『何があっても、その声とやらには惑わされないで。声の誘いには乗らないで。誘導されないで』

その姿を見た瞬間、天の声が鮮やかに脳裏に蘇る。
それは、声の言うことを聞くな、とかそう言った意味だと思っていたのだが。
だから、絶対に惑わされないと思っていんだけど。

「あ………」

もしかして、これって、誘導、されたってことか?
見事に、誘導されちゃった、のか?

ひた。

たぶん俺の肩ぐらいの背丈の黒い影が、一歩こちらに踏み出す。
ゆらゆらと体を左右に大きくふる、奇妙な歩き方。

ひた。
ひた。
ひた。
ひた。

ゆっくりと、それでも確実にそいつは近づいてくる。
固まっている、場合じゃない。
スピードをあげられたら、終わりだ。

「や、ばい………」

どうしたらいい。
逃げられる?
どこに?
追いつかれる?
分からない。

札は二枚。
ちらりと横目で近くの教室を確認する。
視聴覚室が、そこにある。

全員で入って結界を張る?
そんな時間はあるか?
あいつを追い払うだけの強固な結界を張る時間はあるか?
視聴覚室には、窓がある。
さっきと同じ結果になる?

どうすればいい。
どうしたらいいんだよ。
一兄、双兄、四天。
教えてよ。
どうしたら、いいんだ。
助けてよ。

目をつぶって、兄弟の顔を思い浮かべる。
頼もしい、強い兄弟達。
すると、まだ高い少年の声が思い出す。

『できることは多くない』

唇を強く噛む。
手を握りしめて、その痛みで自分を奮い立たせる。
そうだ、迷うな。
迷ってる暇はない。
俺に出来ることなんて、限られている。

「食い止める!皆、そこの教室入って!」

声にすぐに反応してくれたのは、やっぱり藤吉。
視聴覚室のドアを開いて、女子二人を押しこむ。
本当に、こいつがいてくれてよかった。
俺一人じゃ、きっと何もできなかった。

「結界張って、入れないようにするから!」

前のひたひたと歩く黒い影から目を逸らさないようにしながら、俺は三人の背を押す。
岡野が視聴覚室の中から、焦ったように叫ぶ。

「宮守は!?」
「大丈夫!俺一人だったらなんとかなる」
「はあ!?バッカじゃないの?」

そのひどい言い方がおかしくて、少しだけ笑う。
でも、俺まで入ってさっきの二の舞になったら、もう守れる気がしない。
それ以上に、入って結界を張る時間があるかどうか、わからない。

もしかしたら間に合うかもしれない。
でも、間に合わないかもしれない。
分からない。
それなら、ここの扉を閉めて、俺がこいつを引き付ける。

「いる方が足手まとい!この前も俺、帰ってこれただろ?でも、人まで守れない。お願い入って!」
「なっ、そんなこと!」

もう黒い影はそこまで来ている
問答している暇はない。
俺の声は切迫して、みっともなく裏返っている。
視界の隅で、岡野がきゅと赤い唇を噛むのが分かった。

「………分かった」
「チエ!?」

堅い声で、そう返してくれたのは槇。
岡野をひっぱり教室の中に入り込む。

「入るよ、彩!宮守君、自分ぐらいは守ってよ!」
「うん!」
「絶対だからね!」

おっとりした槇の、強く荒い言葉。
その言葉に、泣きそうになる。
どうしてこの人たちはみんなこんなに、優しいんだろう。
俺なんて、そんな優しくされる資格、ないのに。

駄目だ、そんなこと、考えている暇は今はない。
後は藤吉を入れて、扉に結界を張る。

「藤吉、早く!」
「だめだ、来る」
「え」

たたたたた。

急に黒い影がスピードをあげる。
相変わらず頭を左右にゆらゆらと揺らす気味の悪い歩き方をしながら、足だけは速まる。
扉に一瞬気をとられていたせいで、反応ができない。
藤吉は乱暴に扉を閉めると、よりによって黒い影に向って走り出す。

「え、馬鹿!」
「くんなっつーの!」
「藤吉!」

藤吉が蹴りを黒い影に入れる。
少しだけ黒い影が傾いだように気がした。
でも倒れることなく、細くて床につくくらい長い手が、藤吉の足を掴もうとする。

させるか!
ポケットの中の札を一枚取り出し、黒い影に貼りつける。

「闇を祓う力をもちて、我に仇なすものを戒めよ!」

あぁぁあ”ぁぁ”ぁあああ”!

