情けなく泣きわめいてしまったせいで、顔がパンパンに腫れている。 夕食の時間までまだありそうだったので、少しだけ遠回りして帰ることになった。 なんとなく、恥ずかしいことを言いまくってしまったので、照れくさい。 ちらりと横を見ると、志藤さんがそれに気づいて、にこりと笑う。 その優しい笑顔が、まるで子供を見つめるようで、見ていられなかくて顔をそむけてしまう。 「………」 「三薙さん?」 志藤さんの声に、少し心配そうな色が宿る。 しまった、変な態度を取ってしまった。 「あ、えっと、月、綺麗ですね」 「ええ。とても綺麗ですね」 月は後少しで、完全に満ちる。 少し怖いくらいに大きく黄色に輝く球体が、空で煌々と光っている。 「夏は、海にいって、秋は、お月見しましょう。冬は、これから雪降るかな。降ったら一緒に、雪だるま作りましょう」 月を見上げながら、そんな楽しい想像をする。 岡野や藤吉や志藤さんがいたら、きっと楽しい。 皆で遊べたら、どんなに嬉しいだろう。 「素敵ですね。楽しみです」 志藤さんも、それは無理だなんて言わないで乗ってくれる。 例え叶わなくても、頷いてくれるだけで嬉しい。 楽しいことを考えるのは、幸せな気分になる。 「はい、楽しみです」 隣をようやく見ると、志藤さんはやっぱり優しく微笑んでいた。 志藤さんの笑顔に、胸がいっぱいになる。 その時、前方から、そんな幸福感を打ち破るような刺々しく言い争う声がした。 「あれ、は」 道の先で言い争う、二人の男性。 どっかで見た光景だ。 そして、声も、聞いたことがある。 「………あの人達また喧嘩してる」 「本当ですね」 露子さんの言うとおり、物好きな人達だ。 たつみの実力者だという桂と高尾両家の当主が、道端でまた喧嘩をしている。 なんで、また会ってるんだろう。 引き返すことも出来るが、立見家に帰るには随分と遠回りになってしまう。 どうしたものかと立ち止ると、自然と声が聞こえてきた。 二人ともヒートアップしてるから、声が大きい。 「智和が霧子なんかと逃げるはずがない!あの女狐に何かされたに決まっている!」 「お前がそんな不信心なことを言っているから、龍神様の怒りに触れたんだ!」 「だったら、お前のところの努だってそうだろう!」 「努は、霧子お嬢さんに………」 高尾家の当主が、一瞬言い淀む。 それにしても二人とも顔を真っ赤にして、倒れてしまうんじゃないかと心配になる。 「ほら見ろ。罰が当たるならお前らの方だ!」 「お前は罰なんて信じてないのではなかったのか?やっぱり龍神はいると思ってるんだな」 「そ、そうではない」 なんか、子供の喧嘩のようだ。 内容は結構重いのだろうけど、どっちもどっちな感じだ。 「私は元より露子お嬢さんの方が当主に向いていると言っていた!だから努もそれを汲んだのだろう!」 「お前は自分の息子よりも、龍神の心配しかしないのか!」 「お前だってそうだろう!自分の息子を利用して、このたつみの権力を握ろうとしていたくせに!」 やっぱり引き返そうかと志藤さんを振り返った時に、じゃりっと足元で石が音をたてた。 一瞬しんとなっていた空間に音が響く。 しまったと思った時にはもうすでに遅く、二人がこちらを振り返る。 「あ」 俺たちの姿を認めて、桂さんが、思い切り顔を顰める。 そして嫌そうな口調で聞いてきた。 「盗み聞きか。お前たちは立見家の客人だったな」 「………はい、お世話になっております」 「ふん。お前らもインチキな手品でも使って、御祓いごっこか」 「桂っ!」 桂さんの言葉に、高尾さんが桂さんの襟もとを締め上げる。 駄目だ。 喧嘩なんてしてほしい訳じゃない。 「あ、落ち着いてください!気にしてないですから!」 慌てて間に入って、二人を引き離す。 思いのほかあっさりと、離れてはくれた。 「本当に申し訳ない、この馬鹿が」 高尾さんが慌てて頭を下げて、桂さんはふてくされたようにそっぽを向く。 本当になんだか、子供のようだ。 「信じられない人もいます。それは仕方ないです」 存在を信じられない人が大半なのだから、俺たちがインチキだとか言われるのは仕方ないし、慣れている。 でも、このたつみにおいては、はっきりとあんな分かりやすい形で表れているのに。 「でも、あんなにはっきりと龍はいるのに、信じられないんですか?」 「………」 「あなたもここで、小さい頃から育ってきたんですよね」 「………うるさい!」 つい疑問に思って聞いてしまうと、苛立たしげに手で俺を払いのけた。 