懐かしい光景が、広がっていた。 まるで映画のように、俺は上からじっとその光景を見守っている。 この場所は、なんとなく覚えている。 それは確か、家の行事か何かで、外に出た時だった。 いつもは結界に守られている家の中にいるからそこまで害はないのだが、その日は違った。 父さんや二人の兄達が忙しそうにしている間に、俺と天は家の人間から離れて二人でかくれんぼをしていた。 小さな神社のようなところで、木がいっぱいあって、隠れるところは事かかなかった。 「四天、四天!」 天を探しているうちに、小さな鬼に見つかってしまった。 それは今思えば本当に小さく弱い、笑ってしまうほどの鬼だった。 でも小さな俺にはそれすら脅威で、泣きながら弟を探しまわった。 「お兄ちゃん?」 隠れていたはずの弟は、俺の泣き声につられてか顔を出してくれる。 幼い弟の顔を見て、兄はほっとして涙があふれてくる。 「四天っ」 「どうしたの?」 不思議そうに首を傾げる弟に、俺は足元に絡みつく恐ろしい姿をした人型の鬼を指さした。 蹴りあげても逃げまどっても絡みつき、俺の足に噛みつき、引っ掻こうとする。 布地の多い装束を身につけていたからまだそれほどではないが、足もわずかに傷つけられてじくじくと痛む。 「これがっ」 「あれ、小さい鬼だね」 「一緒に、逃げよ!一矢お兄ちゃんにやっつけてもらおう!」 四天は俺の足をまじまじと見つめた後、ひょいっとそいつをつまみ上げた。 鬼はじたばたと暴れ回り、天をその鋭い手で引っ掻こうとする。 「天!危ないよ!」 悲鳴のように弟に呼び掛けると、天はやっぱり不思議そうに鬼と俺を身比べる。 「怖いの?」 「怖いよ!」 天はそれから大きく頷くと、その鬼を小さな両手で包み込む。 ちょっと考えてから、ぎゅっと握りしめる。 「じゃあ、えっと、消えちゃえ!」 「わ」 その途端、天の手の平から光が溢れる。 幼くつたない術とも言えない術。 けれど、強大な力を持つ弟には十分だったらしい。 小さな鬼は、一瞬のうちに、天の力で消し去られてしまった。 驚いて動けない俺はただ目を丸くして、天を見つめることしかできない。 幼い弟は、ぱっと手を開くと、にっこりと笑った。 「これで平気?」 「あ、す、すごいね、四天、すごいね」 あっという間に怖いものを退治してしまった弟に、俺は尊敬の念を込めて何度も頷く。 そうだ、この頃は少し悔しく思いながらも、それでも素直に弟のことを賞賛できていた。 そのことを思い出して、胸がキリキリと痛くなる。 天が得意げに胸を張って笑う。 「えへへ」 「うん、すごい!」 俺も強い弟を誇って笑う。 無邪気に笑う二人。 あれは確かに俺たちだったのに、なぜ、今はあんな風に笑えないのだろう。 「お兄ちゃんは、鬼が怖いの?」 「………怖いよ」 「そっか」 「僕は、弱いから、鬼も、僕だけいじめるんだ」 鬼たちは弱気と力のなさを嗅ぎとって、的確に俺だけを狙ってくる。 肩を落として泣きそうになる情けない兄に、けれど弟は笑ってみせる。 「じゃあ、僕が追い払ってあげる」 「天」 「僕が、お兄ちゃんを苛めるものは、やっつけてあげるね」 そしてぎゅっと、その小さな、でも頼もしい手で、俺の手を握る。 温かく、力強い手の感触が、蘇る気がする。 「だから、怖くないよ」 「………ありがとう、四天」 俺は嬉しくて、強い弟が誇らしくて、でもちょっとだけ悔しくて、複雑な顔で、それでも笑った。 懐かしい思い出。 懐かしい光景。 胸が痛い。 そうだ、こんな時もあったんだ。 俺たちは、仲が良かったんだ。 「わ」 そこで光景ががらっと変わる。 温かく光に満ちた光景は、一瞬にして真っ暗に闇に閉ざされる。 