甲高い、風に紛れるような、かすかな笛の音。 断続的に一定の間隔で聞こえてくる金属音。 一瞬で重力が増したかのように、圧迫感を感じて体が重くなる。 「………」 「来たね」 とても濃い邪の気配。 けれど今日は母さんの札を使って結界を作っているからまだ平気だ。 頭が痛くなったり、動くのに不自由になることはない。 「はあ、腐臭って結構染みつくから嫌なんだよね」 「………」 緊張した様子もなく、心底嫌そうに隣の四天がぼやく。 確かに、この匂いは鼻が曲がりそうだ。 でも俺には、そんなこと気にしている余裕もない。 「大丈夫ですか、三薙さん」 「あ、はい」 逆隣にいた熊沢さんが、緊張をほぐしてくれるように肩をぽんぽんと叩く。 それで肩に力が入って強張っていたのが分かった。 呼吸を一つ、二つ、深くして、なんとか体中の緊張を解こうとする。 その間にも音と匂いと濃い闇の気配は近づいてくる。 「んじゃ、行くよ」 「う、うん」 ひそめていた茂みから、天がまず先にアレが歩いている道へと飛び出す。 俺はワンテンポ遅れてその後を追い、熊沢さんがそれに続く。 街灯の光の下、天は鞘に入ったままの真剣をぶら下げていた。 その目は道の先を見据えている。 「俺と熊沢さんで動きは止めるから、兄さんは普通に祓えばいい」 「分かった。力の元を断てばいいんだよな」 「そう。力の中心をちゃんと見極めれば、最小限の力で出来る。それなら出来るでしょ?」 「………出来る」 「そ、じゃあ、頑張って」 全く感情のこもっていない声で投げやりに言われて、やっぱり腹が立つ。 でも、今はそういう場合じゃない。 天が視線を向けている方向に、俺も眼を向ける。 道の向こうの暗闇から、徐々に浮かび上がるその姿。 街灯は灯っているはずなのに、嫌に暗くて、結構近くにいるのに、中々明らかにならない。 「………」 鈷を握る手に、じわりと汗を掻く。 喉が渇いて、つばを飲み込む。 落ち着け落ち着け。 心をニュートラルに保て。 青い海、澄み渡る青い青い、晴れた空の下の、海。 「………」 ようやく、その姿がはっきりと見えるようになってくる。 ずるずると、すでに命のないそれは、どんな力なのか速度を一定にして歩く。 腐ってうじにたかられ、まるで白い模様のように見える。 喉には、太い鎖がかかり、その骨に近くなった細い首には、とても重そうに見えた。 見え隠れしている骨や、溶け落ちかけている眼、顔をそむけたくなる腐臭に、気分が悪くなってくる。 「………あ、喉、が」 この前は気付かなかったが、鎖の下の喉は、大きく切り裂かれていた。 ピーピーと、まるで笛のような音は、そこから聞こえてくる。 切り裂かれた喉から風が漏れる度、その笛のような音は響く。 噂になっていた、笛の音というのは、これのことだったのか。 被害者は全て喉を切り裂かれていた。 この人もすでに、物言えぬ状態に、されていたのか。 「………」 あの人は、もう話すことすら、できないのか。 娘さんや息子さんと、もっと話したかっただろうに。 この姿を見て、子供たちは、なんて思うのだろう。 空洞になって闇しかない眼からは、何も分からない。 「兄さん、止めたよ」 そんなことを考えていると、四天の声が響く。 いつのまにか、天と熊沢さんは被害者の女性を挟むようにして位置して、結界を張っている。 足止めさせるための、小さな結界。 ピタリと、彼女の動きが止まる。 それでもそのまま歩き続けようとして、足だけは動かそうとしているが、どうしても先に進めない。 「っ、分かった」 鈷に力を集める。 集中しろ。 青い青い海の色、それを集めて、闇を祓う武器とする。 手によく馴染んだ鈷に、小刀のように刃を纏わせる。 「宮守の血の役目に従い、摂理に沿わぬもの、摂理の輪に戻すべく………」 近づくにつれて、匂いはきつくなる。 近くで見れば見るほど、眼をそむけたくなるような状態だ。 よし、やるぞ。 これは祓うべき存在。 「闇より出でしもの、闇に返れ!」 呪を完成させて、鈷を振りかぶる。 天と熊沢さんが作った結界の中に入り込む。 力の源は、喉。 喉を狙って、腕を伸ばす。 「………っ」 それなのに、それを見つけてしまった。 すっかり細くなってしまったのに、なおしがみつくように左手の薬指にはまっている銀色の指輪。 彼女に、家族がいた証。 彼女には、ずっと一緒にいた夫と、かわいい子供たちが、いた。 「う、あ!」 一瞬躊躇してしまった。 結界の中に入り込んでいるので、彼女は自由に動ける。 そのうじの這う腐った手が、俺の向かって伸ばされている。 生理的な嫌悪感と恐怖で、全身が総毛立つ。 「だ、めだっ」 集中を解いてしまったせいで、鈷に纏わせた力が弱まっている。 でもとりあえず、この手を振り払わなければ。 その手は俺の喉を狙って、まっすぐに伸ばされる。 駄目だ、間に合わない。 「………っ」 ぎゅっと眼を瞑る。 ザクっと何かを割くような音が響く。 「あ………」 どさ。 地面に重いものが転がる音。 どこか遠いもののように感じる。 「まあ、こうなるかなって思ったけど、本当に期待を裏切らない人だね」 痛みはない。 触れられることもなかった。 