ぐう、と腹が鳴って、体が空腹を訴える。
ゆっくりと目を明けると、辺りはすでに真っ暗だった。

電気もつけていなかった部屋は時間感覚がなくなってしまう。
ベッドサイドの時計を見ると、すでに時間は大分遅かった。
夕飯の時間はとっくに過ぎている
いつもなら杉田さん辺りが呼びに来てくれるが、誰も、呼びに来なかった。
でも、今は誰とも顔を合わせたくないのでちょうどよかった。
放っておいてくれてるのだろう。

今まで眠っていた頭はまだぼうっとしている。
ああ、何も考えたくない。
まだ眠っていたい。
もう少し、このままでいたい。

色々ありすぎて、俺の小さい頭では許容量が一杯だ。
現実が急に加速して、俺だけ取り残して進んでいく。

俺の体はもうこれ以上、このままではもたない。
死という言葉が、すぐ目の前まで来ている。
それだけでももう十分にパニックになるのに、次々と意味の分からない現実が降ってくる。
死なないためには、一兄と四天のどちらかの力を借りなければいけない。
どちらかを、犠牲にしなければいけない。

どちらかを選ばなければいけない。

「………っ」

布団の中身潜りこんで、周りの世界を遮断する。
もう嫌だ。
怖い。
逃げたい。

何も考えたくない。



***




「な、何、どういうこと?嘘、だよな。嘘だろ?」

天の言った言葉が信じられなくて、上擦った言葉で否定を求める。
けれど天は楽しそうにくすくすと笑うだけだ。

「ねえ、一兄!」

弟が答えてくれないから、今度は逆隣りの兄に視線を向ける。
けれど長兄も静かにこちらをちらりと見ただけだ。

「父さん!嘘でしょ!」

思わず立ち上がりかけて、上座に座る父さんに詰め寄りそうになる。
しかしその手を大きな手が引き留める。
振り向くと一兄が俺の腕を引っ張っていた。

「三薙、落ち着け。先宮への不敬な態度は許されるものではない」
「落ち着けって、落ち着けないよ!なんだよ!意味分からないよ!」
「三薙」
「なんなんだよ、いきなり、意味分かんない!」
「三薙!」

大きくはないが低く鋭い叱責の声が飛ぶ。
一兄が厳しい目で俺を見ている。
幼い頃から一兄に教育されてきた俺は、反射的にすっと頭に上った血が冷めていく。
叱られたことが恐ろしくて、その場に座りこむ。

「………もう、分からないよ」

何がなんだか、分からない。
何を聞いたらいいのか、何を言えばいいのか、分からない。

「突然のことで、驚くのは無理はない。詳細についてはまた後日話すとしよう」
「………」

父さんが特に怒ることはなく、淡々と告げる。
その表情はいつもの先宮としての厳しく人間味のないもので、血のつながった父親なのに遠く感じる。

「しかし三薙、お前がこのままでは力が枯渇して死に至ること、そして一矢か四天、どちらかを選らばねばならないこと、それは事実だ。今年の三月、お前が次の学年にあがるまでを期限とする。それまでに結論を出せ」
「そ、んな………」

死ぬ。
そんなの嫌だ。
信じたくない。
でもそれなら、二人のどちらかに寄生しなければいけない。
それも嫌だ。
そして、儀式の方法なんて考えたくもない。
嫌だ嫌だ嫌だ。
何もかもが嫌だ。
信じたくない。

「さあ、下がれ」
「父さん!」

父さんに詰め寄って、何を言おうとしたのかは分からない。
言える言葉なんてない。
父さんになんて言ってもらえば満足なのかも分からない。
でも、このままじゃ、何も分からない。
何かを言ってほしい。

