儀式の最中から落ち始めた日は、すっかり姿を消していた。
月は出初めだが、明るく輝いていて、辺りは驚くほど明るい。
俺たちは立見家の裏の道を、湖に沿うようにして歩く。
裏の道は民家は存在せず、人気は全くない。

どれくらい歩いただろう。
すっかり、立見家も遠く小さくなってしまった。
会話もなく、聞こえてくるのは風の音ぐらいだ。

「あの、志藤さん」

黙って歩いている志藤さんに、つい話しかけてしまう。
これ以上の沈黙は、耐えきれなかった。

「あ、すいません、ちょっと考えこんでしまっていました」

志藤さんははっと我に返ったように立ち止り、後ろを振り返った。
ようやく振りかえってくれたことに、ほっとする。

「申し訳ありません。お疲れではないですか?」

そう言って、心配そうに俺の顔を覗き込んでくれる志藤さんは昨日のままだ。
そうだ、たった一日の出来事なのに、酷く昔のことのように感じる。
たった、一日なのに。
昨日までは、友達として、笑っていてくれたのに。
胸がぎゅっと、引き絞られるように、痛む。

「大丈夫です」
「すいません」
「いえ」

そして、また沈黙が落ちる。
お互い、少しだけ視線を逸らしている。
顔を上げたのは、ほぼ同時だったかもしれない。

「あ、あの」
「あの」

声を出したのも、同時だった。
何かを話そうと思った訳じゃない。
何を言えばいいのか、分からない。

「あ、志藤さんからどうぞ」
「あ、いえ、三薙さんから」

そしてまた同時にそんなやりとりをしてしまう。
なんだか滑稽だ。
このままでは、何も始まらないし、終わらない。
意を決して、口を開こうとする。

「いえ」

けれど志藤さんは、目を伏せて首をゆるりとふった。
そしてじっと俺の目を真っ直ぐに見詰めてくる。

「申し訳ございませんでした。本日の私の失礼な態度について、お詫びいたします」
「え………」

そして丁寧に、慇懃に、頭を下げる。
胸がまたぎゅぎゅっと、引き絞られて、苦しくて、息が出来なくなって、胸を抑える。
痛い。

「宗家の方への不作法、どのような責めを受けても致し方ありません。本当に申し訳ありません」

ああ、やっぱり、駄目だったんだ。
嫌われてしまったんだ。

「………っ」

そう思い知った瞬間、涙が溢れだしていた。
我慢する暇なんて、なかった。
ようやく出来た大切な友人を、失った。
大切だったのに。
好きだったのに。
でも、なくしてしまった。

胸が引き絞られ過ぎて、引き千切れてしまったようだ。
粉々になってしまった。
痛い痛い痛い。

「み、三薙さん!?」

志藤さんがぎょっとして目を大きく見開く。
こんなことをしたら、余計に嫌われてしまう。
でも、止まらない。

「お、俺、やっぱり、志藤さんに、嫌われてしまいましたか。もう、友達に、なるのは、駄目ですか。そう、ですよね」

藤吉の次に出来た、年上の男性の友人。
可愛くて優しくて頼もしい人。
ずっと、大切にしたかったのに。
ずっと、一緒にいたかったのに。

「え、えっと、え、あの?」
「す、すいません。こんなことで。すいません、泣きやみ、ます。すいません」

手で涙を拭っても拭っても、溢れてくる。
鼻水も出てきて、鼻をみっともなく啜る。
情けない。
志藤さんも困っている。
嫌だ。
これ以上嫌われたくなんてないのに。

「ど、どうしてそうなるんですか!?」
「俺のこと、嫌に、なりますよね。あんな、天に、好き勝手されるような、情けない、お、男。うじうじしてて、何も出来なくて、弱くて、こんな、な、泣いて」

止まらない。
こんな、志藤さんを責めるようなことはしたくない。
でも、嫌だ。
志藤さんに嫌われるのは嫌だ。
でもこんなことしたら、余計に嫌われてしまう。
失いたくない。
嫌だ。

「み、三薙さん」
「すいません、今、泣きやみます。ごめんなさい、ごめんなさい」

嫌わないで。
俺を、嫌わないで。
俺を、置いて行かないで。

「三薙さんっ」

志藤さんが、その繊細な長い指を持つ手で、俺の頬にそっと触れる。
その温かさに、驚いて、顔を上げる。

「………しとう、さん」

志藤さんは困ったように眉を寄せて、俺の顔を覗き込んでいた。
そして、その手で俺の涙を拭う。

「えっと、す、すいません。嫌ではないですか?」
「え」

何を言われたのか分からなくて呆けて首を傾げると、志藤さんがスーツのポケットからハンカチを取り出した。
俺の濡れた頬を、優しく拭ってくれる。
そしてしばらく考えこんで、両頬を拭ってくれたところで口を開いた。