「………て、ん」 恐る恐る眼を開くと、鞘から解き放たれた美しい刃が、俺のすぐ隣にあった。 その街灯の光を浴びて白銀に光る剣は、一瞬前まで彼女がいた場所を突き刺している。 「はあ、汚れちゃった。手入れしたくないな」 その言葉と共にすっと、剣がひかれる。 下に視線を落とすと、うじのたかる女性の腐った体が地面に横たわっている。 もうそれは、動く様子はない。 「大丈夫ですか、三薙さん」 小さく駆けて、熊沢さんが近づいてくる。 捨邪地の周りだから、まだ闇の気配は濃い。 でも先ほどのまでの圧迫感が、消えている。 「あ………」 後ろを振り向くと抜き身の剣をぶら下げた天が、眉をひそめて彼女を見ている。 「あーあ、うじ虫だらけ。気色悪」 「では、俺は石塚の家に連絡をいれますね」 「はい、お願いします」 携帯を取り出し、熊沢さんが少し離れる。 残されたのは天と俺と、先ほどまで動いていた彼女。 「………」 「………」 ああ、俺はまた、失敗したのか。 そして、天に、フォローされたのか。 「ご………」 口を開いた瞬間、天が疲れたように呆れかえったため息をつく。 そして馬鹿にしたように鼻で笑った。 「で、兄さん。出来るんじゃなかったの?」 「………だって」 「だって、ね。何?納得できる理由があるなら聞くよ」 この人の生きた姿を、想像してしまった。 そうしたら、この手を振りかぶるのを、一瞬躊躇ってしまった。 でも、そんなの、ただのいい訳だ。 理由にすら、なりはしない。 「………でも、この人」 「人?これのこと?」 「天!!」 天は手にもった剣で、横たわる被害者の、うじのついていない足の部分を突き刺した。 思わず非難の声を上げるが、天は楽しそうに鼻で笑っただけだった。 「これはただの化け物。死体ですらない。祓うべき存在。そう言ったよね?」 「でも、この人、家族だっていて、ちょっと前までは、生きてて………」 「うん、生きてたね。でも今は死んでる」 そのまま、突き刺した剣を横に祓う。 腐り脆くなっていた足は、簡単に引き裂かれた。 「天!」 「あーあ、汚れちゃった、失敗。ね、中身すら、もうない。完全に生前の意思はない。ただの化け物の器。分かってるよね?」 「………でも」 でも、と続けたものの、何を言ったらいいか分からない。 言葉を失って俯いた俺を、天の楽しそうな声が降ってくる。 「じゃあ、兄さんに分かりやすい言い方をしてあげる。それで、この人に同情して祓わないで、そのままゾンビとして徘徊させる?この人が次の犠牲者を作るかもしれないとしても?もっとグズグズに腐り堕ちるまで放置する?」 「………」 分かっている、天が言うことは正しい。 今の死者を弄ぶような行為が正しいとは決して思わないけれど。 でも、俺の躊躇は、何も生み出さない。 祓うのが一番正しいこと。 それが、死体すら弄ばれた彼女のためでもあった。 「ずっと家でも教えられてきたでしょ。化け物に気を許すな、私情を捨てろ、同情なんてするな、冷静であれ、宮守の人間としての職分を果たせ」 「………」 「またそうやって泣きそうな顔をする。俺がいじめてるみたいだからやめてよ」 泣きたい訳じゃない。 ただ、自分が情けないだけだ。 弟に対して、何も言い返せない自分が、弱すぎる自分が、情けなくて仕方ない。 「兄さんは仕事を知るために一緒に来てるんでしょ?」 「………う、ん」 「これが、俺らの仕事だよ。分かった?」 俯いていた視線を上げると、天は楽しそうに笑っていた。 ああ、こういう時、どうしてもこいつが怖いと思う。 冷静で、情をはさまず、仕事を完璧にやり遂げる。 完璧な宮守の人間。 けれど、こんな風に笑うこいつと、やっぱり分かりあえないと思う。 憧れるより嫉妬するより、怖いと、そう思ってしまう。 「で、そこでいつまで覗いてるんですか」 「え」 何一つ言えないまま黙っていると、天は笑顔を消してつまらなそうにそんなことを言った。 一瞬何を言っているのか分からず、呆けた声を上げてしまう。 「来るな、と申し上げませんでしたか?」 振り返って誰もいない空間に、問いかける。 こいつは何を言っているんだろうと思って俺も振り返る。 やっぱりそこには誰もいない。 「天?」 「引きずりだされたいですか?」 再度低い声で促す。 なんのことだと思って首を傾げると、俺たちがいた茂みの後方の方がガサリと音を立てて揺れた。 しばらくして、アスファルトに影が映る。 「………すいません、気になってしまって」 「祐樹さん!?」 そして影の後に続いて現れたのは、優しげな男性。 今は少し決まり悪そうに困ったような顔をしている。 天が小さくため息をつきながら肩をすくめる。 「俺たちが信用できませんでしたか?」 「そんなことはありません!ただ、心配で」 「あなたが来ても出来ることなどないでしょう」 「それは、その通りです………。大変失礼いたしました。申し訳ございません」 眉をひそめて苦しげな表情で、頭を深々と下げる。 天も、そこまでいうことないのに。 抗議しようか思った瞬間、祐樹さんは俺たちの後ろにある被害者の体を見た。 「それで、これで、終わりなのでしょうか」 |