まだ園児がやってくる前の幼稚園に到着すると、職員室はなんだかざわついた雰囲気だった。 俺が入ると、中にいた人達が一斉にこちらを見る。 皆の表情は様々だった。 怒っている人、不安そうな表情を浮かべる人、泣きそうな顔をしている人。 一斉に視線を向けられて、少しだけ怯む。 「………どうしたんですか?」 恐る恐る聞くと、先生達が困ったように顔を見合わせる。 誰が口を開くか、そんなことを迷っているようだった。 目で会話する先生たちを押しのけて、出てきたのは島田先生だった。 「どういうことなんですか!」 目を真っ赤にして憔悴した顔をして、俺に詰め寄ってくる。 目じりと頬が濡れている。 泣いた、のだろうか。 まるで癇癪を起こす子供のように引き攣れた声で、叫ぶ。 「どうなってるんですか!こんな、こんな、こんなっ!あなた達どうにかしてくれるんじゃなかったんですか!」 「え、えっと、落ちついてください。どうしたんですか、島田先生」 「これが落ちついていられる訳ないじゃないですか!あなたたち、やっぱりインチキなんでしょう!」 女性に泣かれたり怒鳴られたりするのは、苦手だ。 どうしたらいいか分からなくなって、思わずこっちも泣きそうになってしまう。 「島田先生、落ちついてください」 「もう、いい加減にして!」 「…………っ」 駄目だ。 ぎゅっと拳を握って、小さく深呼吸する。 パニックになったら駄目だ。 依頼人の感情に引きずられちゃ駄目だ。 落ちつけ落ち着け落ち着け。 俺はすぐに感情に流される。 「落ち着いてください」 自分にも言い聞かせるように、ゆっくりと話す。 長兄と弟はどう言っていた。 何をしていた。 はったりを効かせろ、自信がなくてもそれを見せるな、俺が自信なさげにしていたら依頼人が不安になる。 落ち着いて、ゆっくりと、笑顔を浮かべて、いっそ偉そうに見えるぐらいに堂々と。 「落ちついてください、島田先生。大丈夫です。落ちついて。何があったんですか」 「………っ」 そっと近づいて肩に手を添えると、島田先生はびくっと震えた。 けれど振り払われはしない。 そのことに内心ほっとしながら、俺はなんとか上ずりそうになる声を押さえて落ち着いて話す。 緊張して、背中に汗を掻いてきた。 「確かに、俺は頼りないかもしれませんが、絶対に解決します。遅くなっていてすいません。でも、必ず役目は果たします。俺はそのために来たんですから」 自分でもよく言うよとつっこみながら、それでも天を思いだして偉そうに言い放つ。 これくらいの方がきっと、信頼も得られる。 頭が真っ白になっているけれど、俺はちゃんと話せているだろうか。 「子供達も先生が動揺してると、動揺します。だから、落ちついてください」 「………」 なんとか強張る顔を動かして、笑って見せる。 すると、島田先生の体から、少しづつ力が抜けていく。 堅くなっていた肩から、すっと力が抜ける。 「………」 「大丈夫ですか?」 ゆっくりと問いかけると、島田先生は小さく頷いた。 そして大きくため息をついて、目じりに浮かんでいた涙を拭う。 それから聞けてしまいそうな小さな声で言った。 「………ごめん、なさい」 よかった、どうやら落ち着いてくれたようだ。 俺は大きく息を吐いて座り込みたくなったが、そっと肩から手を離した。 「いえ、いいんです。解決が遅くなってすいません。何があったんですか?」 「………その」 「はい」 そこでようやく職員室の人達が皆俺達を見ているのに気付いた。 じっと見ている視線を感じて、一気に顔が熱くなる。 そして憔悴している島田先生も、顔色を青くしていた。 ああ、やっぱり俺は気遣いがまだまだ全然足りない。 「あ、あ、ごめんなさい!とりあえず座ってください!あ、えっと、ここじゃアレですよね。えっと、どこがいいんでしょう。どっか落ちついて話せるところに、えっと、落ちつけるところってどこにありますか」 慌てて椅子を探したり、それよりもどこか落ち着く場所に行った方がいいのかと考えたり。 取り繕えたのもそこまでで、あたふたと取り乱してしまう。 「ふふっ」 きょろきょろとあたりを見渡していると、小さな笑い声が聞こえた。 笑い声は、すぐ俺の目の前から聞こえてくる。 「あ、し、島田先生?」 「ごめんなさい。なんか、ほっとしちゃいました」 「あ、え、え?」 「すいません、本当に取り乱しちゃって。恥ずかしいわ」 「い、いえ」 顔を赤らめて笑う島田先生は年上の女の人なのに、なんだか頼りなくて可愛くて、少しドキドキした。 いつもはしっかりしていて怖そうな先生だから、余計にそんな姿にギャップがある。 「ちょっと、こっちいいですか」 「あ、はい」 島田先生は他の先生方に断って、俺の腕を軽く引く。 連れてこられたのは職員室の横にあるロッカールームだった。 