驚いて、一瞬声が出なかった。 思わず軽く身を引く。 けれど、障子の外から聞こえてきたのは、知っている声だった。 「………あの、すいません」 どこか硬質な冷たく感じる女性の声。 ここに来てから、何回か聞いた。 そういえば障子の影は、和服姿の女性だ。 「あ、由紀子さん………?」 「はい」 ほっと息をついて肩の力が抜ける。 緊張が解けた途端、頭が重みがぶりかえして、布団に倒れこみそうになる。 手をついてなんとか体を支えた。 「えっと、どうかしましたか?」 「お休みのところ申し訳ございません。急ぎの用事がありまして」 「なにか、あったんですか?」 期待と不安で、また緊張する。 由紀子さんの話となると、雛子ちゃんのことだろうか。 雛子ちゃんが見つかったのか。 それとも。 つばを飲み込んで、由紀子さんの次の言葉を待つ。 だが、由紀子さんがいつまで経っても話し始めない。 「由紀子さん?」 「………あの、開けていただいていいですか?」 「あ、え?はい、開けていいですよ」 この家の人なんだから挨拶してくれれば開けていいのに。 俺がこの家の厄介者みたいなものなのに。 仕事もロクにしてないし。 お水とか持ってきてくれたお手伝いの人は開けてたし。 「いえ、悪いですから、開けてください」 「………えっと」 体だるいから、開けてくれるとありがたいんだけど。 別に悪いってことないし。 礼儀知らずってことでもないだろうし。 障子の前の人影は、それでもやっぱり動かない。 仕方ないから、行儀悪く布団から這いずるようにして障子に向かう。 やっぱ、辛い。 「少し、待ってて、ください」 「………はい」 なんで、ここまで頑なに開けてくれないんだろう。 育ちのいい人って、こういうの気にするのかな。 俺も悪くはないはずなんだけど。 別にそういう礼儀はないはずだよな。 俺が開けていいって言ってるんだし。 ………本当に、これ由紀子さんだよな。 ふと疑問に思って、自分の想像に身震いする。 声と、障子越しに見える影は間違いなく由紀子さんだ。 ごくりと、唾を飲み込む。 「………えっと、由紀子さん?」 「はい?」 少し癇の強そうな堅い声。 背筋が伸びた和服姿の影。 間違いなく、由紀子さんだよな。 「………あの」 「はい」 焦る様子もなくじっと待っている。 なんも、おかしくないよな。 ていうか、そうだ。 この家には結界が張ってある。 ワラシモリすら入れないようなかなり強力なものが。 そうだ、これが邪の者である訳がない。 そのはず、なんだけど。 「えっと、その、なんのご用事でしょうか」 なんとなく開けるのをためらって、もう一度聞いてしまう。 この家に、妖しのものなんかが、入れるはずがないんだけど。 「…………」 由紀子さんが一旦、黙りこむ。 なんか、おかしいよな。 やっぱり、おかしい気がする。 なんだろう。 なんだ、この違和感は。 「………由紀子さん?」 「実は、四天さんが怪我をされて、三薙さんのお力を借りたいと」 「え!?」 思わず反射的に、何も考えずに障子を開く。 勢いよく開いた先には、婆ちゃん譲りで綺麗に背筋を伸ばした由紀子さんが立っていた。 畳に這った俺を、いつものようにきつい視線で見下ろしている。 最初出会った時から、どこか冷たい印象を受ける人。 そこにいたのが、ちゃんと人の形をしたもので、ほっとした。 まぎれもなく、それは由紀子さんだ。 そうか。 そうだよな。 邪が入れるはずがないんだ。 馬鹿だな。 「四天、どうしたのですか?」 「祭りの最中に怪我をされてしまって、三薙さんにおいでいただきたい、と。言伝を受け賜ってまいりました」 「え」 その言葉に焦燥に駆られ、立ちあがろうとする。 が、めまいがして、その場にまた崩れ落ちた。 「………す、いません、ちょっと体が、言うこと聞かなくて…、四天は、祭は…?」 「四天さんが祓いに失敗されて、祭は中断してします。手をお貸ししますから急ぎましょう」 そう言って、由紀子さんが手を伸ばしてくる。 恥ずかしいが、そう言ってもいられないので俺はその手をとろうと、体を支えて手を伸ばそうとする。 けれど、また体が言うこと聞かずにその場に倒れこむ。 「す、すいません」 「いいえ」 もう一度体を起こそうとする。 それにしても四天が失敗だなんて、珍しいことがあるもんだ。 俺に助けを求めるなんて、そんなの今までなかった。 甘えてばかりの俺と違って、小さい頃から弟は、俺にも兄達にも助けを求めることはなかった。 四天はずっと、誰に頼ることなく一人で立っていた。 いや。 そうだ。 ある訳がない。 四天が祓いに失敗するなんてある訳がない。 俺に助けを求めるなんて、あり得ない。 あの四天だぞ。 この状態の俺に助けを求めるなんて、そんなの四天じゃない。 そんなのを、あのプライドの高い四天が許すわけない。 いや、仕事に対するプロ意識が高いから、いざとなったらそれもするかもしれないけど。 でも、四天が、そんな状態に自分を追い込むなんて、最初からする訳がないんだ。 まして、同行者が俺だ。 父や兄達じゃ、ないんだぞ。 まだ、一応中学生だし、もしかしたら万一ってことがあるかもしれない。 限りなくないに等しいだろうが。 いや、それでも、由紀子さんに頼む、なんてことあるか。 白峰や黒輝、力が足りないなら、もっと力の弱い使鬼を使うんじゃないだろうか。 他家の人間に、そんなことを頼むか? とにかく、四天らしくない。 四天が、こんなやり方する訳がない。 なんか、おかしい。 「………由紀子さん、その話、本当ですか?」 「え………?」 「四天が、怪我したって、本当ですか?」 由紀子さんが、無表情に俺を見下ろしている。 そうだ、最初から由紀子さんはおかしい。 熱で判断がにぶっていて気付かなかったけど、おかしい。 そんな事態だったらもっと焦っているはずだ。 なぜこんな落ち着いているんだ。 「………本当ですよ?」 「四天は、なんと?」 「三薙さんに助けてほしい、と。兄さんならやってくれる、と」 「………」 そんなこと、四天が言うはずがない。 本当に万一、億が一、そんな事態になったとしても、俺に頼るようなこと言うはずない。 もっと上から、ビジネスライクに命令するはずだ。 俺に頼るなんてこと、ある訳がない。 「嘘、だ」 「………」 「四天が、そんなこと言うはずがない。由紀子さん、なぜそんな嘘つくんですか?」 「…………」 由紀子さんは俺の言葉に黙り込む。 やっぱりおかしい。 なんだろう 別に邪に取りつかれたとか、そう言った様子はない。 そういう意味では、普通だ。 でも、おかしい。 何かが、おかしい。 「………困りましたね」 「………な、にが」 なんだか落ち着かなくて、気持ち悪い。 少しだけ、這ったままだった体を後ろに引く。 その瞬間、由紀子さんは袂から小さなピンク色のものを取り出した。 「これ、見覚えがございますか?」 「そ、れはっ!」 女の子らしい、ピンクの小さな、かわいい靴。 茶色のサンダルの横にあって、小さな足が踏みつぶすようにして履いていた。 そのまま軽やかに駆けだしていく、小さなピンクの靴。 すがるように手を伸ばす。 すると、ひんやりとした冷たい手が、俺の腕を強い力で掴む。 「ああ、ようやく出てきてくれた」 見上げると、由紀子さんはにっこりと美しく笑った。 |