起きた瞬間、隣で寝ていた天を殴ろうとしたが、寸前で避けられた。
どうしてこいつはこう勘がいいんだ。
それからずっと不毛な言い争いをしている。
時には手が出るが、天に当たることはない。

「もう、お前のことなんて信じないからな!」

怒鳴りつけても天は涼しい顔で、水を飲んでいる。
寝癖がつかない黒い真っ直ぐな髪も、なんだか苛々してくる。

「嘘はついてないでしょう」
「つかなきゃいいって訳じゃない!お前はいっつもそうだ!嘘つかないっていって、人を煙に巻く」
「毎回巻かれてたら世話ないよね」
「だからなんで騙される方が悪いって話になるんだよ!」

そんな言い争いを続けていると、すでにスーツに着替えていた志藤さんが恐る恐る割って入る。

「お二人とも、その辺で。そろそろ支度して朝食を取らないと、立見家から迎えが来ます」
「………」

立見家は、朝食を終えた頃に迎えに来ると言っていた。
確かにそろそろ支度をしないといけない。
今日は帰宅する日だし、のんびりしてもいられない。

「………分かりました」

苛立ちを抑えようと、肺に溜まった空気を大きく吐く。
いつもいつもこうだ。
どうして天は俺をからかい貶めるようなことをするのだろう。
俺のことを嫌いじゃないと言うが、やっぱり嫌いなんだとしか思えない。

「………その、申し訳ありません」

俺がむっつりと黙りこむと、志藤さんが沈んだ声で頭を下げた。
慌てて首を横に振る。

「あ、いえ、志藤さんが悪い訳じゃないし!」
「いえ、その………」
「むしろ俺が悪いですし!本当にすいません!」

志藤さんが顔を伏せたまま、ごにょごにょと何かを言っている。
まあ、天との供給を目の前で見られていたというのは、すごく気まずい。
でも、理性がぶっ飛んでいたから記憶が少ししか残っていない。
すごくみっともない姿だろうが、きっと志藤さんは忘れてくれるはずだ。
また迷惑をかけてしまったのは、申し訳ないというしかない。

