何度呼びかけても、携帯からは何も聞こえてこない。

「阿部、阿部!おい!」

なんで、どうして。
何が。
なんで。

「……なぎ、三薙!」

何があったんだ。
なんで、岡野が阿部と一緒に。
家って、一体なんなんだ。
どういうことだ。

「三薙!」

顔に衝撃を受けて、まるで霧が晴れたように目の前の視界が開ける。
すぐ鼻の先に、雫さんの心配したような怒ったような顔があった。

「三薙、どうしたの、大丈夫!?今の電話なんだったの?」
「あ………」

頬がじんじんする。
急激に現実感が蘇る。
握りしめた携帯がつなぎ目から軋む感触がする。

「ねえ、三薙!」
「う、ん………ごめん、大丈夫」

答えながらも、逸る心が止められない。
阿部が言っている家は、どこか分かっているはずだ。
俺は分かっているはずだ。
あの、家だ。

「三薙!」

思いついた時にはもう走り出していた。
あの家は電車で二駅先の街にある。
俺がいけるギリギリの範囲内だ。
でも電車なんて乗っていられない。

歩いていた路地から急いで大きめの路地に出る。
待ってなんていられなくて、道に沿って走る。
それなりに交通量のある道路を走っていると、後ろから目当てのものが近づいてくる。
手を上げるとすぐ横づけになったタクシーに急いで乗り込む。

「どこまでですか?」
「片山町までお願いします!」
「駅でいいの?」
「とりあえず駅まで。そこから案内します」
「はい。あ、そちらのお嬢さんも?」
「え」

ぐいっと体が押されたかと思うと、しなやかな体が隣に滑り込む。

「はっ、はあ、は、みなぎ、結構足早いね」
「雫さん!なんで!」
「とりあえず、急いでんでしょ。出てください」

雫さんが運転手さんに告げると、壮年の男性は一旦困ったようにミラー越しにこちらを見る。
ドアもまだ開いたままだ。

「いいんですか?」
「いいです、出してください」

答えたのは雫さん。
これ以上問答していても仕方ないと思ったのだろう、運転手さんが扉を閉め車を走らせ始めた。
驚いて、口を挟む暇もなかった。

「雫さん、なんで」
「だってあんたがあんな怖い顔するから。どうしたの、何があったの?」
「あ………岡野、が、岡野が………」
「落ち着け!」
「痛!」

もう一回頬を叩かれる。
雫さんが俺の手を握りしめて、じっと眼をまっすぐに見つめてくる。
その切れ長の目を見ていると、ずっと揺らいでいた心が少しだけ静かになる。

「分かったから、少し落ち着いて。ほら深呼吸」

そうだ、落ち着け。
落ち着け落ち着け落ち着け。
焦って行動しても、事態が好転することはない。
しっかりしろ、よく考えろ、焦るな、周りをよく見ろ。
目を瞑って大きく息を吸って、深く吐く。
術を使う時に精神統一するように、心を静かにする。

「………ごめん」
「ううん。それで何があったの」

何度か深い呼吸を繰り返すと、落ち着いてきた。
心配そうな雫さんの表情と、温かい手が、心にじんわりと染みてくる。

「さっき、電話があって」

タクシーの運転手の目を気にして、声を潜める。
自分の考えを整理するためにも、今あった出来事を説明する。
岡野の携帯なのに、なぜかクラスメイトが出たこと。
そのクラスメイトの様子が変だったこと、確執があって、あまりいい関係ではないこと。
むしろ俺は、憎まれていたこと、岡野とも最近険悪だったこと。
来いと言われたところは、おそらく捨邪地の一種で、危険なところであること。
話を聞いていくうちに、雫さんの眉間の皺が深くなっていく。
そして俺と同じような小さな声で聞いてきた。