それほど強い力ではなかったが、急な動きだったので後ろによろめいてしまう。 「っと」 一歩後ろに下がると、背中が支えられた。 上を向くと、志藤さんが厳しい顔で桂さんを睨みつけていた。 「当家の主人に、手荒な真似はおやめください。あまりにも度が過ぎるようでしたら、立見家に正式に抗議させていただきます」 「し、志藤さん」 「ふん!そんな子供が主人とはな!どこもかしこも、胡散臭い連中は変わらない!」 志藤さんにたしなめられて、桂さんはますます面白くなさそうに顔を顰めた。 吐き捨てるように言うと、ズカズカと乱暴な足取りで去って行ってしまう。 後に残された形の高尾さんが、もう一度深々と頭を下げる。 「失礼いたしました!立見家の客人に、このような失礼なこと………」 「あ、いえいえいえ、俺も、関係ないのに入ってしまってすいませんでした」 別に頭を下げてもらいたい訳ではない。 変に立ち入ってしまった俺も悪い。 高尾さんは顔を上げると、深い深いため息をついた。 「本当に申し訳ない。あいつも、昔は信心深かったんです。それがあの馬鹿息子が龍神なんてインチキだなんて言いだして。あいつも妻を亡くしてから心が弱っていたから………」 「………」 昔は、二人も仲良かったのだろうか。 高尾さんが苦しげに、顔を顰める。 「全てはあの馬鹿息子がいけないんです!露子お嬢さんに付き纏って袖にされただけじゃ飽き足らず、霧子お嬢さんまで………。努は巻き込まれただけだ!」 「え、と」 なんと言ったらいいか分からなくて戸惑うと、高尾さんがはっと表情を改める。 そして、今度は軽くだが、また頭を下げる。 「………これは、失礼いたしました」 そしてピシリと背筋を伸ばすと、俺たちに向き合った。 真面目な顔つきで、俺をじっと見つめる。 「変な所ばかりお見せしてしまってお恥ずかしい。たつみにとって道切り行事と龍の婚礼は、他のところよりも大きな意味合いを持ちます。どうか、立見家の皆さまの力になってください」 高尾さんは、そこで大きく頭を下げた。 「立見家は、この村にとって、なくてはならない存在なのですから」 高尾さんの、立見家への敬慕の念が伝わってくる。 俺も応えて、頷いた。 「はい。お引き受けしたからには、全力で立見家のために尽くさせていただきます」 「………ありがとうございます」 高尾さんは、ほっとしたように表情を緩めた。 なんとか夕食前に戻って、立見家の人達と夕食を取ることが出来た。 食事中に、露子さんがふいに話しかけてくる。 「何やら、桂と高尾両家に絡まれたらしいな。申し訳ない」 「あ、い、いえ。なんで知って………」 「狭い場所だからな。情報はすぐに伝わってくるんだよ。いやはや田舎とは恐ろしい」 ついさっきのことなのに、どんな情報伝達能力なのだろう。 田舎ネットワーク、恐るべし。 もしかしたら高尾さんが報告したのかもしれないけど。 「頭の堅いおっさん二人の相手は疲れただろう。いや、逆に桂は開明的なのかな」 露子さんは楽しそうにからからと笑う。 確かに、龍を信じない人の方が、現代人と言えるのかもしれない。 「高尾さんが、昔は桂さんも、信心深かったって言ってました」 「ああ」 露子さんが、一つ頷く。 「そうだな。智和が龍なんていないと言いだすまでは、ここまで表立って立見家に文句を言う人間もいなかった。桂も、うちの独裁管理には不満はあったんだろうが、それでも押さえられていた」 「………」 「まあ、そういう時代なのだろうね。自然や闇に恐れを抱かなくなって、敬うことを忘れる。それはある意味いいことなのだろうけど」 それは、進化なのだろうか退化なのだろうか。 俺にはよく分からない。 畏れを失って、歪みは酷くなっている気はする。 けれどそのうち、その歪みすら飲み込むような気もする。 どちらが、正しい形なのだろう。 「………露子さんは、龍を信じてるんですよね?」 「まあ、あそこまで存在をアピールされたら信じないわけにもいかないだろう」 確かに、あんなに主張されたら誰だって信じてしまう。 何よりの証拠だ。 でも、信じない人もいたんだ。 「智和さんは、なんで龍がいない、なんて言いだしたんでしょうね」 「ふむ」 露子さんが顎に手をあてて首を傾げる。 「それは智和に聞いてみないと分からないが、恐らく一つは立見家の利益独占の打破が理由なんだろうね」 「………他の理由は?」 湊さんが顔を顰めたのが、視界の片隅に映った。 