「あ、あの!」
「おはよう。入ってもいいかな」

志藤さんが顔を上げたその瞬間、障子の向こうから声がかけられた。
涼しげなきりっとした女性の声の持ち主はすぐに分かる。

「露子さん!?」
「大丈夫かな?」
「え、は、はい」

布団は敷かれたままで、俺も天も浴衣だったが、そこまで困らない。
露子さんがありがとうと言いながら、障子を上げる。

「おや、まだ用意が出来てなかったようだな。申し訳ない」
「早すぎでしょう」

天が不機嫌そうに眉を顰めて答える。
本当に露子さんには態度が悪いな。
けれどやっぱり露子さんは動じることなく、むしろ嬉しそうににこにこと笑っている。

「ああ、龍神が今日、婚儀の受け入れの兆しを見せたのでな。嬉しくて報告に来てしまった」
「え、受け入れられたんですか!?」

あんなに龍神が怯えた様子だったのに。
露子さんは、しかし苦笑して首を横に振る。

「それはまだなんだがな。私のプロポーズした日からまったく姿を見せてなかったんだが、昨日の夜はようやく見せてくれた。第一歩だな。あいつが観念する日も近い」

弾んだ声といい、上気した顔といい、なんだかテンションが上がっているようだ。
本当に嬉しいのだろう。
こちらとしては、ややちょっと距離を置いてしまうが。

「恋はいいものだな。世界がまさしく薔薇色だ。一緒に朝食取らないか?ノロケを聞いてくれ」
「は、はあ」

俺が曖昧に頷くと、天が鼻で笑う。

「本当に頭がお花畑ですね」
「ああ、春爛漫で目出たいな。華やかでいいことだ」

本当にこの人は、強い。
天がこんなにつっかかるところも、やり返されるところもあまり見ない。
不貞腐れたように口をつぐむ弟の姿に、やや留飲が下がる。

「さ、早く着替えてくれ。ふふ」
「うわ、きも」
「そうつれなくしないでくれ」

天のストレートな嫌みも、露子さんにはやっぱり通じない。
思わず俺も苦笑してしまう。

「じゃあ、着替えますね。少し外でお待ちいただけますか」
「ああ、勿論だ」

露子さんに告げて、服を取ろうと部屋の隅を振り返る。
その瞬間、首のうしろがついっと撫でられる。
その寒気に似た感覚に思わず飛び上がってしまう。

「うわ!」
「三薙さんも、中々情熱的に愛されたようだな」

首を抑えて振り返ると、露子さんが面白そうに笑っていた。

「だが、これは隠しておいた方がいいかもしれないな。刺激が強すぎる。女将に絆創膏を貰ってこよう」

そう言い置いて、露子さんは部屋の外に出ていく。
なんのことかと手で押さえていた首を傾げる。

「何?そういえばちくちくすると思った。何か刺されてる?」

首の後ろの付け根の辺りが、何やら腫れているような感触がする。
言われてみれば、ちくちくとする。
冬だけれど、何か虫に刺されたのだろうか。

「………も、申し訳ございません!」
「うわ!志藤さん!?」

その瞬間、志藤さんがスライディングせんばかりの勢いで土下座した。
布団の上で床になすりつけるように深々と頭を下げる。

「本当に申し訳ございません!このことに対するどんなお叱りでも受け入れます!」
「え、え、え、何?え?」
「どうかお許しください!」
「だから何!?」

なんのことか分からず聞いても、志藤さんは謝るばかりで答えてくれない。
助けを求めて後ろにいた弟を振り返る。
すると天は、小さく笑った。

「歯型までつけるなんて、本当に情熱的ですね」
「………歯型?」

歯型って、歯の型のことだろうか。
歯の型がどうしたんだろう。
歯医者で治療のために取ったとかか。

「首、食いちぎられなくてよかったね」
「へ?」

その言葉は俺に向けて言われていたようだ。
食いちぎられなくてよかった。
歯型。
そして謝る志藤さん。

「え、これ、歯型!?」

首をさすると確かに、へこんだ形が歯型のようにも感じる。
思わず上擦った声を上げると、志藤さんがそのままひっくり返ってしまいそうなほどに頭を下げる。

「申し訳ございません!」

と言われても、何がなんだかよく分からない。



***




なんとか志藤さんを宥めて落ち着かせて、朝食を取ることが出来た。
許すも許さないも、何がなんだか本当に分からない。
なんで噛んじゃったんだろう。
美味しそうだったのだろうか、俺の首。
気にしても仕方ないから、とりあえず気にしないように告げた。

一緒に取った朝食の間露子さんは龍神との幼い頃からの思い出なんかを楽しそうに話してくれた。
珍しく逐一つかっかる天の嫌みにも全く動じなかった。
本当にただノロケに来たようだ。

昨日のやりとりなんて忘れてしまったかのような明るい態度に違和感を感じるが、正直ほっとした。
どう接したらいいか分からなかった。
でも、昨日の出来事なんてまるで幻だったかのように、露子さんは変わらなかった。

そして当主の部屋。
立見家の龍神を向かえる広間で、最後の挨拶を告げる。

「宮守の方々には本当にお世話になりました。今度は是非仕事としてではなく、遊びに来てくださいませ。冷鉱泉も、湖もありますし、食事も中々に美味しいんです。ゆっくりしにきてください」
「はい、是非」

水魚子さんのお世辞めいた言葉に、それでも大きく頷いた。
いい所であると思うしまた来たいとも思う。
湖が綺麗で、ご飯は確かに美味しくて、温泉も気持ちが良かった。
でも、次来る時は明るい気持ちで来れれるだろうか。
来たいとは、思うのだけれど。

