部屋に戻ると、そこには弟がいて、身支度を整えていた。 「お帰り、どこで寝てたの?」 結局もう一室露子さんに用意してもらって、そこで休んでいた。 夜中に部屋にいなかった弟は、明るい日差しの中、何事もなかったかのように平然と笑う。 いつものように、朗らかに朝の挨拶を交わす。 「………」 怒りがこみ上げて来て、その腹を焼く熱さの任せるまま、拳を弟の綺麗な頬に叩きこもうとする。 けれど寸前で、俺の手は弟の手によって止められた。 「後で殴られてあげてもいいけど、今は駄目。これから仕事。仲間割れしてるところとか、他家に見せるのはあまりよろしくないね」 あくまで冷静に、平然と、弟はそんなことを言った。 逆上している俺と、そんな俺を子供のようにいなす天。 どこまでも馬鹿にされているようで、余計に頭が熱くなってくる。 「………っ」 何かを言いたくて、でも声が出てこなくて、胃の中がぐるぐると重くなって、気持ち悪い。 感情が昂ぶりすぎて、目に涙がこみ上げてくる。 悔しい、悔しい悔しい。 「おま、えは!」 掴まれた手を振り払って、拳を握る。 感情が抑えられない。 俺を、一個の人間として扱わない弟が、憎くて仕方ない。 「どうして、お前はそうなんだよ!」 「そうって?」 「なんで、俺の意志を無視するんだよ!俺は、俺はっ」 天は面白いものを見るように、俺を見下している。 どうしたら、伝わるんだ。 どうしたら、俺は、天に近づけるんだ。 近づこうとしたのに。 理解しようとしたのに。 どうやったって、こいつは俺を否定する。 俺の努力を嘲笑うように、俺の全てを否定する。 「馬鹿だけどっ、お前に迷惑ばっかりかけてるけど、だからといって、お前に好き勝手にされていいって訳じゃない!」 俺を、兄として、見ていない。 兄として、どころじゃない。 俺を意志のある人間として見ていない。 それでも、知りたかったのに。 こいつに、近づきたかったのに。 「俺に怒ってるなら、まず言葉で言えよ!どうして、あんなことするんだよ!俺の、俺の意志を無視するな!俺は、人形じゃない!お前の好き勝手にされる、物じゃない!人間だ!」 「………」 「俺を、否定するな!無視するな!」 言いきって、涙が目尻に浮かび、息が乱れていた。 情けなく肩で息をしながら、目の前の弟を睨みつける。 「うん」 弟はじっと俺を見ていた。 そして、その一瞬後。 「………え」 笑った。 ふわりと、優しく目を細めて、笑った。 今まで俺に向けられたことなんてない、優しい、顔。 まるで栞ちゃんを見ている時のような、嬉しそうな蕩けるような、笑顔。 「ごめんね。やりすぎたかもしれない」 そして素直に謝った。 「少し悪ノリしすぎた」 「………な」 笑顔と、軽くはあるが、確かな謝罪に毒気が抜かれてしまう。 でも、納得できなくて、詰め寄る。 「なんの、つもりだよ!なんで、あんなこと!」 「そうだな」 天は思案するように、首を傾げる。 「あれは、種まきかな」 「………っ」 やっぱり馬鹿にしたような言葉に、握った拳を再度弟に叩きつけようとする。 しかし再びその手はなんなく止められてしまう。 「だから、殴るのは後でね。仕事が終わったら殴られてあげる」 「何、笑ってるんだよ!」 殴られそうになったと言うのに楽しそうに天は、くすくすと笑う。 怒り狂っている俺とは、まったく反対に。 「怒っている兄さんが、嬉しいから」 そして意味のわからないことを言う。 だから、やっぱり、毒気が抜けてしまう。 天の言っていることが、さっぱりわからない。 でも、いつになく、とても嬉しそうだ。 「それでいいんだよ、兄さん。理不尽なことには、怒りなよ」 「………今までだって、怒ってただろ」 「うん、そうなんだけどね」 今までだって、怒りをぶつけていた。 好き勝手に振る舞う弟に、感情をぶつけていたはずだ。 でもそういえば、前にも俺が怒りを爆発させた時に、天は笑っていた気がする。 「ごめんね。兄さん」 もう一度、天は謝った。 そっと目を伏せて、ごめん、と繰り返す。 「そうだね、兄さんは物なんかじゃない。俺が悪かった」 「………」 いつになく殊勝な態度。 思わず黙り込んだ俺に、天は肩をすくめて苦笑する。 「そうやって、そこで怒りが冷めちゃうのが、少し物足りないけどね」 「なに、を」 何がなんだかわからなくて立ちつくしていると、障子の外に人影が出来た。 