誰のために犠牲になっているんだと憤っていた、湊さん。 利益なんてなくていいから、自由になりたいのかもしれない。 「あいつは、この古臭い因習を、昔から嫌っていたよ」 露子さんの言い方は、どこか親しい人へ対するものだ。 智和さんは、露子さんに恋愛感情を持っていたようなことを皆言っていたが、露子さんも智和さんのことを憎からず思っていたのだろうか。 「信じない、のではなく、信じたくなかったのではないかな」 「でも」 「兄さん」 「あ」 更に聞こうと思った俺に、隣の天から制止が入る。 俺はまた、首をつっこみすぎたのだ。 「………す、すいません」 「別に構わない」 露子さんは言葉通りなんでもないように笑っている。 けれど天は、静かに答えた。 「いえ、たつみの問題は、我々は与り知らぬものです。いたずらに事情に踏み込むような失礼な真似をしてしまい申し訳ありません」 「ま、そうだな」 とりつく島もないような言葉に、露子さんは軽く苦笑した。 そしてやっぱりあっさりと言った。 「まあ、うちの内輪もめなど気にせず、明日は元気に帰ってくれ」 食事を終え部屋に戻るとすぐに、天がため息をつく。 「また聞きすぎ。他家の事情には関わるな。言ったよね」 「………うん、ごめん」 そうだ、関わっていいことなんて、なかった。 何も知らなければいいと思ったことが、何度もあった。 そして天にも迷惑をかけた。 「ごめん」 天は返事はせずに、またため息をつく。 そしてその後、小さくつぶやいた。 「古い因習を嫌っていた、か」 古い因習に縛られて苦しんでいた人達。 いなくなってしまった智和さんの気持ちは、分からないでもないかもしれない。 実際どんな行動をしていたのか知らないけど。 もしかしたら、自分の利益のためだけに動いていたのかもしれない。 「気持ちはとても分かるけどね」 「………うん」 天もまた、家に縛られている。 ぶつくさと文句を言いつつも、それでも家に従っている。 本当に嫌で嫌で、仕方ないのだろうか。 そういえば露子さんは、そんな古い因習に縛られる苦しさなんてものは全然感じさせなかった。 「………なんか、露子さんも、それほど龍への恐れとか、感じてないように見えるよな」 「感じてないんでしょ。あの人は、人のことなんて気にしない。自分のことが大切な人みたいだし」 「………」 やっぱり毒のある言葉。 どうして天は、そこまで露子さんを嫌うのだろう。 天は苦々しげに吐き捨てた。 「………あの人は、どうするつもりなんだろう」 「露子さん?」 「そう」 確かに、明日の儀式が失敗したらどうするんだろう。 行き当たりばったりすぎるような気もする。 でもこの家の当主は露子さんだ。 俺たちが異を唱える訳にもいかない。 「やっぱり、とりあえず明日儀式をして、決めるんじゃないか」 「そうだね。まあいいや。さっさとお風呂入って寝よう」 天がそう言って荷物に向かう。 俺は立ちつくしたまま、少しだけ躊躇う。 けれどやっぱり、ここで寝ることは考えられなかった。 「………俺、今日は志藤さんのところで寝る」 天はちらりとこちらを振り返って笑う。 「どうぞご自由に。場所が分かってるなら問題ないよ。勝手なことはしないでね」 「………」 まるで他人事のような態度。 誰のせいだと思っているんだという言葉が、喉まで出かかった。 でも、言えない。 何で、天が豹変するのかが分からない。 もう好きにされるのは、嫌だ。 この部屋にいるのは、怖い。 天が、怖い。 恐怖を見せないように自分の荷物を取り、部屋を出ようとする。 「………それじゃ、おやすみ」 すると天がこちらを振り返った。 「あ、供給はしておいてね」 「え」 「力、もうあまりないでしょ?」 確かに今日は仕事をしたせいで、力はあまりない。 供給しておかないと、明日何かがあった時に困るだろう。 後悔はしたくない。 だから、供給はしないといけない。 「………志藤さん、と?」 「俺じゃ嫌でしょ?」 「当たり前だっ」 怒りに任せて怒鳴りつけると、天が楽しそうに喉の奥で笑った。 更に怒鳴りつけたくなるけれど、言葉も出てこない。 どうして、こいつはこうやって俺を馬鹿にするんだろう。 どれだけ馬鹿にすれば、気が済むんだろう。 「そう。だったら志藤さんにお願いしておいて。後悔はしたくないんでしょ?」 「………」 そしてひらひらと手をふって、子供のようににっこりと無邪気に笑う。 「おやすみなさい。よい夢を」 その笑顔を背に、俺は逃げるように部屋から飛び出した。 |