「すいません、えっと、失礼ですが、勘違いです」
「え」
「私が、三薙さんを嫌うなんてことは、あり得ません」

涙は、まだ止まっていない。
後から後から溢れて来て、志藤さんのハンカチと手を濡らしている。
それを根気強く拭ってくれながら、志藤さんは続ける。

「今日は、少し自分の気持ちに整理がつかなくて、態度が悪くなってしまっただけなんです。まずはそれをちゃんと謝りたかっただけで、他意はないんです」
「志藤さん、急に余所余所しい、態度取るから、嫌われたのかと」

だから、完全に友人として見切りをつけられたのかと思ったのだ。
こんな情けない男、近くにいたくないと思われたのだと、思ったのだ。

「ご、ごめんなさい!ああ、すいません、私の振る舞いが悪いんです。本当に申し訳ございません」

志藤さんが焦ったように何度も謝って、ぺこぺこと頭を下げる。
それからゆっくりと子供に言い聞かすように話す。

「私は、三薙さんのことを、嫌ってなんか、いません」
「本当、ですか?」
「勿論です」

大きく頼もしく頷く。
それでようやく、志藤さんの言葉が耳に入ってきた。
嫌われてないのか。
見切りをつけられてはいないのか。

「俺のこと、まだ、友達だと思ってくれますか?」
「………勿論です」

志藤さんが苦笑しながら、頷いた。
胸が熱くなってくる。
指先に体温が戻ってくる。

「まだ、傍にいてくれますか?俺のこと、嫌わないでいてくれますか?」
「はい、勿論です。私は、その恐れ多いですが、三薙さんを敬愛しております」

真っ直ぐに俺の目を見つめる、志藤さんの眼鏡の奥の穏やかな目は嘘を付いているようには思えない。
そうするとほっとして、体中の力が抜けていく。
なんとか座り込むのは耐えたけれど、また涙が溢れてきた。

「うっ、ふぅ、くっ」
「あああ、泣かないでください!」
「す、すいません、でも、ほっとして」

でも、涙が止まらない。
さっきとは全く別の理由で、溢れてくる。
胸の温かさがそのまま、熱い涙となって溢れてくる。
志藤さんが困ったように苦笑して首を傾げる。

「三薙さんは、まるで子供のようですね」
「す、すいません」

情けなくって恥ずかしくて、涙を拭う。
志藤さんはゆるゆると首を横に振った。

「悪い意味ではないんです。素直で感情が真っ直ぐですぐに発露する。いえ、悪い面でもあるのかもしれないけれど、私にとっては好ましいです。私はそんな三薙さんが好きです」

好きと言ってくれたのが嬉しくて、胸がますます熱くなってくる。
やっぱり涙は止まらない。
止めたいのに、志藤さんが泣かせる。

「あ、ありがと、うございます。俺も、志藤さんのこと、好きです」

嫌われなくて済んだ。
あんなところ見られたのに、困っていたのに、俺のこと、情けない奴だと思っただろうに。
志藤さんは嫌わないでいてくれた。

「あんな、変なところ、見せてしまって、すいません」
「………」

しゃくりあげながら、必死に言い訳する。
鼻が詰まって息が苦しいが、なんとか話す。

「俺、供給の時って、力が抜けて、動けなくなっちゃうから、あんな風に何されても、抵抗出来ないんです。理性、なくなっちゃうし。弱くて、情けなくて、駄目ですよね。弟に、馬鹿にされて、意志を無視されて、物みたいに扱われて」

本当に言い訳だ。
もしくは、愚痴だ。
何よりも弱い俺が一番いけないのに。

「悔しいです。弱くて、悔しい。俺は物なんかじゃない。ちゃんと考えているのに。無視して、好き勝手されて」
「………」
「すいません、変なこと、巻き込んじゃって」

志藤さんが言い訳と愚痴を撒き散らす俺を、難しい顔で見ている。
やっぱり怒っただろうか。
呆れただろうか。

「………三薙さんは、意志を無視されることを憤慨してるんですね」
「はい。自分の体を、自分以外の人間に勝手に扱われるのは、嫌です」
「………」

俺だって、ちゃんと意志を持って生きている、一個の人間だ。
弱くて人に寄生しないと生きていけないのだとしても、それでも自分の体は俺のものだ。
天に玩具のように扱われる筋合いはない。
志藤さんは、そんな俺を、眉を寄せてじっと見ている。

「………その」
「志藤さん?」
「嫌悪感とかは、ないんですか」
「え」
「いえ、失礼しました」

志藤さんの質問に戸惑うと、すぐに話を打ち切る。
でもその言葉は、俺の背筋を冷たくするのに十分だった。

嫌悪感。
そういえば、いつの間にか感じなくなっていた。
感じて当然の感情が、いつの間にかなくなっていた。

「………嫌悪感は、最初は、感じてた、気がする。でも元々余り、感じてなかったのかな」
「………」
「俺、変ですよね。そうですよね、男同士で、兄弟で、気持ち悪いですよね」