穏やかな声に、控え目に呼びかけられる。 「三薙さん、四天さん、起きてらっしゃいますか」 いつもより、どこか堅く聞こえる声。 気のせいかもしれないけど。 どんな顔したらいいか分からなくて、障子を開けられない。 けれど動きのとれない俺を尻目に、天がさっさと近づいて障子を開けてしまう。 「おはようございます、志藤さん」 「………おはようございます」 志藤さんは天の視線から逃れるように、目を伏せる。 やっぱりどこか堅く、顔色も悪い。 俺の方も、見てくれない。 いつもだったら、笑顔で挨拶してくれるのに。 「………し、とうさん」 「食事が用意できたとのことです。では失礼します」 事務的にそれだけ告げて、志藤さんが去ろうとしてしまう。 追いかけて、その腕を掴んだ。 何を話そうかなんて、考えてなかった。 ただ、視線を合わせて欲しかった。 「あの、志藤さん」 「っ」 けれど、手は、振り払われてしまった。 頭が、真っ白になる。 「あ」 「………申し訳、ございません」 くしゃりと、志藤さんも苦しそうに顔を歪める。 軽蔑された。 嫌われた。 志藤さんに、嫌われた。 当然だ、あんなところを見られたのだ。 あんな、弟に好きにされた、情けなくてみっともない姿を、見られたのだ。 「失礼いたします」 「………」 払われた手が、じんじんと痛む。 手先が冷たい。 志藤さんが去っていく背中を、見送ることしか出来ない。 「ほら、行くよ」 天は、なんでもないようにさっさと部屋を出る。 弟のその態度が、やっぱり憎くたらしくて、悔しくて、哀しくて、目を瞑ったら、涙がこぼれた。 居間には、立見家の人達がもう揃っていた。 露子さんが俺たちの姿を認めて、にっこりと笑う。 「おはようございます、四天さん。おはよう、三薙さん。よく眠れたかな」 「は、い」 「それならよかった」 ショックは全然抜け切らなかったが、ここで暗い顔をするのは駄目だ。 俺は仕事で来ているのだ。 俺たちの事情なんて、立見家には一切関係ない。 「おはようございます、三薙さん」 「おはようございます、湊さん」 湊さんが親しげに話しかけてくれる。 露子さんと湊さんの顔を見たら、なんだか気分が少しだけ軽くなった。 味のしない朝食を無理矢理飲み込んで、長い時間は過ぎる。 天はやっぱりいつもと変わらず平然としていた。 全部全部、こいつのせいなのに。 なんで、天は、全く気にしていないんだ。 「では今日はこれから湖とたつみ全体の邪気祓いをしていただくことになる」 朝食を終えて、露子さんから今日の予定が伝えられる。 午前に集落の方の邪気祓い、そして昼食をはさんで午後には湖の邪気祓い。 どちらも範囲が広いので、結構大変そうだ。 「骨が折れるが、どうぞ力を貸してほしい」 「そのために我々はこの場におります。私どもの力、このたつみのために振わせていただけましたら幸いです」 「そう言っていただけると助かる」 天の模範的な解答に、露子さんも満足げに頷いた。 そして一旦解散になり、水魚子さんが出ていき、俺たちもそれに続こうとする。 そこで露子さんが、天に話しかけた。 「四天さんはよく眠れたかな?」 「おかげさまで」 「それはよかった。お兄さんはあまり眠れなかったようだがね」 俺は思わず息を飲む。 天と何かがあった、なんて言ってないけれど、露子さんほど敏いと気づいてしまっているかもしれない。 「そうなんですか?よくご存じですね。兄がご心配をおかけるするようなことをしていたらすいません。ご迷惑を」 天はにっこりと営業スマイルを浮かべてかわす。 迷惑をかけているのはお前だと思わず怒鳴りつけてしまいたくなる。 「いやいや、迷惑なんて全く掛けられていない。三薙さんは気持ちのいい人だし、話せるのは楽しい。四天さんもそう思うだろう」 「ええ、そうかもしれないですね。生憎男兄弟なので、姉妹よりは距離があるかもしれません」 「そうだね、四天さんもまだ中学生だ、人との距離の取り方が取れなくてもおかしくない。お兄さんに甘えて反抗などもする年頃だろう」 天はやっぱり表情を崩さない。 そして笑いながら言った。 「ええ、奔放な姉が妹に甘えるように。兄弟姉妹なんて、そういうものでしょう?」 あからさまにあてこすった言葉に、こちらが血の気が引く。 