「ああ、そうだ。三薙さん、これを龍神から預かった」

現当主として水魚子さんよりも上座に座った露子さんが袂をごそごそと探る。
そして、キラキラと光る水色の小さなものを差し出してくれた。

「え、なんですか?」
「龍神の涙と言われる結晶だ。売れはしないが中々レアものだ。あいつの感謝の気持ちらしい。受け取っておいてくれ」

そっと手の平に載せられた石は、まるで龍神の結界の中のように青く、中に小さな泡がいくつも見えて、とても綺麗だった。
かざして光に当てると、きらきらと輝く。

「綺麗………」

握ると、わずかに力強さを感じる。
昨日見た龍神の神々しさ、威圧感。
そんなものが手の平から伝わってきた。

「それに力もある」
「ああ、お守り代わりに持っておいてくれ」
「………えっと、はい、ありがとうございます」

ここで断っても、龍神が気分を害するだけだろう。
だから俺は受け取って、開け放たれた窓から湖に向かって声をかけた。

「ありがとう、龍神」

ばしゃり。

すると答えるように水しぶきがあがり、音をたてた。
返事をしてくれたようだ。
なんだか嬉しい。

「妬けるな。いい加減つれなくされると、私も思いあまって何をするか分からないぞ」

露子さんの言葉に、今度は水飛沫は立たなかった。
口を尖らせて拗ねた様子はとても愛らしいのに、言ってる内容はやっぱり怖い。

「意気地なしが」
「………露子」
「大丈夫です。あいつは結局私を選ぶしかないのだから」

水魚子さんの嗜めに、露子さんは不敵に笑う。

「龍神がこの地に人を食らいもせず留まれるのは、花嫁によって繋ぎとめているんです」

俺が疑問に思って首を傾げたのが分かったのか、露子さんが答えてくれる。
力の供給を顕現を、人間とのつながりで保ってるのかな。
でも、露子さん以外が選ばれる可能性もあるんじゃないだろうか。

「まあ、他の人間を選ぶ可能性もあるが、その場合は略奪愛だな」

ばしゃり!

なんて思っていると露子さんはやっぱり自信満々に言い放ち、それに答えて湖から乱暴な水音がした。
水しぶきも大きく上がり、辺りに水を打つバシンと痛そうな音が響く。

「はは」

怒っているような龍神の態度にも、露子さんは笑うだけ。
本当に、大丈夫なのだろうか。
いや、この人ならなんとかしちゃいそうだけど。

「それでは」

今まで笑っていた露子さんがすっと表情を変え、居住まいを断たす。
背筋をぴんと伸ばして、頭をゆったりと下げる。

「大変お世話になりました。この度の宮守のお力添え、立見家のものとして深く感謝申し上げます。願わくば、宮守と立見のこの縁が、末永く続きますように」
「それはこちらも希望するところです。この縁が子々孫々繋がりますように」

天の答えに、顔をあげた露子さんが悪戯ぽく笑う。

「ふふ」

子々孫々、そんな未来は、立見家に訪れるのだろうか。
露子さんはそれを許すのだろうか。
疑問に思ったが、ここで聞ける訳がない。

「では、この部屋を閉じて後から参ります。先にお車に向かってください。湊、ご案内を」
「はい」

露子さんはさっと立ち上がり、それに合わせて俺たちも立ち上がった。
湊さんに促されるまま、部屋を出る。

これで、仕事は完全に終了か。
ほっと息をつく。
無事に、といっていいか分からないが、頼まれていた仕事はこなせた
それなら十分だ。

「あの」

玄関に向かう廊下の途中で、湊さんがぴたりと足をとめた。
つられて、俺たちも足を止める。
湊さんは振り返り、じっと天を見つめる。

落ち着いた綺麗な顔をした少年。
剣が扱える人。
露子さんとは違うことを言っていた人。

「四天さん」
「はい、なんですか?」

四天は突然の問いかけに驚く訳でもなく、静かな顔で湊さんを見返している。
湊さんはしばらく躊躇してから、それでも口をなんとか開いた。

「あなたは、家に囚われることを、厭うことはありませんか」
「厭う?」
「古臭い因習に縛られ、犠牲を強いられ、自由もなく、ただ捨邪地の管理と土地の人間のために生きる。そんな生き方を、息苦しくは、感じませんか?」