「それは………、今から行くところって捨邪地なんだよね」
「………うん」
「家に連絡したほうがよくない?」

一瞬それは、考えた。
あの場所に俺だけで行くのは危険すぎる。
岡野を助けることなんて、できないかもしれない。
けれど、駄目だ。

「家に電話、したら、多分、関わるなって言われると思う。あそこは、うちの管轄じゃない。手を出すなって言われる。どうしてもって言ったら管理者に話をつけてくれるかもしれないけど、それじゃ、遅い」
「それは………」

雫さんは、唇を噛んで言葉を飲み込んだ。
管理者の家系である雫さんにも分かっているのだろう。
管理者は決して正義の味方ではない。
誰かを助けるなんてことは、依頼で、そして調整を行った上でもなければしない。
他家への、捨邪地への不可侵は、絶対のものだ。
それは仕事を始めてから、以前よりも思い知っている。

「でも、私達だけじゃ、危険だよ」
「あ、雫さんは帰って」
「いや」
「でも」

一言で断られるが、そんな訳にもいかない。
なんの関係もない雫さんを、こんなことに巻き込む訳にはいかない。
けれど、雫さんはやっぱりまっすぐに、俺を見ていた。

「三薙が岡野さんを放っておけないように、私も三薙を放っておけない。三薙は私を励ましてくれたり、救ってくれようとした。だから私も三薙の助けになる」

胸がぎゅうっと引き絞られる。
でも、結局俺は、雫さんたちを救えなかったのに。
俺は、何も出来なかったのに。

「誰か………味方になってくれそうな家の人………。四天に協力を頼むっていうのは?」

喉が詰まって何も言えなくなっていると、雫さんが提案をしてきた。
俺だけじゃ、確かにあの家は、危険だ。
助けを呼ぶとしたら、一兄か双兄か、そして四天。
家の人だとしたら、後は、熊沢さんや志藤さんも、助けてくれるかもしれない。

「………」
「三薙?」

一兄はきっといない。
双兄はいたら、助けに駆けつけてくれるだろう。
使用人の人達を、俺の我儘で巻き込む訳にはいかない。
他家の捨邪地に関わったと家に知られたら、どうなるか分からない。

双兄に電話しようか。
でも、分かっている。

一番助けを求めるのにふさわしいのは、天だ。
強さだけでなくて、力の質から言っても、それは確かだ。
それは、分かっている。
天が、一番強いのだ。
分かっている。
そして、あいつは今までなんだかんだ言って、助けてくれた。
それも、分かっている。
俺は迷惑をかけるだけなのに、ちっぽけなプライドが邪魔して素直に礼も言えないのに、助けてくれた。
こんな時だけ頼るのは、最低だとも分かっている。
そしてこんな時なのに、天を頼ることに抵抗も覚えてすらいる。

最低だ。
俺は本当に最低だ。

けれど、岡野を助けたい。
岡野に何かあったらと想像するだけで、全身を掻きむしりたくなるほどの焦燥感に襲われる。
こんな時だけ頼る恥も申し訳なさも悔しさも、その焦燥感が遥かに凌駕する。

「………電話してみる」
「うん。それがいいよ」

雫さんがほっとしたように頷いた。
携帯を取り出して、登録してある番号を呼び出す。
3コール目で、コール音が消えた。
聞こえてきたのはいつだって冷静で大人びた、けれど少年の面影を残す高い声。

『はい』
「………四天」
『何?今度は何をタダ働きさせるつもりなの?』

俺から電話をするなんて、滅多にあるものではない。
ろくでもないことだと、分かっているのだろう。
からかうように笑い交じりに皮肉られる。
ちくりと屈辱と罪悪感がないまぜになった感情が疼く。

「………ごめん。ごめん、でも、頼む。頼む、助けて。頼む、勝手だって分かってる、でも、助けてくれ。ごめん」
『………』

俺は最低だ。
憎み嫌う相手に、いつだって頼り寄りかかる。
結局俺は、一人では生きていけないのだ。
どう足掻いたって、無理なのだ。
でも、今は岡野を助けられるのならなんでもいい。
少しでも、岡野を無事に助けられる可能性をあげたい。
岡野を助けるために、天を利用する。
ああ、本当に、最低だな。