気がつくと俺は、地面に立っていた。 さっきのように宙に浮いている感じではない。 しっかりと地面に立っていた。 辺りは多くの木々に光を遮られて、真っ暗だ。 ただ石の道が続いている。 ここは知っている。 最近、よく見る場所だ。 「………天?」 そしてその先に、小さな袴姿の少年がいることも一緒。 先ほどと同じように、幼い弟がそこにいた。 「お兄ちゃん?」 小さな天が俺を見上げる。 さっき愛らしい笑顔を浮かべていた弟は、今度は冷たい表情でじっと俺を見つめている。 子供には相応しくない、酷く大人びた表情。 「汚い」 「え」 天が、くしゃりと顔を歪める。 一瞬俺に言われたのかと思って、自分の姿を見返すが、そうではなかったらしい。 天は、誰にいうでもなく、何度も首を横にふった。 「嫌だ、ここは、嫌だ。汚い」 「………天?」 癇癪を起こすように、天が自分の髪をくしゃくしゃと掻きまわす。 「嫌だっ」 「………天っ」 痛々しい様子の弟の名を呼んで手を伸ばそうとする。 しかしその手が触れる前に、天の姿は闇の中に溶け込んだ。 「天っ」 「何?」 もう一度呼ぶと、返ってきたのは先ほどよりも落ち着いた声。 そこは黒い森の中ではない。 目の前は、青い青い世界が広がっていた。 「………あ」 ここは、どこだ。 青と白の世界。 遠い天井からは太陽の光が差し込んでいて、幾重にも光の階段を作っている。 綺麗、だ。 「起きた?」 声に横を振り向くと、そこには白い装束を身にまとった弟が座って、俺を見下ろしていた。 人形のようだと思った白い顔には、赤みを帯びて生気が戻っている。 そうだ、全てを、思い出した。 ここは、龍神の世界だ。 「天、起きたのか!?大丈夫か!?」 咄嗟に俺も半身を起こす。 急な動きに全身と頭に痛みが走ったが、中のものは全部綺麗にできたようだ。 そうだ、少しづつ浄化していて、疲れて眠ってしまったんだ。 「俺は大丈夫。どこも何もない」 天は薄く笑って、手を広げて無事なことをアピールした。 ほっとして、全身の力が抜けていく。 「兄さんは平気?また汚くなってるね。ボロボロ」 「俺は、ちょっと色々痛いけど、平気」 「そう」 汚い、か。 さっきの天もそんなことを言っていた。 そういえば、よく天は汚いって言うっけ。 「助けられたみたいだね。ありがとう」 天がやっぱり笑ったまま、礼を言った。 その瞬間、胸に熱いものが溢れ出していく。 苦しくて胸をぎゅっと掴んだが、熱い思いが涙として一粒零れてしまう。 「何?」 「………嬉しくて」 嬉しい。 誰かを助けて、守れたことが、嬉しい。 涙がこぼれてしまう。 「お前を、助けられたのが、嬉しくて」 天を助けられた。 助けられるだけではなく、俺の力で、助けられた。 今回は、役立たずじゃなかった。 それが、嬉しい。 「俺でも、お前の役に、立てた」 天はどこか呆れたような様子で俺の顔をじっと見ていた。 そして小さく首を傾げる。 「人の役に立てたことが、嬉しい?」 「うんっ」 「ふーん」 俺の答えに皮肉げに笑う。 「まあ、元々兄さんが引き摺りこまれなきゃよかったんだけどね」 「う」 確かに元はと言えば、俺が龍の引き摺りこまれて、天はそれを庇おうとしてこんなことになったんだった。 目元をごしごしと拭う。 確かに助けられたけど、元々は俺の迂闊さが招いたことだ。 「ご、ごめん」 「でも、素直に礼を言うよ。ありがとう。助かった」 「う、うん」 俺が謝るが、天は珍しく素直に礼を言ってくれた。 それが嬉しくて、つい頬が緩んでしまう。 でも、俺一人の手柄でもない。 「あ、で、でも黒輝が、黒輝の方がすごい頑張ってたんだ。あいつ平気?結構攻撃されてて」 「平気。