女性用だったから入るのを躊躇ったが、島田先生はぐいぐいと俺の腕を引っ張る。 集団登園中の園児が、もう少しで来てしまうらしい。 ロッカールームは両脇にロッカーが立ち並ぶ細長い部屋で、真ん中のスペースは人がギリギリ二人立てるか立てないかぐらいの広さしかない。 ふわりと香る甘い匂いと、なぜか少し異臭がした。 「何があったんですか」 「これ、見てください」 「ロッカー?」 「はい、私のロッカーです」 さっきまで怖がって震えていた先生は、もういつものしっかりとした口調を取り戻している。 はきはきとした、人に気合いをいれるようないかにも先生といった話し方。 落ち着いてくれたことに、ほっとする。 促されロッカーを見ると、先生が勢いよく扉を開けた。 つん、と生臭い異臭が酷くなる。 「な………」 けれどその臭い以上に、中の有様に、目を疑う。 傘が折られ、お菓子と思しきものが散乱し、服が切り裂かれ、生ゴミらしいものが全体的にぶちまけられている。 匂いの元は、この生ゴミか。 「ひ、どい………」 付きつけられた悪意の塊に、軽く吐き気がする。 これじゃ、島田先生が取り乱すのも当然だ。 今はもう立ち直った先生は、きゅっと唇を噛みしめて、感情を堪えているようだった。 「島田先生の、ロッカー、だけですか?」 「………はい」 「………」 「私、なんかしたんでしょうか。呪われてるのって、私なんでしょうか。なんか、他の先生も私が呪われてるんじゃないかって………」 二日連続、島田先生を襲った異変。 俺は軽く目を閉じて、辺りの気配に気を配る。 特に島田先生のロッカーに対して、何かの力の残滓がないかを探る。 「………三薙さん?」 「そんなことありません」 目を開けて、しっかりと告げる。 島田先生に向き合い、視線を合わせる。 なるべく頼もしく聞こえるように、落ち着いた声で告げる。 「え?」 「あなたがターゲットだったとしたら、さすがに俺達も分かります。そんな分かりやすい気配はない。あなたが原因って訳じゃありません」 多分、と付け加えたかったがやめておいた。 はったりでもいいから、今は島田先生を落ち着かせることが大事だ。 多分、島田先生が原因じゃない。 多分。 ここには、何も変な気配は感じない。 まあ、園児達にもあまり変な気配は感じなかったんだけど、それはそれで置いておく。 あの時は少しは変な気配した気がするし。 「俺はまだ頼りないですけど、一矢は頼れる人間です。安心してください。絶対解決しますから」 「そんなこと、ないですよ。三薙さんも、さっきなんてとても頼もしかったです」 「あ、ありがとうございます」 まっすぐに褒められて、つい顔が赤くなる。 ここでさらっと、ありがとうございますって一兄とか四天みたいに言えるといいんだけどな。 でもやっぱり、褒められるのってなれない。 島田先生が優しく目を細めて笑う。 「ふふ、三薙さんって、不思議ですね。頼もしかったりかわいかったり」 「………かわいい」 あまり嬉しくない形容詞だ。 双姉とか佐藤とか槇とかも言うよな。 なんでだろ。 やっぱり背が低いからいけないのかな。 ていっても、平均的だし、少なくとも女性陣より高いんだけど。 「あ、ごめんなさい」 「いえ、いいんです」 ここで慌てると余計にからかわれて喜ばれるっていうのは、学んだ。 さらっと気にしてないように流すのが正解だ。 いや、気にしてない。 気にしてないし。 話を逸らすためにも、島田先生に笑いかける。 「もう、落ち着きましたか?大丈夫ですか?」 「………はい。私、大丈夫なんですよね?」 「はい、大丈夫です。ここ片づけちゃいましょう」 箒とかどこですか、と聞くと、島田先生はようやく明るい笑顔を見せてくれた。 今日は学校を休んで、一日幼稚園を見回ることになった。 島田先生のこともあるし、子供達と話したり、先生たちと話したり、幼稚園の様子を見たり。 なんか違和感を感じるんだけど、なかなかそれを形にすることが出来ない。 早く一兄来ないかな。 相談したら、このもやもやした感じが、形になる気がするんだけど。 「お兄ちゃん!」 ぶらぶらと校庭に面した廊下を歩いていると、子供特有の高い声が響いた。 そちらを見ると、三人の少年が手をふってこちらに駆けてきてくれている。 俺もそちらに向き直して、手をふる。 「一君、健吾君、優君。何?」 廊下の手前で立ち止り、子供達が顔を見合わせる。 そして一君が代表したのか、小さな声で聞こえてきた。 腰をかがめて、一君の顔に耳を近づける。 「あのさ、あのさ、ギイギイ、どうにか、なりそう?」 俺も小さな声で、そっと囁く。 「まだ、ちょっと分からないことが多いかな」 「そっか」 正直に答えると、一君はがっかりしたようなほっとしたような不思議な表情を見せた。 そして三人とも、顔を見合わせる。 