雫さんが、ちらりと俺の方を見る。 「………どうする?」 「………」 俺も雫さんを見てから、渇いた口を湿らすように唾を飲み込む。 それから小さな声で、一応呼びかける。 「………阿部?」 けれど返ってくるのは静寂ばかり。 開いたドアの先にいるのは、阿部ではないのか。 「………」 以前来た時ほどではないが、やはり闇の気配が濃厚で当たりの様子を探りにくい。 まだ昼だからいいけれど、これが夜になったら前の時のような息をするのも苦しいほどの空気になるだろう。 それに、あの時は初夏だったからいいが、今は冬だ。 昼の間はまだいいが、夜になったらどれだけ気温が下がるだろう。 じわりと焦りが生まれてくる。 駄目だ、落ち着け。 パタパタパタ。 軽い小さな足音が、開いた扉の向こうから聞こえてくる。 「誰か、いるの?」 雫さんがそっと声をかけて、ゆっくりと歩きはじめる。 その後を慌てて着いていく。 「雫さんっ」 「ちょっと、見てみよう」 言いながら、鞄の中から棒のようなものを取り出し、構える。 「何それ」 「特殊警棒みたいなもの。私も剣やってるから、これ使いやすくて」 「なるほど」 仕事をする時には立ち周りをすることもあるので、雫さんも昔から武道は習っているらしい。 俺もポケットから鈷を取り出し、ぎゅっと握りしめる。 いつでも力を込められてるように、全身に力を纏わせる。 大丈夫、供給はされている。 動かない方がいいかもしれないけれど、状況を把握して後顧の憂いを取り除いておきたいと思う。 「………雫さん、俺から絶対離れないでね」 「それは私の台詞。落ち着いて行動してね」 「分かった」 確かに頭に血が上りやすいのは、俺の方だ。 落ち着いて、確実に行動をしよう。 絶対に雫さんには傷一つつけない。 雫さんの一歩前に出て、扉が開いている部屋を警戒しながらゆっくりと覗き込む。 「………」 部屋の中は、奥に大きな窓があって、光を取りこんでいて廊下よりは明るかった。 それでもやっぱり薄暗い。 恐らく10畳ほどの赤い絨毯が敷かれた洋間。 置かれたクローゼットや鏡台は埃まみれで古びてはいたが他の調度と同じように重厚で、きっとまだ手入れがされていた頃は綺麗で豪華な部屋だったのだろう。 「………誰も、いない」 部屋の中には、誰もいる様子はない。 でも、クローゼットの中に隠れていたりとか、するかもしれない。 気を引き締めていかないと。 「暗い、ね」 一歩中に入ると、雫さんが不機嫌そうに言いながら、後に続いて入り込む。 バタン! その瞬間、大きな音を立てて、俺たちの後ろの扉が閉じた。 「わ!」 「雫さん!?」 雫さんが驚いた声をあげて、俺も慌てて後ろを振り返る。 扉はぴっちりと閉じていて、雫さんが急いでノブに飛びつく。 しかしノブを回しても引っ張っても押しても、まるで鍵がかかっているように、扉はガタガタと音を立てるだけで開く様子はない。 さっきまでは普通に開いていたのに。 「何、なんで!」 雫さんが癇癪を起こしたように何度も何度も扉を揺らす。 その女性にしては筋張った長い手を押さえる。 「開かない!」 「落ち着いて、力で開くと思う」 「もう!」 引きはがすようにして止めると、ようやく放してくれた。 そして自分を落ち着かせるように、大きくため息をつく。 何度も深呼吸して、荒い呼吸を整える。 「………ごめん」 「ううん」 お互い、この家と空気に気圧されて少し浮足立っている。 落ち着かないといけない。 特に俺はここでもう二度と、誰も何も失う訳にはいかない。 「……中は、誰もいないよね」 雫さんが扉から一旦離れて、部屋の中に振り向く。 俺もゆっくりと辺りの気配に気をつけながら振り向く。 部屋の中はやっぱり嫌な空気に満ちてはいるが、誰かがいる様子はない。 「………うん、いないと思う」 雫さんがゆっくりと歩き、鏡台のところまで歩いていく。 そして置かれていたものに手を伸ばして、小さく首を傾げる。 「………写真?」 この前来た時は家の中をじっくり見ることもなかったので、部屋の中なんて入ってもいない。 そんなものが、あったのか。 雫さんに近づいて、後ろから覗き込む。 それはピカピカの木の枠で出来たクラシックな作りの写真立て。 恐らくこの家だと思われる玄関前で、穏やかに微笑む三人の姿があった。 「お父さんとお母さんと男の子、か」 まだ若い頼もしそうなお父さんと優しそうなお母さん、そして賢そうな小学生低学年ぐらいの男の子が幸せそうに身を寄りそわせて笑っている。 それは見ているこっちが微笑んでしまいそうなほどに温かい写真。 「………あれ」 「え?」 けれど、違和感に気付く。 雫さんが不思議そうに俺を振り返る。 