ちょっとダメージが大きいから休んでもらってるけど、しばらくすれば平気」 「………そっか、よかった。ごめんって言っておいて、それとありがとうって」 懸念していたことが、一つ解消されてほっとする。 どうなっているのか、心配だったのだ。 黒輝が無事でよかった。 「使鬼に謝罪と感謝?」 天がやっぱり皮肉げに笑って意地悪そうに言う。 確かに、それはおかしなことなのかもしれない。 一兄に言ったら心を許すなと怒られるかもしれない。 でも、やっぱり、礼は言いたい。 「で、でも、すごい助けてもらったし、お前も助けてもらったんだからな!」 「そうだね。俺も感謝してるよ」 「だろ!」 天はもう一度小さく笑うと、右手の人差し指の第二関節を軽く噛んだ。 しばらく思案してから、こちらに視線を向ける。 「借りを作るって言うのも落ち着かないし、恩返ししないとね」 「え?」 「兄さんのお願いを一つだけ、聞いてあげるよ」 「は?いや、別に」 「言ったでしょ。借りっぱなしだと居心地が悪いからね」 何を言いだすのかよくわからなくて、首を傾げる俺に、天がにっこりと笑う。 別に借りとか貸しとか考えてなかった。 それにこれが借りだと言うなら、俺は一体どうなってしまうんだ。 「で、でも、俺の方がいっぱいお前に借りがあるし、あ、それなら、この前のお前の貸しで帳消しとか」 「それじゃつまらないでしょ」 「え、つまらないって」 「兄さんが俺に何を望むかを、知りたい」 天はやっぱり有無を言わさない口調で、そう言った。 望むことって言われても困ってしまう。 天に貸しだとか考えてなかった。 そんなこと言われるとこっちが居心地が悪い。 でも、黙りこんだ俺のことは気にせず天は重ねて言った。 「俺が兄さんのお願いを一つ聞くから、兄さんは俺の願い事を一つ聞いてね」 「………変なの」 「ちょっとした遊びだよ」 お互いがお互いに何を望むか、楽しみでしょうと言われても、よくわからない。 俺はいつも天にお願いしてばっかりだし助けてもらってばかりだし、俺の方が借りがいっぱいある。 こんなの、貸しでもなんでもないのに。 「楽しみにしてるね」 でも天は言葉通り、俺の望みを聞くこと自体が目的のようで楽しそうにしている。 それで、何も言えなくなってしまった。 天が、会話を打ち切るように空を見上げる。 「綺麗だね、この世界は」 穏やかに目を細めて、リラックスしたようにつぶやく。 俺も同じように空を見上げると、光と白い泡で覆われた青の世界が一杯に広がっていた。 「ああ、綺麗だ。海の中も、こんな感じなのかな」 「どうなんだろう。俺も深く潜ったことはないな」 龍は俺たちのすぐ後ろで見守るように丸くなっている。 目を閉じて、落ち着いた様子だ。 本当におとぎ話で呼んだような、そのままの龍の姿だ。 「龍も、敵意はないようだね。あそこにある死体がちょっと景観を損ねてるけど」 「………うん。誰だろう」 「男性のようだね」 男性、誰なのだろう。 龍の後ろで倒れていた人は、すでに邪気は取り除かれているようだ。 これも、龍の力だろうか。 「でも、綺麗で、落ち着く空間だ」 天のリラックスした横顔を見ていると、ふと思いついたことがあった。 これなら罪悪感が少ないかもしれない。 どっちにしろ罪悪感は消えないだろうけど。 「………なあ、さっきのお願いさ」 「うん。もう決まったの?」 「俺の、儀式の相手になってくれ、っていうのは」 これをお願いっていうのも最低かもしれないけど、なんでも聞くというなら許されるだろうか。 まだせめて貸し借りとかにしたほうが気が楽な気もする。 しかし天はすげなく首を横に振る。 「それは俺の望みでもあるから駄目。願い事じゃないから」 「お前の望みって」 「言ったでしょ。