「天!」 「はは、違いない」 思わず怒鳴りつけるが、言われた当の女性は朗らかに笑っている。 天は態度を崩さないまま、頭を下げた。 「では、失礼します。ご馳走様でした」 取り残された俺は、慌てて露子さんに頭を下げる。 「………すいません」 「構わないさ。元はと言えば私が出過ぎたからいけないのだから。柄にもないことはするものではないな。でもあれで感情を荒げるなんて、弟君も中々かわいいところがあるじゃないか」 露子さんは全く気にした様子はなく、むしろ楽しそうにしていた。 中々に手強い弟だね、と部屋から出ていく。 最後に残ったのは、俺と湊さん。 湊さんが俺たちのやりとりを見ていたのか、心配そうに恐る恐る聞いてくる。 「あの、何かあったんですか?」 「あ、えっと、なんていうか、兄弟喧嘩の仲裁に、露子さんが入ってくれた、というか」 何と言ったらいいのか分からなくて、当たり障りのないそんな答えを返した。 これ以上つっこまれても答えようがないので、さりげなく話を逸らす。 「湊さんと露子さんは、喧嘩とかしないんですか?」 さりげなかっただろうか。 でも、どうやって話を逸らしたらいいのかよく分からない。 素直そうな湊さんは、俺の稚拙な話術にも乗ってくれた。 露子さんによく似た清潔そうな印象のすっきりとした顔に、苦笑を浮かべる。 「露子姉さんは、僕や霧子姉さんの相手なんてしませんよ」 どこか拗ねたように、肩を竦める。 「何を言っても響かないし、怒っても嫌みを言っても、笑って流すから、喧嘩になんてなりません」 「ああ、確かに、露子さんは、いつも穏やかで、心が広いですよね」 そこで湊さんは、ゆるく首を振る。 やっぱり苦笑しながら、寂しそうに。 「穏やか、というか」 「え」 「………多分、僕たちの感情なんて、興味がないし、気にならないんだと思います。いえ、興味がないと言うか、なんでしょう、子供を見るような感じなんでしょうね。暖簾に腕押し、です」 そういえば露子さんが怒ってるところは、想像が出来ない。 いつでも飄々として、悠然としている。 湊さんの言葉に戸惑っていると、それに気付いたのか湊さんが慌てて首を振る。 「ああ、悪口とかじゃないんです。露子姉さんは、どこか浮世離れした人だから」 浮世離れ、か。 昨日の月明かりの下の青い部屋で立っていた露子さんを思い出す。 どこか神秘的な、人間離れした姿。 「霧子姉さんもそんな露子姉さんが苦手で、色々と当たり散らしてましたけど、結局やっぱり相手にしてもらってなかったし」 「………」 「霧子姉さんは逆に感情的で全てのことに泣いて笑って怒って、素直でヒステリックな人でした」 褒めているのか、けなしているのか分からない。 でも、そこには確かに親愛の情を感じる。 一番上のお姉さんが、嫌いだったという訳じゃないのだろう。 「あ、すいません、変なことを言って」 「い、いいえ」 元々変な態度で、天と露子さんの丁々発止を引き起こしてしまったのは俺のせいだ。 変なこと聞いたのも、俺だし。 申し訳なさそうにする湊さんに、こっちが恐縮してしまう。 「湊さんも、俺より年下なのに、随分落ち着いてますよね」 「僕は、露子姉さんみたいになりたいから」 「憧れてるんですね」 「そうですね。あんな風に超越した人に、なりたいです」 ぎこちなく、湊さんが笑う。 「強くなりたいです」 その感情は、よく分かる。 確かに露子さんのように凛として、動じない人になれたらと思う気持ちは理解できる。 「でも、露子姉さんに憧れるんですけど、共感するのは霧子姉さんなんですよね」 俺には姉は、つい最近で会ったばかりの姉が一人いるだけだから、どんなものか分からない。 末っ子の長男というのは、どういう感情なんだろう。 しかも立見家は、女系一族だ。 「………霧子さん、どこにいるんでしょうね」 「………心配です。あの人は、世間知らずの我儘なお嬢様で、一人で生きていけるような人じゃないから」 「あ、でも恋人と一緒だって」 湊さんが困ったように眉を顰める。 「あああ、すいません!」 また、俺は失言をしてしまった。 もう何も話さない方がいいのかもしれない。 湊さんは首を緩くふって苦笑する。 「一緒に逃げた人も、気の弱い人でした。あんな大それたことするような人じゃなかったのに」 そして心配そうに顔を曇らせた。 |