「………なんで、それだけ新しいんだ」 「え」 「他のは皆埃を被って汚くなってるのに」 「あ」 その写真立てだけ、たった今買ってきたかのようにピカピカに磨きこまれて綺麗だった。 埃一つ、かぶっていない。 「な、何これ」 雫さんが熱いものでも触ったかのように、慌てて写真立てから手を放す。 それと同時に、廊下の方から何かが聞こえてきた。 カツ、カツ、カツ、カツ、カツ。 それは、紛れもない足音だ。 「え」 ゆっくりとした足取りで、こちらに近づいてくる。 雫さんと俺は、ぎこちない動きで、お互い顔を見合わせる。 「………三薙のクラスメイト、じゃ、ないよね」 「………違うと思う」 人間の気配は、相変わらずしない。 そこには濃厚な邪の気配があるだけ。 阿部だったら、もっと乱暴な歩き方をしているし、こんな足音ではないはずだ。 そうだ、この足音は、スニーカーとかローファーの足音ではない。 しっかりとした、革靴のような。 心臓の鼓動が、スピードを増して行く。 血がドクドクと流れる音が、耳元で響く。 「ここに隠れてよう」 「………うん」 以前天に教わったように、息を潜めて気配を消すように務める。 雫さんも同じように息を潜めた。 カツ、カツ、カツ、カツ、カツ。 足音は徐々に、ここに近づいてくる。 「………」 「………」 カツ、カツ、カツ、カツ、カツ。 カツ。 部屋の前で、足音が止まる。 雫さんが静かに息を飲んだ。 「………っ」 トントン。 心臓が飛び跳ねる。 雫さんの手が、俺の手をぎゅっと握る。 俺も同じように、その手を握り返した。 気付かれないように息を止める。 心臓の音が、部屋の外まで響いてしまいそうだ。 トントン。 トントン。 「………」 「………」 扉の前にいる何かは、三回目でノックをやめた。 しばらく、そこに立っている気配がする。 カツ。 そして、また足音が響く。 カツ、カツ、カツ、カツ、カツ。 それからゆっくりとした足取りで、また元の廊下へ戻って行った。 徐々に徐々に、遠ざかって行く。 「………」 「………」 その足音をじっと聞きながら、俺たちも息を潜め続ける。 ようやく聞こえなくなったところで、二人同時に息を吐いた。 「………は、あ。行った?」 「多分」 雫さんの手が、ゆっくりと俺の手から離れていく。 温もりと圧迫感を失った手が、少しだけ冷たくなった。 二人で力一杯握りしめていた手は、赤くなっている。 「何が、いるんだろ」 「分からない。でも、下手に動かない方がよさそうだな」 「………うん」 ここでじっとしているか、早く家から出た方がよさそうだ。 天がくれば、なんとかなるはずだ。 雫さんが、部屋の中を不安そうに見回して、ため息をつく。 「倒せる、かな」 「倒せるかもしれないけど、ここは捨邪地だし、あまり弄らない方がいいかもしれない」 「そう、だね」 この前みたいなことになるのは、御免だ。 早く岡野を助けたい。 でも、だからこそ慎重に動かなければいけない。 「ここで待つか、外に出るか」 「外に出た方が、いいかもね。あ、電話してみる?今どこだろう」 「………うん」 そういえばここで以前かけた電話では、酷い目にあった。 あまり気が進まなかったが、今は雫さんがいるから、きっと何があっても耐えられる。 だからか、焦ってはいるが前よりは恐怖を感じない。 「………あ、圏外だ」 「私のもだ。さっきまで繋がってたのに」 しかし携帯は結局使えることはなかった。 すぐ外では電波があったはずなのに。 電話をしなくて済んだことにほっとするけれど、天に連絡がとれないのは不安だ。 「やっぱり、出た方がいいな」 「うん………」 カシャン! 雫さんが言いかけた時に、小さな音が響いた。 「わ!」 「うわ!」 二人同時に驚きの声を上げる。 そしてお互い慌てて口を抑えた。 「な、何!」 ひそひそと声を小さくして、辺りを見回す。 心臓がバクバクして、今にも破裂しそうだ。 「さ、さっきの写真、だ」 音はどうやら、さっきの写真から出ていたようだ。 鏡台からいつのまにか落ちている。 変な置き方もしなかったし、落ちるのもおかしい話だが。 「だ、大丈夫?」 「う、ん」 ゆっくりと近づいて、上から覗き込む。 ピカピカだった木の写真立てはいつのまにか腐り朽ちていた。 ガラスにもヒビが入り、写真が黒く変色している。 「………」 「さっきまで、綺麗だったのに………」 「………なんか、書いてある?」 変色していると思われた黒は、なにやら字のようだった。 写真の上に黒いマジックか何かで書かれている。 ヒビが入ってよく見えないが、なんとか字が判明する。 そこには一言書かれていた。 助けて。 「どういう、こと」 「………分からない。俺たちを惑わせようとしてるだけかもしれないけど」 何もかも分からない。 でも、じんわりとした悪意を感じて、冷えていた体から、体温が更に奪われた気がした。 |