金属が擦り合うような形容のできない声を上げて、黒い影の動きが止まる。
下半身は佇んだそのままに、上半身だけ曲げてぺったりと床に頭につける。
近くで見ても、それは黒い影としか表現できない。
ぼんやりとした輪郭を持った、確かな感触をもたない影。

いけるか?
いや、俺の力じゃ、足りない。
気配が弱まっている様子はない。
でも、止まった。
その隙に藤吉の手をひっぱって引き寄せる。

「藤吉!?大丈夫か!?ていうか無理すんな!」
「平気!それより、その教室!」
「うん」

もう、藤吉を入れている暇はない。
今は止まっているが、いつ動き出すか分からない。
俺はありったけの力を、残りの札に込める。

「宮守の血の力により、邪を寄せ付けぬ塞となれ!」

自分の中に流れる海を最大限に札に纏って、扉を閉ざす。
ちょっとやそっとじゃ、破れない結界を作り出す。
息が、切れる。
立て続けに強い力を使ったせいで、消耗が激しい。
苦しい。
力が足りない時の、喉の渇く感覚。
飢えが、始まっている。

でも、これなら、いける。
自分でも誇っていいぐらいの、綺麗な結界だ。

「出来た!絶対そこ出んなよ!」
「分かった!」

教室の中から、槇の声が聞こえる。
大丈夫、槇なら大丈夫。
窓は、まだ無防備な状態だろう。
それなら、窓になんか気付かれないように、あいつを引き付ければいい。

「藤吉、逃げる!」
「分かった!どこいく!?」
「分からない!」

俺は黒い影の横をすり抜けて、東側に向かって走り出す。
藤吉が、それに続く。
十分に距離を取ってから、俺は振り返って手を叩く。

「ほら、鬼さんこちら!手のなる方へ!」

黒い影は、いまだに固まっている。
藤吉の息を呑む音がする。
俺も唾を飲み込む。
このまま、固まっていてくれるなら、それに越したことはない。

でも、そんな都合のいいこと、ある訳ないよな。

黒い影はゆっくりと上半身を事もなげに持ち上げた。
こちらを振り向くと、口のあたりが白く裂けて、にたりと笑う。
ゆらり、とまた頭を振り歩きだす。

ひたひたひたひたひたひた。

先ほどよりもずっと早いスピードで、俺たちを追いかけてくる。
よし、乗った。
このまま、視聴覚室から引き離す。

何も言うことなく、俺達は同時に走り出した。
とりあえず東側の端まで走る。

「ごめん、藤吉!付き合って、もらっちゃって」
「あ、ははは、なんかテンションあがってきた、オニゴッコなんてガキの頃以来だよ!」

息を切らして笑いながら、藤吉はこちらを見てにっと口の端を持ち上げた。
俺も襲い来る飢えの虚脱感と、純粋な疲れと戦いながら、笑い返す。

ああ、こんな状況だけど、思う。
こいつと、こいつらと会えて、よかったな。
こんな風に、話せて、本当によかった。

こんな時に考えるべきじゃない、場違いな感傷に浸る。
すると隣の藤吉が走りながら、問いかけてくる。

「キガミ様ってさ、人に見つかっちゃ、いけないんだよな?」
「って言ってたな」
「学校内で、人に見つからないところって、どこだろう」
「え!?」
「学校って、結構、人、多いよな」

二人とももう、しゃべるのも難しい。
後ろからはまだ足音が続いている。
でも、その言葉に、何かが引っ掛かった。
酸素の廻らない頭で、精一杯、その言葉の意味を考える。

『キガミ様』
『声に惑わされるな』
『誰にも見つからないように一週間』
『人為的な匂い』
『紙も見つかっちゃいけない』

そうだ、藤吉の言うとおりだ。
学校なんて、人に充ち溢れてる。
特別教室だって、なんかしらで絶対に人が入る。
そこにそんな紙を一週間も、貼ってられるか?

「あ」
「何?」

最初に四階の教室から出た。
西側から声がして、逃げた。
一階に行って、窓から出ようとして妨害された。
それから。
えっと、それから。
そう、正面玄関から出ようとして、前から来た。
それから三階に行こうとしたら、降りてきたから二階にとどまった。
音楽室を目指して、三階に上って、四階にも三階にも行けなくて。
二階に戻って、今だ。

えっと。
どこだ。
声は、どこへ追い込もうとしている。

いや、違う。
そうだ。

「資料室!」
「へ!?」
「第一、資料室だ!」

どこに、追い込もうとしている、じゃない。
どこから遠ざけようとしているのか。

一回降りてから、三階以上にいけていない。
声は俺たちを、三階には近づけない。

そうだ、三階の、西側だ。

誰も近づかない場所。
誰にも見られない、でも、生徒が自由に入れる。

違うかもしれない。
他にもあるかもしれない。
もしかしたら四階かもしれない。

でも、今はそこしか浮かばない。

「藤吉、三階に!」
「分かった!」

そして俺達は再度、三階に駆けだした。





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