三人は、恐怖だけではない顔をしていた。 好奇心と、それと、なんだろう。 「あのさ、ギイギイ、怖くないの?」 怪我をさせるなんて凶悪なものなくせして、子供達はそれほど怖がっているようには見えない。 怯えてはいるけれど、それでもどこか余裕を感じる。 「怖いよ」 「怖い」 「怖いけど、でも、いい奴なんだって」 怖いと口をそろえて言う男の子たち。 ただ、意外なことを答えてくれたのは、健吾君だった。 「え?」 思わず聞き返すと、健吾君は悪戯っぽく笑った。 そして内緒話をするように手をメガホンのようにして話しかけてくれる。 「あのね、けんけんぱ、あるでしょ」 「うん」 「あれね、教えてくれたのギイギイなんだよ」 「え」 腰をかがめているのが痛くなったので、俺はしゃがみこむ。 それにしても、ギイギイは、いい奴? 怖い妖怪だか妖精だかみたいなものじゃないのか。 ていうか姿も知らないのに、どうやって遊びを教わってるんだ。 「ギイギイって、いい奴なの?」 「なんかね、遊びとか教えてくれたりするの」 「悪いことする子にはひどいことするけど、いい子には、いい奴なんだって」 「ギイギイ、優しいんだって。怖いけど」 三人は我先に口々に答えてくれる。 俺は軽く混乱して、ただ、曖昧に頷いた。 「そ、っか」 ギイギイは怖い奴。 でも、ギイギイはいい奴。 いい子にはいい奴で、悪い子にはひどいことをする。 なんか本当に海外の妖精みたいになってきたな。 「ねえ、ギイギイがこの幼稚園に来たのっていつか分かる?」 子供達は何を言われたのか分からないと言うように首を傾げる。 ちょっと質問が曖昧すぎただろうか。 えっと、最初の異変が起きたのは、夏休みが終わってからしばらくして、だったっけ。 「ギイギイ、夏休みには、いた?」 「いたよ」 「ええ、いなかったよ」 「いたよ」 「僕、知らない」 いなかったのかいなかったよ、どっちだ。 その後も根気よく聞いてみると、いまいち要領を得なかった。 子供の記憶力っていうのは、どこまで有効なんだろう。 小さい子って、あんまり接することがないから分からない。 「そっか。ありがとう」 とりあえずお礼を言うと、三人は不思議そうに首を傾げた。 そして、一君がまた内緒話するように俺の耳に口を近づける。 「ねえ、お兄ちゃん、ギイギイのこと、誰にも話してないよね?」 躊躇ったのは一瞬。 俺は笑って嘘をつく。 「うん、話してないよ」 ああ、なんだか胸が痛い。 仕方ないことなんだけど、嘘をつくっていうのはやっぱり罪悪感が刺激される。 「嘘つき」 「え」 その低くしゃがれた声に、咄嗟に一君から身を引く。 さっきまではにかんでいた一君は、その表情を今全て失くしていた。 大きな人形のように感情のない目で、俺をじっと見つめている。 「嘘つき」 「嘘つき」 気がつくと健吾君も優君も同じ表情で、俺を見ていた。 じっと、瞬き一つせずに、俺を見ている。 また、だ。 「嘘つき」 「嘘つき」 「嘘つき」 さっきまでいつも通りだった子供達が、得体のしれないものになってしまった恐怖。 しかし、三度目ともなると、少しだけ落ち着いている。 今も驚きと、訳の分からない恐怖を感じてるが、気配を探る余裕が、ある。 変な気配を、少しだけ、感じる。 「嘘つきは、悪い子だ」 「嘘つきは、ギイギイに怒られる」 「嘘つきは、怪我をするんだよ」 子供達は何かに言わされてるように、感情を込めない声で話す。 俺をじっと見たまま。 「お兄ちゃんは、嘘つき」 最後に一君がそう言うと、三人はくるりと背を向けて走り出した。 慌ててその背中を追って、俺も駆けだす。 「あ、ちょっと、待って!」 廊下から飛び降りて、園庭に駆けだす小さな背中を追いかける。 そこで、何かにつまづいて、バランスを崩す。 履いていたのがスリッパだったということもあって、支えきれずにそのまま地面に倒れ込む。 「う、わっ!」 不様に、膝と手の平を強かに打ったせいで骨に響き、痛みに顔を顰める。 すると俺の一歩前にいた子供達が、くるりと同時に同じ動きで振り返る。 そして、無表情のままに笑う。 「あははは」 「きゃははは」 「バチがあったんだよ。嘘つきは、いけないんだよ」 「あははあは。いけないんだよ」 その壊れたおもちゃのような笑い声は、いつもの子供達のものと違って、酷く不快だった。 まるで黒板に爪を立ててしまった時のような不快感。 俺は倒れ込んだまま、その姿をじっと見つめる。 『嘘つき』 最後に三人は言い捨てて、また駆けていく。 今度は追いかけることが出来なかった。 体を起こして、地面に尻をついて座る。 手の平と膝は、擦りむいて血が滲み出ていた。 血を見ると、なぜか急に痛みが増した気がして、じくじくと疼く。 「………これが、罰?」 砂まみれの膝を見ながら、俺は一人つぶやいた。 |