「三薙」
「いち、にい」

けれどその前に一兄の腕が俺を引っ張る。
厳しい声と腕に食い込む強い力に、これ以上何も出来ない。

「失礼いたします。先宮」
「ああ」

そのまま一兄は俺を引きずるように、広間から退出する。
廊下まで出てすぐに、一兄が俺を冷たく見下ろす。

「三薙、あの場での先宮へのあの態度は罰を受けても当然のものだ」

いまだに頭の中はぐるぐるしてるし、父さんに聞きたいことも一兄に聞きたいことも沢山あった。
でも、一兄にこんな風に怒られると、混乱も憤りが全てが失われていく。

「あ………、ごめん、なさい」
「気をつけろ」
「は、い」

一兄の言葉は、俺の感情を静めていく。
ただ、脱力感だけが残って行く。
足から力が抜けてふらつくと、腕を掴んだままだった一兄に支えられた。

「まあ、お前が混乱するのは分かる。大丈夫か?」
「………」
「そんな訳ないな」

それからふっと笑って、俺を穏やかに抱き込む。
さっきまで腕を強く掴んでいた大きな手で、頭をゆっくりと撫でてくれる。

「すまなかったな。突然過ぎた」

優しく慰められると、心が解けて、今度は哀しさが沸いてくる。
何がなんだかわからない。
ただ、哀しくて、涙が溢れてくる。

「な、んだよ………、本当に、分からないよ、一兄。何、なんで………」
「さっきの話は全て本当のことだ。お前も自分の体の不調には気付いてただろう」
「………それは」

気付かないふりをしていたが、どこかで気付いていた。
徐々に、早まっていっていた供給の回数。
怖くなって一兄のシャツをぎゅっと握ると、その時一兄のポケットから携帯の振動が伝わってきた。
一兄が携帯を取り出して、きゅっと眉を寄せ、ため息をつく。

「すまない。これから俺は少し出る。帰ってきたら改めて話をさせてくれ」
「あ………」

一兄が体を離すと失われた温かさに心細くなる。
不安そうな声に気付いて一兄が笑い、俺の頬をそっと撫でる。
そして指で目尻にたまった涙を払ってくれた。

「悪い。少しだけ待っていてくれ。お前が不安なのも混乱するのも分かる。後でゆっくりと話そう」
「う、ん………」
「いい子だ」

頭を優しく撫でてくれて、今度こそ完全に体が離れた。
思わず手が一兄の腕を掴んでしまいそうになるが、すんでのところで堪える。

「後は頼んだぞ、四天」
「はあい」
「四天」
「はい、承知いたしました」

ふざけた調子で返事をする四天に、一兄が少しだけ厳しい表情を見せる。
けれど本当に急いでいるのだろう、最後に俺の頭を一度だけ撫でると足早に去っていった。
兄が去って、残されたのは俺と冷笑を浮かべる弟だけ。

「………天」
「父さんも一矢兄さんも言っていた通り。さっきのことは全て本当。兄さんはこのままじゃ死んじゃう。それが嫌なら俺か一矢兄さんとセックスするしかない」

天は何かを聞く前に、ぺらぺらと話し始めた。
世間話でもするかのような朗らかで軽い口調だが、内容は全く軽くも楽しくもない。
ただただ絶望感が沸いてくるだけだ。

「………なんで、なんでだよ。変だよ。そんなの変だ。おかしい」
「うん、変だしおかしい。でもそんなの今更でしょ?うちが普通の家だと思っていた?」
「なんでお前はそんな冷静なんだよ!お前だって、そんな………」

俺だけじゃなくて、天にだって関わる話だ。
それなのになんでそんなに冷静でいられるんだ。
俺だけが混乱していて悔しくて哀しくて、声が大きくなっていく。

「兄さん、こっち」

しかしそれを遮るように天の手が俺の腕を引っ張る。

「なんだよ!」
「こんなところでする話じゃないでしょ?誰かに聞かれてもいいの?」
「………」

その言葉には、黙るしかなかった。
こんな話、誰にだって聞かれる訳にはいかない。

すたすたと歩いていく天の後ろを黙って付いていき、俺の部屋に辿りつく。
さっさと中に入れられ、ベッドに座らせられると、天は電話でお手伝いさんに飲み物を頼んだ。

「すぐに飲み物持ってきてくれるって」
「………」
「そんな泣きそうな顔しないでよ。俺が苛めてるみたい」

自分のベッドに座って、自分の部屋の匂いを嗅ぐと、肩の力が抜けていく。
するとまたあの混乱が蘇ってくる。
突然降りかかってきた出来事が多すぎて、頭も胸もぐちゃぐちゃで苦しい。

「なん、で、こんなことに………」
「まあ、それしか方法がないから?」
「他に方法、ないのか!?こんなことしなくても、なんか別の………っ!」

天は勉強机に体を預けるようにして立ったまま、肩を竦める。

「あったらわざわざしないよ、こんな術。綺麗なお姉さんとかだったら役得かもしれないけど、誰が好き好んで同性の兄弟とえっちしたいなんて思うの」
「な、なら、余計に、なんか!」

俺だって一兄と天と、なんて考えたくもない。
他に方法が探せばあるんじゃないだろうか。
こんな方法、誰も望んでいないだろう。
違う、そもそもの問題として、俺は二人を犠牲にするしかないのか。
他に方法はないのか。

