして缶を両手で掴みながらぼーっとしている冬子に、春日が不思議そうに問う。 冬子は缶から目を離さないまま、小さな小さな声で言った。 「……どうやって飲むの?」 「ぶはっ」 変な声を出す隣の男に、思わず目を向けるとコーラが気管に入ったのか激しくむせてる。 「ごほ、ごほごほ!」 苦しそうに咳き込みながらも、その目尻は下がっていた。 手で口元を押さえながら苦しそうに背を曲げている。 「…笑っていいわ」 許しを得た瞬間に、春日は大声で笑い出す。 冬子はしばらくその羞恥に耐えた。 ここまで笑われると、もうそろそろ慣れてくる。 腹が立つのと、恥ずかしいのは慣れる事はできないが。 「あー、いや、いやいや、ごめん!そっか缶ジュースも初体験な訳ね!」 まだ笑いの余韻を残して口元を緩めながら、冬子のスポーツ飲料をとる。 そして冬子にもよく見えるように口を傾けて、説明する。 「ここの、この金具を上に上げるの、で、こう」 複雑な形に見えた金具は簡単な動作で、飲み口をあける。 「すごいわね!」 「うん、確かに俺もこれはすごいと思う」 いつもながら感心した声を上げるに、珍しく同意する春日。 缶を返してもらい、恐る恐る口にする。 ちょっと甘めのすっきりとした味が、体に染み渡っていく気がした。 「うまい?」 自然と表情が柔らかになった。疲れた体が、回復する気がする。 「ええ、おいしいわ」 「そりゃよかった」 子供のようなあどけない笑顔を見せる。 冬子はつられて、更に頬を緩めた。 でもその後すぐ眉をさげ、苦笑いの表情になる。 「私、知らないことが多すぎるわね」 「なんか今日の館乃倉はネガティブシンキングだな」 「だって、反省することが多すぎるわ」 またまたため息をつく。 春日がそんな冬子の頭をぽんぽんと軽く撫でた。 「反省できるならいいんじゃない?えーと、なんだっけこの前やった倫理のあれ、ムチムチプリン?」 「は?」 「いや、ほら自分が知らないってことを知ってるならいいって奴」 「……無知の知のことかしら」 「そうそうそれ!館乃蔵は反省して知ろうとしてるんだから、大丈夫でしょ。知らないことは、知ればいいんだからさ」 冬子は頭に載せられた手に、不思議と温かさを感じた。 ちょっと前までだったら、絶対に嫌悪感で振り払っていただろう。 でも、今はなぜか、安堵を覚える。 目の前の男が、苦手なことは変わりないのだが。 「そうね、知ろうと努力していけたらいいわ」 「そうそう。まあちょっと前までのお前は無知の無知だったけどな。感じ悪いし」 「そうね」 素直に認める冬子に、春日は驚きの表情を見せた。 「どうしちゃったの。そんな素直に認めちゃって」 「本当にそうだな、と思っただけよ」 そう言って缶ジュースを一口含む。 そして、隣の男を見上げた。 「貴方って、無神経だし、下品だし、軽薄で私はやっぱり好きになれないんだけど」 「何、いきなり攻撃?」 顔をゆがめて、傷ついたーと軽口を叩く春日。 冬子は、そんな様子に柔らかく微笑む。 「だけど、貴方が人に好かれるのがなんとなく分かった気がするわ」 「おー、貶してから持ち上げるのね!テクニシャン!俺に惚れたら火傷するわよ」 「安心して、それは絶対にないわ」 やっぱりふざける春日に、珍しく冬子も軽口で返す。 またまた傷ついたーと泣きまねをする春日に、冬子は今度は声を上げて笑った。 暗くなるとさすがに肌寒くなる風が、公園内を通り過ぎた。 |