体中を打ちすえられるような衝撃に、咄嗟に目を瞑る。
急に体を纏わりつく邪気の気配が増す。
息が苦しくなる。

「ぐ、う」

ふらついて、慌てて足を踏ん張り踏みとどまる。
急いで目を開けて、あいつからの攻撃に備える。
あいつは、もうすぐ目の前にいるはずだ。

「え………」

けれど、そこには、想像していた光景はなかった。
あいつは、いない。
それどころか、部屋の中はがらんとしていて、何もなかった。
いや、さっきまでなかったゴミやガラス片なんかが散乱している。
でも、クローゼットも鏡台も、ない。

「な、んで………」

目の前には、急に薄暗くなった、廃墟があった。
いや、さっきまでも廃墟だったが、ここまで荒廃していなかった。

「四天!なんで!?」

雫さんの声に、反射的に振り向く。
部屋を出たところにいる雫さんの前に、見慣れた弟の姿があった。
白い力を纏い、暗闇の中、存在を誇示するように綺麗に浮かび上がっている。
抜き身の真剣を下げて、特に動揺した様子なく、冷たい表情でふっとため息をつく。
さっきまでは、いなかったはずだ。

「いたいた。はー、疲れた」
「てん………」

のんびりと肩を竦める様子は、自宅にいる時と全く変わらない。
その余裕のある態度に、さっきまでの緊迫した空気が嘘だったかのように感じてくる。
そして何より天の姿を見た時から、緊張がじんわりとほどけていく。

「やっぱり入ってたんだ。まあ、想像ついたけど。俺、入るなって言わなかったっけ?雫さんまで巻き込んで」
「あ………」

呆れたように目を細める天に、雫さんが慌てて割って入る。

「あ、私は勝手に付いてきちゃっただけだから」
「それでも他家を巻き込むのは、思慮が浅すぎます。何かあったら宮守の責任問題になる」
「………それ、私にも言ってる?」
「どう思います?」
「………性格、悪い」

憮然とした雫さんの言葉に、天が小さく笑った。
その笑い方が本当にいつも通りだったので、そこでようやく我に返る。

「て、天、これって」
「え?」
「なんで、さっきの部屋は、鏡台は、あいつは!?」

部屋はずっと薄暗くなっている。
窓の外も、そろそろ夕暮れの終わりに近づいているようだ。
空気が重さを増し、息苦しくて、体に纏わりつく。
さっきまでとは、まったく違う空間になっている。

「何が、なんで!?」
「え、あれ!?なんで!」

雫さんもようやく気付いたのか辺りをきょろきょろと見渡して目を丸くする。
そういえば、この空気は知っている。
最初にこの屋敷に訪れた時、確かにこんな風だった。

「二人とも落ち着いて」

そこで天がまたため息をつく。
呆れたようにうんざりとした口調で、それでも説明してくれた。

「さっきまで兄さん達がいたのは結界の中。兄さんはこの前あの変な夕暮れの街でも経験したでしょ。あれと同じ。異質な空間に二人で行ってたの。この屋敷全体に結界が張ってあるから面倒だった」

いつも通りの冷静な口調に、頭が徐々に冷えてくる。
さっきの何かが破裂するような音は、結界が破れる音だったのか。
そういえば、雫さんと言っていたっけ。
ここは結界の中だったりして、と。
それが、あたっていたのか。
そう思うと、取り乱してしまった自分が恥ずかしい。

「………やっぱり、結界、だったのか」
「そっか、そういうことか」
「あいつは、なんだったんだ」

あいつは、すぐ傍まで来ていた。
目を爛々と輝かせて楽しそうに笑っていた。
あれ、なぜだろう。
目が光っていたのは思いだせるのだけれど、顔立ちが思い出せない。

「どんな世界だったの?」

天が聞いてくるので、さっきまでの出来事を雫さんと二人説明する。
二人共興奮していたので、あまり要領を得なかったが、天は黙って頷いている。
足音、赤く染まった部屋、浴室、日記、文字、そして隠し部屋、そこにいた少年。
刺される寸前だったところで、天が助けに来たこと。

「ふーん、タイミングいいね」

天がちらりと笑う。
そういえば、絶妙なタイミングだ。
まるで、登場するタイミングを測っていたのではないかと思うぐらい。
そんなことは、ないだろうけど。

「まあ、一応、俺が結界を破ったってことになるのかな。急に抵抗が止んだ。それまで結構手こずらせてくれたんだけど」
「あ、私がドアを開けたからとか?それで結界が弱まったとか」
「それもあるかもね」
「それ以外あるの?」
「さあね、分からない」