「だからあったらそっちにしてるってば。まあ、正確に言えばやりようはあると思うよ。ただ多分かなり体傷めつけて改造するようなことになると思うけどね。下手に弄ると後遺症が残るかもしれないし。兄さんはよくても俺はヤだよ、そんなの」

体の中の力を無理矢理繋げるんだし、と天は怖いことを平気な顔で言う。
俺だって、そんなのは嫌だ。
でも、納得できない。
何か、何かもっと他の方法がないのだろうか。

「これが一番合理的かつ安全な方法だからこそ、これにしてる。分かった?」
「………」

天のこうやって、理詰めで人を無理矢理納得させるような話し方が、嫌いだ。
反論したくても、言葉が出てこなくなる。
力で捩じ伏せられるようで、酷く屈辱的に感じる。
たとえ天が正しくても、間違っていても、どちらにしても納得できなくなる。

「………お前のその反論を完全に封じ込めるようなやり方が、嫌だ」
「そう、ごめんね」

天は全く悪いとは思っていない様子で、ドアまですたすたと歩いていく。
部屋から出ていくのかと、その動きを見守っていると、ドアがノックされて驚く。
天はさっとドアを開けるとそこにはお盆を持ったお手伝いさんの姿があった。

「あ、お茶をお持ちしました」
「ありがとう」

笑顔を浮かべて受け取ると、いつもの杉田さんではないまだ若いお手伝いさんはさっと顔を赤らめる。
そのまま小さく頭を下げて、去って行った。

「はい、兄さん。どうぞ」
「………」
「兄さんの好きなカモミールティーだよ。ひとまず落ち着けば?」

差し出されるがままに受け取ると、カップは温かかった。
それに触れて自分の指先がとても冷えていたことに気づく。
はちみつとミルクがたっぷり入ったお茶は、爽やかな匂いがして、ほっとする。
鎮静効果のあるハーブティーは、体中を温めて行ってくれる気がした。
しばらくそのまま、二人でお茶を飲む音がだけが響く。

「ねえ、兄さん」

天はカップを勉強机におくと、こちらに近づいてきた。
それから俺の手から半分ぐらい中身のなくなったカップを取りあげる。

「な、に」

顔を上げると、天がにっこりと笑いながら俺の顎を掴む。
そしてそのまま、自分の顔を近づけてきた。

「んっ」

避ける暇もなく素早く、唇は少しだけ触れてすぐに離れていった。
いつもとは違う、軽い触れ合いに、余計に動揺する。

「な、何するんだよ!」

供給でもないのに、なんでこんなことをするのか。
体をひいて、ベッドの後ろの方にずりずりと逃げる。
天は俺のカップをベッドサイドの棚に置くと、自分もベッドに軽く腰掛ける。
あの時の恐怖を思い出して、俺はまた一歩、身をひく。

