しばらくそこでぼうっとしていた。
遠くでヒグラシの声が聞こえる。
どんよりとして湿った空気はなんだか淀んでいて、息苦しい。
暑いな。
つっと、汗が首筋を伝った。

「………帰るか」

部屋を飛び出してきた時のイライラはすでに納まっていた。
雛子ちゃんにも怒られてしまった。
きちんと天に謝って、力の供給をうけよう。
そして心身ともに整えてから、仕事に臨もう。
これは、俺の初仕事なんだから。

「よし」

強く、頬を両手で叩く。
気合いが入ったところで、屋敷に向けて足を一歩進める。
その瞬間、視界の片隅で景色に溶け込まない色が見えた。
つられて自然と、そちらに視線をやる。

花畑の隅、森との切れ間に、臙脂色の影が見える。
目をこらすと、それは小さな男の子がしゃがみこんでいる姿だった。
気づかなかった。
あの子も花を摘んでいるのかな。
あ、もしかしたらあれが望、かな。
ちょっと頬が緩む。

後少しだけなら、大丈夫だよな。
腕時計を確認する。
うん、出てきてから30分ほどだ。

もしかしたら天と会うのを先延ばしにしているのかもしれないが、もう少しだけこの花畑にいたい気分だった。
だから、館の方に向けていた足を森に再度向ける。
近づいても、少年は気づかない。
驚かせようかどうしようか一瞬迷う。
けれど、それじゃ本当に変質者だ。
後3歩というところで、しゃがみこんだまま動かない男の子にそっと声をかけてみた。

「えっと、ねえ?」

ぴくりと少年の肩が揺れる。
すっと立ち上がったかと思うと、くるりと首だけで振り返った。

「え」

確かにその背も服装も小さな男の子。
けれど、その顔は老人のように皺くちゃだった。
かさついた肌に、刻み込まれた皺。
皺に隠されて、目も見えないくらい細くなっていて、頭髪は抜け落ちていた。

「あ」

一瞬驚いて、足を一歩後ろに下げる。
すると、男の子は前を向いて、森の方にかけ出した。
いけない。
驚いたりして、傷つけてしまっただろうか。
自分が恥ずかしくなる。

「あ、待って」

男の子を追いかけて俺も森に入り込む。
もう小さな背はだいぶ前に行ってしまった。

「お願い、待って、ごめん!」

森の中は根が張っていて、走りづらい。
しかもサンダルだ。
でも、追いかけなきゃ。
男の子はよほど足が速いらしく、なかなか追いつけない。
更に大股で走ろうとして、飛ぶように木の根をかわす。
そこで、踏みしめるものが何もないことに、気づく。

え。

「う、わああ!」

下草に隠されて、そこにはぽっかりと大きな穴が開いていた。
バランスを崩し、人が二人は入りそうな穴にすっぽりと飲み込まれる。
咄嗟に穴の淵に腕を付き、全部落ちることを免れる。

「あ、ぶな」

心臓がバクバクと音を立てているのが、耳元で聞こえる。
何度も何度も荒く呼吸して、ようやく状況を理解する。
えっと、落とし穴かな。
さっきの子の悪戯だろうか。

「は、はは。とんだ悪ガキ…って」

くい、っと穴の中に突っ込んである足が、何かに引っ掛かった。
木の根だろうか、足を軽く振ってそれを払う。

くいくい。

でも、ズボンがひっぱられる。
なんだよ。
落ちないように体を支えながら、穴の中を見る。

「ひっ」

そこには、先ほどの老人の顔をした男の子がいた。
穴の中から俺の足をひっぱっている。
なんで、さっき、この子は俺の前に。
そうだ、確かに前にいたはずだ。
なんで、中に。

「な、何」

ぐい。

更に強く足が引っ張られる。
穴の底は暗く見えない。
落とし穴が、そんなに深いはずが、ない。
男の子の足の先まで、見えない。

「や、やめ」

振り払うこともできず、体をひっぱりあげようと腕に力を込める。
それでも、足が使えず、中々持ち上げることができない。

『オチロ』

しわがれた、ざらりとした不快感を誘う声が聞こえた。
ぞわりと背筋が寒くなって、ついもう一度穴の中を見る。

『オチロ』

そう言って、皺に隠れて見えない眼と口が、線を引いたように横に伸びる。
笑っているのか。
男の子の形をした何かは、枯れ木のように細い両手で、俺の脚を引っ張る。

「う、わ、あああああ」

落ち着け落ち着け落ち着け。
えっと、そうだ。
力を、力を練って。

『オチロ、オチロ、オチロ、オチロ』

うるさい。
黙れ。
集中できない。
足が引っ張られる。
いやだ、落ちたくない。

落ち着け。
力を練って。
清らかな青い水で、体を纏え。
くそ、力が足りなくて、うまく引き出せない。
引き出すものが、ない。
でも、あと少しだ。

ぐい。

再度強く、足が引っ張られる。

「や、め、ろおおお!」

足に集中して、力を纏わせる。
すると、足の圧迫が一瞬なくなった。
その隙に穴の中を蹴って、腕に力をこめて駆けあがる。

「あ、は、はあ、はあ、はあ、はあ」

苦しい。
力はエンプティに近い。
でも、まだくたばってられない。
這いずるようにして、穴から体を遠ざける。
逃げなきゃ。

ずる。
ずるずるずる。

嫌な音がする。
よせばいいのに後ろをちらりと振り向く。

しわがれた手が何かを探るように穴から出てきて、周囲を探っている。
片手だった手が、両手になる。
そして腕まで這いあがってくる。
ぼさぼさに、ところどころ抜け落ちている頭が見える。