天が雫さんの言葉に肩を竦める。
とにかく、あれは、結界の中の架空の出来事だったのだ。
あの子供部屋も、赤く染まった部屋も、浴室も、あいつも。

「………あいつは、もういないんだな」
「子供?そういえば、ネタはノンフィクションみたいだよ」
「ネタ?」
「うん、興味が出たから前の時にちょっと調べたんだけど、この家、10年前ぐらいに殺人事件があったんだってさ」

いわくつきの有名な幽霊屋敷。
この家で過去に何かがあったとは聞いていた。
でも確か、無理心中だったと、聞いた気がする。

「………心中じゃなくて?」
「ああ、心中説もあるね。若い夫婦が二人で死んでた。夫は浴室で首を切って沈んでいた。妻は寝室でメッタ刺し。どちらも部屋中血まみれだったらしいよ」
「………っ」
「第三者に殺されたか、妻を殺して夫が自殺か。でもそれにしては死亡時刻とか夫の傷とかがおかしいらしいけど」

楽しげに話す弟に、気分が悪くなる。
血なまぐさい話に、鉄臭さが鼻孔の奥を付いた気がした。
赤く染まった部屋、何かの液体で満たされた浴室。

「奇妙なのは、子供がいた形跡があること」
「え」
「子供部屋があって、妻の日記には子供の成長について書かれていたんだって」
「それ、が?」

子供と聞いて、さっきのあいつが思い浮かぶ。
悪意の塊のような表情をした、子供。
顔は思い出せないのに、笑っていたのははっきりと思いだせる。
でも、何が奇妙なのだろう。
子供部屋があるのも、日記に子供のことが書かれているのもおかしくない。
ああ、でもあの日記は、おかしかったけれど。

「二人に子供はいなかった。養子もいない」
「え」
「そして、誰ひとりその子供を見ていない。この屋敷からも発見されなかった」

俺と雫さんが、同時に息を飲む。
どういうことだ。
見えない子供。
存在しないはずの子供。

「ね、ちゃんと元ネタ通りでしょ。設定に忠実だね」

天が楽しそうにくすくすと笑う。
確かに今聞いた話は、すべて俺たちが経験してきたことと紐づけられる。
これは、どういうことなんだ。

「結界を張った人、結構凝り性なんだね」
「誰が、結界なんて………」
「兄さんのクラスメイトなんじゃないの?」
「阿部は、そんな力はないはずなのに………」

弟は黙って肩を竦める。
この結界を張った人間が、噂話を元に、作りあげたってことか。
この前あの街に迷い込んだばかりなのに、今度もまた結界だ。
そして、今回は間違いなく、誘いこまれた。
誰かの意図で、俺はここに導かれた。

「………なあ、もしかしてこの前の、あの夕焼けの街も、これ張った人間と一緒なのか?」
「それも俺には分からない。でも、似たような術の作りをしてるのは確かかな。結構腕がいい」

俺たちの会話を聞き咎めて、雫さんが不安げな顔で俺を見つめる。

「この前も同じようなことがあったの?」
「うん、天と、後、家の人と、巻き込まれて………。あれは、偶然じゃ、なかったのか?」
「さあ」

天が小さく笑って首を傾げる。
この万能な弟にも、分からないのだろうか。
でも、考えてみればおかしい。
なぜ今まで、俺は疑問に思わなかったんだ。
あんな街中に、結界が張ってあること自体、おかしなことだ。
今回は、偶然では、間違いなくないだろう。
誰かが悪意を持って、俺を結界の中に誘いこもうとしている。
やっぱり、阿部なのか。

「俺や雫さんが来たのは想定内だったのか、想定外だったのか。どっちだろう」
「………天?」
「ま、いいか。ここで悩んでも解決しない。先に進もう」

くるりと踵を返して、天がすたすたと歩きはじめる。
俺と雫さんは慌ててその後を追い掛ける。

「あ、待って!」
「ああ、その前になんか言うことないの?」

天が3歩ほど歩いてから、立ち止り振り返る。
駆け足気味だった俺と雫さんは、急に立ち止ったせいでたたらを踏む。

「あ………」

天は俺の顔を見て笑っている。
獲物をなぶる猫のような、残酷さをにじませた顔。

「まあ、守れるとも思わなかったけど、本当に約束をきっちり破るよね、兄さんは」
「………」

だって岡野の姿が見えたんだ、と言い訳しそうになった。
でも、冷静さを失ったのも、約束を破って入ってしまったのも、天に手間をかけさせたのも、全部俺が未熟なせいだ。
四天のいうことは、もっともだ。
迷惑をかけている。
感情的に言い訳したり怒鳴りつけたら、余計に呆れられるだけだろう。