それは湊さんがずっと言っていたことだっけ。
家に縛られるのが嫌だ、と。
でも露子さんは湊さんが家に囚われるのなんて望んでいない。
好きに生きて欲しいと言っている。

「息苦しくは感じますね。湊さんは抜けだしたいんですか?」
「………分からないです。いっそ家に従えと言われれば楽になれる気もします。何も考えなくていい。この中途半端な拘束が、苦しくて仕方ないのです。命じられてはいませんが、家のために子を為し、当主になれる訳ではなく飼い殺されることが望まれている。生きながらに腐っていく気がする」

当主にもなれず、それでも家のために尽くして生きる。
それは確かに、なんのメリットもない、酷く不自由な生き方な気がした。
天は、湊さんの言葉に小さく笑う。

「それで出来れば、この家がなくなればいいと想像したり?」
「………ええ。妄想ですが、何か不祥事が起きて、龍神が弱り、消え、花嫁の必要もなくなり、皆が自由になれればいい。そんなことを夢想します」

ひやりとするようなやりとり。
湊さんの表情は動かず、天はやっぱり笑っている。

「あなたが苦しいのは、中途半端だからじゃないですか?」
「………」
「家の束縛からは逃れたい。だが、家からは必要とされたい。価値のある人間でいたい」
「………」
「だから消極的に家が無くなることを望む。なくなってしまえば悩む必要がなくなるから」

俺は家から逃げ出したいと思ったことはない。
でも、家からは必要とされたり、価値のある人間でいたい、という気持ちは分かる。
家から必要ないとされるのは、自分がちっぽけで役立たずな人間であると思い知らされる。
それは、嫌だ。

「でも積極的に壊したり逃げたりするには勇気がない。悪者にも卑怯者にもなる度胸がない」
「耳に、痛いですね」

湊さんがそこで、本当に痛いような顔で笑った。
苦いものを無理矢理飲み込むような、苦しい笑い方。

「あなたは犠牲と言ったが、あなたのお姉さんは一切犠牲だなんて思ってないでしょうね。むしろ、この地にいる誰よりも自由に生きている」
「ええ………。露子姉さんは、苦しまない。囚われるなんてことは、しない」

湊さんが犠牲といった花嫁は、とりあえず露子さんに関しては全く犠牲ではない。
今日の朝ののろけっぷりから見ても、確かだ。
露子さんに関しては、助ける必要なんて、ない。

「露子さんが、羨ましいですか?」
「………ええ。迷いがなくなればいいと、思います」

天は、湊さんの答えに一つ頷く。

「それは俺も同感です。他の何にも囚われなければ楽になれる。けれど、俺はそうなれない」
「………」
「でも自分をどちらの立場におけばいか分からないほど優柔不断になりたくはない。種だけまいて、後は運の任せるままに流されるようなこともしたくない」

湊さんが、こくりと唾を飲み込む。
俺も、天の言葉に聞き入る。
こいつはいつもこんな話をしない。
俺の前で話してくれるのは、もうないかもしれない。

「自分の欲するところを見つけられば楽になれると思いますよ。家が負担なら逃げればいい。家が好きなら尽くせばいい」
「そう、ですね」
「当主は、あなたがどんな選択を選ぼうと、否定することはないでしょう」
「………ええ」

そこで湊さんが、唇を歪めて笑った。
どこか疲れたような自嘲。

「結局僕が何をしようと、露子姉さんが動揺することも、苦しむこともない」

露子さんは湊さんが何を望もうと、何を為そうと反対することはないだろう。
龍神に関わることでなければ、何もかもを受け入れるだろう。
誰でも、平等に受け入れる。

「分かった気がします。僕がしたかったこと」

湊さんが、伏せていた顔をあげて笑った。

「露子姉さんに、僕の存在を気が付いてほしかったんだ」

露子さんは全てを受け入れる。
特別なのは、龍神だけ。

それ以外は、彼女にとっては、どうでもいいことなのだ。





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