「い、やだ」

逃げなきゃ。
立て。
動け、俺の脚。

でも中々言うことを聞かず、足がもつれる。
座ったまま、ずりずりと、穴から逃げる。
穴から頭が全部飛び出してきた。

「い、やだっ!」

力を振り絞って立ちあがろうとして。

ぺたり。

何かが後ろから、地面についていた俺の手を掴んだ。
その感触はかさついている。
なんで。
後ろには、誰もいなかった、はずだ。

「ひ!」

振り返ると、肩のすぐ横に、皺に隠れた目と口があった。
そいつが、にたりと笑う。

「あ、う、わあああ!!!」

恐怖に思わず叫んでしまう。
いやだ。
気持ち悪い。
怖い。
投げ出した脚も、前から来た何かに掴まれた感触がした。

「っ!」

力を使え。
逃げるぞ。
目をつぶれ。
いやだ。
怖い。
助けて。

てん。

「やめろ」

その時、凛と澄んだ声が、辺りに響いた。
一瞬で、重苦しい空気が、なくなる。
そして、肩と足が掴まれていた感触が、ふっと消えうせた。

「………て、ん?」
「大丈夫?お兄さん」

しかし、その声は予想していたものではなかった。
まだあどけない、小さな少女の高い声。
恐る恐る目を開いて、声を主を確認する。

「………君は」

一瞬、雛子ちゃんかと思ったが違う。
俺の前にいつのまに立っていたその子は、雛子ちゃんと同じぐらいの背格好。
けれど肩で切りそろえた髪と、赤い着物はとても古風だ。
大きな目としっかりとした眉の大人びた顔をした美少女が、にっこりと笑っていた。

「お祭りが近いから、ああいうのが増えるの。うろうろしてると、危ないよ」

少女はあでやかに笑って、小首を傾げる。
そうすると黒いつやつやとした髪が揺れて、とても綺麗だった。

「あ、君が、助けてくれたの………?」
「うん」

この子は明らかに、人ではない。
人間の子がこんなしっかりとした着物を着てひとつも汚さずに、更にこんな森の中にいるわけがない。
なにより、纏う空気が違う。
神域などと同じ、小さな圧迫感を感じる。
嫌な感じではないが、神社などの清浄だが人を拒む空気がする。
土地神とか、そう言ったものなのか。
害意は感じない。
先ほどの化け物なんかとは格が違う。

「えっと、君は?」
「私は、ワラシモリ、よ。宮守のお兄さん」

ふふ、と大人びた様子で少女が笑う。
まだ幼い少女なのに、雛子ちゃんとは違って、なんだか女性の色を感じる。
一瞬どきっとしてしまったのをごまかすために、俺は聞き返す。

「ワラシモリ?」

どこかで聞いた気がする。
えっと、どこだったっけ。
けれどそれには答えず、ワラシモリは小さな白い手で俺の顔を包む。

「お兄さんが、小さな女の子だったらよかったのに」
「………え?」
「そうしたら、私たちお友達になれたわ」

何を言っているのか、分からない。
大きな男の子じゃだめなのか。
いや、そうじゃなくて。
混乱してるな、俺。

「えっと、そ、そうなの?」
「うん、さっきのあいつらも、お兄さんみたいのが、好きなの」

やっぱり、何を言っているのかわからない。
初めて会ったが、神とはこういったものなのだろうか。
化け物と言葉が通じたこともないし、人外のものってのは、たとえ神でもやっぱりどこか人間と違うのかもしれない。

「………好かれても、嬉しくないな」
「お兄さん、とってもおいしそうだもの。力を感じるのに、弱そうだし」

おいしそうと言われて、ドキリとする。
神とは、元はといえばあの化け物と何も違わない。
何かを代償に与えて人間に恩恵をもたらす存在が神。
人と話が通じるか、通じないか、その差だけらしい。
だから人のルールでは縛れないし、時に人に害を与えることもある。
俺の恐怖を見抜いたのか、少女が悪戯ぽく笑う。

「ふふ、食べないよ」
「………ありがとう」
「でも、お兄さん、もう少し強くならないと、食べられちゃうよ」

ワラシモリは俺の頬をひんやりとした手で包んだまままっすぐに見ている。
俺は座り込んだまま、つい本音を漏らしてしまう。

「強く、なりたいな」

女の子が小さく首を傾げる。
不思議そうに。

「お兄さんはね、飲み込むの。生み出すんじゃない、作り出すんじゃない。飲み込むのよ」
「え、どういう………」
「もうすぐ、日が暮れる。早く帰った方がいいよ」
「あ、うん」

また、ふいに話を変える。
どうにも、やりづらい。
テンポが、わからない。

「それに、お兄さんのお迎えが来てるみたい」
「え」

微笑んでいた少女は、そこでふっと真顔になる。
すると、穏やかな空気は急に張りつめる。
その顔はどこまでも硬質で、小さく恐怖を感じた。

「私、あの人は嫌い」

女の子はぽつりと低い声でそう漏らした。
誰が来たのかと、後ろを振り返る。
そしてもう一度前を向く。

そこにはもう、女の子はいなかった。

「兄さん」

そして後から、よく聞きなれた声が聞こえた。








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