「ごめん。手間をかけた………。今回も迷惑かけて、本当にごめん。ごめんな。謝ってばかりで行動に移せなくて、本当に、毎回、申し訳ないんだけど………」

兄達や弟のように冷静に行動したいと思う。
けれど俺はいつもこうして失敗してばっかりだ。
その度に尻拭いをするのは周囲の人間。
天が怒るのは、当たり前だ。

「ごめん。それと、来てくれて、ありがとう。助かった。今も助けられた」

天がつまらなそうに鼻に皺をよせながら、じっと見ている。
それから嘲るように笑った。

「謝るぐらいならやらないでほしいんだけど」

反射的にやっぱり腹は立ってしまうが、怒鳴りつけたりはしない。
迷惑をかけているのだから、自分の非はせめて認めよう。
痛いところをつかれて逆切れなんて、もうしたくない。

「………うん、ごめん」
「また怪我してるね」
「つっ」

一歩近づいた天が手を伸ばしてきて、傷のついた右頬をぐいっと押さえつける。
ピリリとした痛みが走って、顔を顰めてしまう。

「ボロボロで、汚い」

笑いながら天が俺の血がついた左手の親指をぺろりと舐める。
頬が、ヒリヒリと痛む。

「力は大丈夫?」
「………あ、雫さんに貰ったから」

その言葉に天が雫さんに視線を向ける。
雫さんはなぜかびくりとその場で飛び上がり姿勢を正す。

「雫さんは怪我は?」
「あ、ちょっと擦り傷とかはあるけど」
「力の方は平気?」
「まだ全然平気!」
「そう頼もしいね」

雫さんを気にいっているらしい天は、くすりと笑う。

「でも、ここで帰れって言いたいんだけど?」
「………出来れば、見届けたい。でも、邪魔なら帰る。四天がいるなら、大丈夫だろうし」

つまり、雫さんは、俺のことは心配で、天なら大丈夫だと思っているのか。
心配で付いてきてくれたのか。
まあ、実力からいって間違いなく正しいんだけれど、やっぱり悔しい。

「兄さんよりは利口ですね」
「………あんた、年上に対して、本当に生意気」
「ごめんなさい、正直なんです」

やっぱり、ムカムカする。
いや、正しいんだけど。
天の言うことはもっともなんだけど。
でも、ムカつきは抑えられない。

「まあ、じゃあ、力を貸してください、お姉さん」
「もう!でも、手伝えるなら、行くよ」
「ただ、指示には従ってもらえる?」
「それは、うん。あんたが一番経験豊富だろうし、従うよ」
「本当に素直でいいなあ。誰かには見習ってほしい」

分かってるよ。
俺は考えなしで天の邪鬼で馬鹿な行動ばっかりする足手まといだよ。
分かってる。
でも、雫さんの前でそこまで言わなくてもいいのに。

「それじゃ、囚われのお姫様を助けに行こうか」
「………天」
「そんな顔しなくても、やるなら全力を尽くすよ」

ふざけた物言いに、つい咎めるように名前を呼んでしまう。
天はやっぱり余裕の態度を崩さないまま、歩きはじめる。

「多分大丈夫だよ。多分、ね。さて、二階かな」

不安なんだか、安心なんだか、分からない。
いや、安心してしまっている。
天が、現れたことで、俺は安心してしまっている。
さっきまでの緊張は、なくなっている。
どうしてもやっぱり、天がいれば大丈夫って、信じてしまう。
認めたくなくても、俺の感情は、こいつを信頼してしまっている。

「………本当にごめんな、天」
「ま、仕方ないかな。あ、もう一つの約束は忘れないでね」
「もう一つ?」

なんのことか分からず聞き返すと、天は振り返って眉を顰めた。

「もう忘れてるの?なんでもするって言ったでしょ」

そういえば、そうだ。
天に来てもらうためそういう約束をした。
口から出まかせを言ったわけではない。
単に本気で忘れていただけだ。

「そ、それは、勿論、忘れない」
「それならよかった。もう忘れられたのかと思った。そんな訳ないよね」

嫌みたらしい言い草に、やっぱりムカムカする。
どうしてこいつはこんな物言いしか出来ないのだろう。

「なんか、俺にしてもらいたいこととか、あるのか?」

気を取り直して話を逸らすと、天が唇を持ち上げる。
さも面白そうに。

「そうだね、どれをしてもらおうかな」
「どれってそんなにあるのか!?」

そういえば一つだとは言ってなかった。
なんでもするつもりだが、そんないくつも言われるとさすがに困るかもしれない。
天がどんなことを言いだすかは分からないが。
金は、あまりない。

「いくつかね。大丈夫、どれか一つだよ」
「なら、いいけど」

天の言葉に、一安心。
でも、今度は別のことが気になる。
金は天の方が持っている。
器用さは天の方が上だ。
頭のよさは、同じぐらいだろうか、多分。
運動神経は、天の方がいい。
あ、へこんできた。

「………俺がお前に出来ることなんて、あるのか?」

弟は喉の奥で笑った。

「あるよ。兄さんにしか出来ないこと」





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