『とりあえず用件を言ってくれる?』

天がため息交じりに、そう言ってくれた。
嬉しくなって、声が弾む。

「あ、ありがとう!」
『まだ聞くとは言っていない』

それは、そうだ。
もしかしたら断られるかもしれない。
でもどこかで、天ならきっと聞いてくれるなんて、思っている。
そういえば、不思議だ。
天は結局、皮肉を言いながらも、文句を言いながらも、俺の頼みを聞いてくれていた気がする。

「岡野が、阿部と、あの家にいるみたいなんだ。あの、春に、お前に助けられた、あの家」
『ああ』
「岡野の携帯から、阿部が電話をかけてきて、あの家に、いるって」
『阿部って、あの時助かったお兄さんだっけ?』
「そう………、なんか様子が変で、岡野の携帯なのに、岡野が、出なくて。岡野もいるから、あの家に来いって」
『ふーん』

気のない返事に、焦燥感と苛立ちが増す。
なんでそんなに落ち着いてるんだ、なんて八つ当たりめいた気持ちも浮かぶ。

「今から、あの家に行くけど、出来れば、力を貸してほしい。家には、連絡できない」
『まあ、そうだろうね』

天が、鼻を鳴らして面白そうに笑う。
肩をすくめて皮肉げな笑顔を浮かべている様子が、脳裏に浮かぶ。

『放っておけば?』
「………っ」

息をつまって、咄嗟に言葉が出てこない。

『危険度も高いし、他家に関わるのは大問題。いいことないよ?』

頭が沸騰しそうに、熱くなる。
今にも怒鳴りつけてしまいそうだ。
でも、俺は頼む立場だ。
落ち着け落ち着け落ち着け。
これはいつもの天のペースだ。
俺をわざと怒らせて、感情を爆発させる。

「放って、おけないんだ。岡野がっ、岡野を助けたいんだ!頼む、助けてくれ!」
『また俺はタダ働き?』
「なんでもするっ!俺ができることなら、なんでもするから!」

なんだって、する。
岡野の無事な姿が見られるなら、なんだっていい。
俺が天に与えられるものなんて、ほとんどないけれど、全部全部あげていい。

『なんでも、ね』

くすっと、小さく笑う声が、耳元で響く。
楽しそうな、声。

『その言葉、忘れないでね』
「て、ん」
『いいよ、力を貸してあげる』
「天!あ、ありがとう!ありがとう!」

歓喜が体中を包んで、つい場所も忘れて大声を出してしまう。
天が来てくれると思っただけで、不安が少しだけ薄れる。

『大きな期待はしないでね。俺が関わったからといって、うまく収まるとは限らない』
「………」

けれど釘をさされるように言われた言葉に、再度言葉を失う。
弾んでいた気持ちが萎んでいく。
言われたことは、もっともだ。
でも、そんな言葉聞きたくない。
今は聞きたくないんだ。
けれど天は淡々と現実的な指示をつきつける。

『それと俺が着くまで、勝手なことはしないでね。家の中に入らない。待っていて。無事に助かる可能性を高めたいのなら、慎重な行動を心がける』
「………」
『それを約束しないのなら行かない』

本当ならついた途端に家の中に飛び込みたい。
でも、確かに俺だけ先に入ってもこの前のようなことになってしまうかもしれない。
唇を一度ぎゅっと噛みしめて、頷く。

「わか、った」
『くれぐれもよろしくね』
「………うん」
『それじゃ今から出る。家にも適当に言い訳していくよ』
「あ、ありがとう」
『はいはい、どういたしまして』

最後に投げやりな返事が聞こえて、通話が切られた。
体から力が抜けて、タクシーのシートに深く凭れかかる。
隣ではらはらと見守っていた雫さんが首を傾げる。

「三薙、どう?」
「あ、来てくれるって」
「そっか、よかった」

そうだ。
天が来てくれる。
楽観視してはいけない、期待しすぎてはいけない、落ち着いて現実を見ろ。

「………うん、よかった」

それでも、全身を包む安堵感に抗うことは出来なかった。





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