そうだ、男同士だ、兄弟だ。
嫌悪感を抱いて、当然の関係なのだ。
あんなことをして、されて、気持ち悪くて吐き気がして、当然なのだ。
でも、いずれ俺は、あれ以上のことを、するのだ。

「汚い、ですよね。気持ち悪い」

いつのまに、こんなことになってしまったんだろう。
それでも、タブーに対する抵抗感はあったのに。
儀式を受け入れれると決めてから、抵抗感は薄れてきている。
その事実に愕然とする。

「………気持ち悪い」
「そんなことありません」
「………」

自分に言い聞かせるように言うと、志藤さんが即座に否定した。
顔をあげてじっと志藤さんを見ると、志藤さんは優しく微笑んだ。

「本当です。私は三薙さんのことを、気持ち悪いだなんて思いません」
「でも」

言いかけた俺を、志藤さんが遮る。

「それは、三薙さんにとって必要なことなのでしょう?力を供給されなければいけない」
「………はい」

必要なことは確かなのだ。
俺が生きていくためには、必要なこと。
人に迷惑をかけながら、俺は生きている。

「ならばそれは三薙さんの責ではない。あなたに悪いところなんて、ないんです」
「でも」
「嫌悪感を感じていては、あなたが持ちません。それは自己防衛本能のようなものなのだと思います」
「自己防衛」
「生きていくために、受け入れているんです。生物の、本能ですよ」

本能。
俺は生き汚い。
人に迷惑をかけると知ってはいても、それでも生きることを望んでいる。

「生きていくための本能が、悪い訳がありません。馬鹿になんて誰にだって出来ません」

でも、志藤さんは重ねてそう言ってくれる。
心がじわじわと、溶かされていく。

「私は、あなたのことを変わらず敬愛しています」

まっすぐに、微笑みながら言われて、涙がまた溢れた。
胸が熱い。
痛い。

「………ありがとう、ございます」
「すいません、これを言うのに、しばらく時間がかかってしまって」
「いえ」

志藤さんが困ったように言うから、俺は思い切り首を横に振った。
こんなぎくしゃくしてしまったのは、志藤さんのせいじゃない。
弱い俺と、変なことをした天のせいだ。

「天が、あんなことしなければ、よかったんだし」

何を考えているのかさっぱり分からない弟。
あんなことをしでかして、何がしたかったのだろう。
あいつになんの得があったんだろう。

「………四天さんはきっと、はっきりさせたかったんだと思います」
「はっきり?」

志藤さんは、どこか苦しそうに唇をきゅっと噛む。
それから目をそっと伏せた。

「………昨日、三薙さんが湖に落ちそうになったのを覚えてますか?」
「昨日?あ、はい」

今日も落ちそうになったが、そういえば昨日も落ちそうになった。
顔に水が掛けられたのだ。
今思えば、あれも龍の仕業だったのだろうか。

「あの時、三薙さんを助けたのが私じゃなかったことに、私は驚くほどショックを受けていました」
「え?」

志藤さんがまっすぐに俺を見つめる。
そして、とても苦しそうに切なそうに笑う。

「あなたを助けるのは、私でありたいと、強く思ってしまいました」
「しとう、さん?」
「四天さんを差し置いて、です。身の程知らずにも程がある」

その言葉は、とても嬉しい。
俺だって、志藤さんを助けるのは俺でありたい。

「ありがとうございます。俺も、志藤さんのこと、助けたいです。天よりも、誰よりも」
「…………ありがとうございます」

志藤さんが、眉を寄せてどこか苦しそうに笑う。
なぜだかその笑顔を見ていると俺も胸が苦しくなる。

「そんな自分に、戸惑っていました」

志藤さんがまた少し目を伏せて、淡々と言う。

「四天さんは、それに気づいたんでしょうね」
「気づく?」

首を傾げる俺に、志藤さんはまたじっと目を覗き込む。
その繊細な手で俺の頬にそっと触れる。
触れるか触れないかギリギリの近さだが、産毛に触れてチリチリとした熱を感じる。

「もし、三薙さんのお許しを頂けるのならば」

志藤さんが、一言一言噛みしめるように、丁寧に言葉を紡ぐ。

「は、い?」
「私はこれからもずっと、あなたを助け、守りたい」

許す、とか、許さないじゃない。
なんかそれじゃ、やっぱり使用人と宗家の関係みたいだ。
首を横に思い切り振ると、志藤さんが顔を歪めた。

「………三薙さん」
「一方的なのは、嫌です。俺も志藤さんの助けになりたいし、守りたい」

俺たちは友達だ。
許すとかじゃなくて自然に助け合う関係でいたい。
そう告げると、志藤さんがけぶるように笑った。

「ありがとうございます。私は、三薙さんのお傍にいてもよろしいでしょうか」
「当たり前です!」

勢い込んで言うと、志藤さんは目を細めた。





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