宮守の中での地位が上がるからね。俺にとって利がある」 絶対にそれだけでは、ない気がする。 でも、それが何かは、教えてくれないだろう。 こんなの、天にとってなんのメリットもないはずなのに。 「逆に、一矢兄さんは利が少ないんじゃない?そもそも家を継がなきゃいけないんだし、大変でしょ。家の援助なんてうけなくてもいいし、今も大変そうなのにその上、兄さんの相手とか」 天は悪戯っぽく笑って、そんなことを言う。 それは俺も思っていたことだ。 俺には分からないが、一応メリットがあるという天に対して、一兄には全くメリットはない。 ただ、苦労が増えるだけだ。 「………やっぱり、そうかな」 「さあ、分からないけど」 一兄は全く負担ではないと言ってくれる。 でも、絶対負担なはずだ。 「………その、お前が家を継ぐ気とかは」 「ないない。一矢兄さんがいるし、何か間違いがあってそうなっても面倒くさい。適当に楽しくやれれば満足」 一兄が一番当主に相応しいと言うのは、俺も常々そう思っている。 一兄以外には考えられない。 でも、一欠片の可能性もないのだろうか。 これほど強大な力と、それに相応しい聡明さを持つ弟なのに。 「ね、だから俺を利用しなよ」 天が俺に顔を近づけて、無邪気に朗らかに笑う。 それは天使のようにも、悪魔のようにも感じる。 天の行動には、謎が多すぎる。 信じてもいいのか分からない。 踏み切れない。 「………やっぱり、お前の考えてることが分からない」 「簡単だよ。俺は兄さんを利用したい。だから兄さんも俺を利用すればいい」 「だからって、嫌いな俺のことと、あ、あんなこと」 いくら俺を利用するといっても、そんなにメリットは大きくない気がする。 それなのに男同士で、兄弟で、あんなことをするのだ。 「だから何度も嫌いじゃないって言ってるのに。なんで信じてくれないかな」 天は困ったように苦笑して、髪をそっと後ろに撫でつける。 それからじっと俺の目を見て、静かに言った。 「兄さんは俺にとって大切な存在だよ。今では栞以上にね」 「え」 「とても、大切な存在」 それは、本当に大切な存在なんだと思ってしまいそうな優しい声だった。 甘い睦言に、耳が溶けてしまいそうだ。 でも、やっぱり分からない。 俺には天が何を考えているのかが、さっぱり分からない。 「………最近、夢を見るんだ」 「夢?」 汚いと嫌悪感で顔を歪ませていた天。 冷たく凍りつきそうな表情の天。 無邪気に笑っていた天。 そのどれもが、きっと全部過去にあったことだ。 「森の中で、小さなお前がいる。お前は、俺をどこかに連れて行こうとする」 前にこれを天に言ったことはあったっけ。 天は曖昧に頷く。 「うん」 「あれは、本当のことなのか?昔あったのか?」 「そうだね。あったかもしれないね」 「………天。やっぱり、教えてくれないのか」 天はどっちにもとれない表情で笑う。 「その森は、どこなんだろうね。小さい俺たちはどこにいるんだろう」 「どこって………」 あの森がどこかなんて、考えたことがなかった。 背の高い木々で覆われた真っ黒な道。 その中で白く光り輝く石畳。 あれは、どこなのだろう。 「………」 「え」 丸くなっていた龍神が、突然顔をあげる。 天が表情を消して、意識を張りつめさせる。 「ここが、龍神の世界か、随分綺麗なものだな」 その時、二人しかいなかった空間に、女性の声が響いた。 ぶっきらぼうな話し方をする、綺麗な声。 「三薙さん、四天さん!」 そして、焦ったように、俺たちの名前を呼ぶ声。 ここ最近で随分聞き慣れた、優しい人の声。 「志藤さん、露子さん!」 振り返ると、そこには志藤さんと露子さんがいた。 |