「俺にしときなよ」

しかし天はそれ以上近づいてくることはなく、笑いながら俺をまっすぐに見ている。
そしてやっぱり世間話でもするように軽く言う。

「え」
「共番の儀の相手、俺にしておきなよ」
「て、ん?」

天は笑っている。
いつものようにどこか意地悪くも感じる、冷たい笑顔。

「俺の方が力があるし、兄さんに供給するぐらいなら全然問題ない」

それは、確かにそうだろう。
一兄も俺とは比べ物にならないほど多いが、天の力は圧倒的だ。
俺への供給ぐらい、痛くも痒くもないかもしれない。

「選ぶなら力のある方がいいでしょ」
「何を、言ってるんだよ」

でも、そういう問題じゃない。
力が多いとか、多くないとか、そういうことじゃないのだ。

「それにさ」
「………天っ」

天がベッドに乗り上げてくると、ギシっとスプリングが音を立てる。
怖くてまた後ろに下がるが、壁に背がついてしまう。
もう逃げられない。

「天!」

怖くて怖くて天を押しのけようとして、その体を押す。
すると弟は俺の手を取って、手の平に軽く口づけた。
冷たい感触に、ざわりと全身が総毛立つ。

「こういうこと、一矢兄さんと出来るの?」
「………っ」
「一矢兄さんとキスして、体中触られて、お腹の中に精液を注ぎ込まれるの」

綺麗な顔をしてエグくてグロテスクな言葉を口にする天が、本当に怖い。
そんなこと、考えたくない。

「ね、出来る?」

けれど天は天使のような顔で笑いながら、更に俺を問い詰める。
そんなの出来ない。
一兄とそんな風にするなんて、考えたこともない。
想像することすら出来ない。

「む、無理」
「だよね?そしたらほら、俺なら慣れてるし」

ね、と言いながらもう一度手に唇が触れる。
ざわざわとした不快感に耐えきれなくて、天の手を振り払う。

「お前、本当に何言ってんだよ!」
「だって、兄さん死にたくはないでしょ?」
「………っ」

それは勿論だ。
死にたくなんてない。
でも、そんなことしたくもない。
それに一兄と天を縛りたくなんてない。
寄生なんてしたくない。

「ならほら、俺を選んどきなよ。ね」

笑う天を見て、混乱しきった頭の中に、一つだけ過去の言葉が浮かんだ。
あの時、そういえばこいつは言った。

「………だから、実験、なのか」
「え?」
「あの時、あんなことしたのは、だから、なのか」

実験だ、と言った。
何が実験なんだとあの時は憤ったが、こういうことだったのか。
こいつが俺相手に、そういうことが出来るのかの、実験。
つまり、その時にはすでにこいつは知っていたのだ、こうなることを。
半ば確信に近い思いで聞くと、天は少しだけ視線を落とした。

「うん。そう。この時のため」

でも、それなら、分からないことがある。
あれが本当に実験だったってのは分かった。
納得は出来ないけれど、理解した。

「なんで?」
「ん?」
「そんなことして、お前になんのメリットがあるんだ」

実験は手段。
分からないのは、目的。
だって、こんなことをして天には何もいいことがない。

「俺に一生力を供給しなくちゃいけなくて、あ、あんなことしなくちゃいけない。お前には何一つメリットがない」

父さんからの命令ってこともあるかもしれないが、嫌だったら一兄に押し付けてしまえばいいのだ。
俺が相手を選ばなければいけないのなら、一兄に押し付けるなんて容易いことだ。
でも、今積極的にこいつが働きかけているのは、どうしてなんだ。

「なのになんでお前は、自分から犠牲になろうとしているんだ」

天は俺の言葉に少し考えるように首を傾げた。
それから小さく笑ってからかうように言う。

「兄さんを思った弟の優しさ、とかじゃ誤魔化されてくれないかな?」
「………馬鹿にしてるのか」

どうしていつも天は、俺に本当のことを言ってくれないんだろう。
少しだけでも本当のことを言ってくれれば、納得も出来るかもしれないのに。
俺には言う価値もないのだろうか。
それが酷く哀しくて、辛い。
睨みつけると、弟は困ったように笑って肩をすくめた。

「俺にもメリットがあるから、だよ」
「メリット………?」
「兄さんの共生相手になれば、家からの援助も大きなものになるしね」

家の援助。
俺の共生相手になれば、そんなものがあるのか。
でもそうなるのかもしれない。
結局俺と言うお荷物を押し付けられることになるのだから。

「でも、それだけじゃない、はずだ」

けれど天がそんなものを必要とするとは思えない。
独立心に溢れ、自信家の弟が人の力を頼るはずもない。
そしてその自信に見合うだけの実力もある。

「確かにね。分かった。じゃあ、これも今度話すことに加えておくよ。どんどん増えていくなあ」
「………」

また、それなのか。
いつか話してくれるとは信じている。
でもいい加減、分からないことだらけで疲れてくる。

「不満?だよね」
「………何もかも分からなくて、苦しくて、辛い」

この前から、色々なことがありすぎだ。
俺では処理しきれいないことばっかりで、自分の無力に、無知に、不甲斐なさに疲れる。

「もう、嫌だ。なんで、こんなことに」

ぐるぐるして、感情のアップダウンが激しすぎて、頭が痛い。
誰も答えをくれないなら、望む答えが得られないのなら、何も考えたくない。

「急だったしね。疲れたでしょう。少し休んだほうがいい」

天が俺に手を伸ばしてくる。
その手が怖くて目を瞑るが、ひやりとした感触が額に触れた。

「あ、今、俺が自分をお薦めしてたってのは、一矢兄さんには内緒でね。抜け駆けしたら怒られちゃいそう」

悪戯っぽく言う弟の顔を見ようと目を明けるが、手の平で覆われていて何も見ることが出来ない。
暗闇の向こうから、少年の幼さを残す声が響く。

「まあ、覚えておいて。俺の方が絶対お得だから」
「………天」

それから簡単に眠りの呪を唱える。
疲れ切った心では抵抗する気もないので、その呪に耳を委ねる。
じわりじわりとと染み込んでくる睡魔に目を閉じて、ベッドの上に倒れるように横たわる。

「おやすみ。出来ればよい夢を」

重くなる手足と薄れゆく意識の中で、天の声が最後に聞こえた。





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