「いってて」 消毒液をたっぷりつけられて、思わず俺は痛みに呻く。 動きやすいように膝丈のパンツだったのが災いして、膝は血にまみれていた。 綺麗に洗い流したが、いまだに止まる様子はない。 「あらあら、元気ですね」 園長先生がなんだか楽しそうに笑って、ちょっと傷口に触れる手を弱くしてくれた。 怪我をしてうろうろしていたら園長先生に見つかって、手当てをしてもらうことになってしまった。 なんだか他の先生方にやられるより、園長先生の方が恐縮してしまう。 「すいません、手当てなんてしてもらって」 「いいんですよ。子供たちによく付き合ってくれていると聞いています。ありがとうございます。拝み屋さんっていうからどんな怖い人が来るかと思えば、優しい人でよかったわ。子供達も楽しそう」 にこにこと笑って園長先生は手際良く消毒を終えると、薬を付けてくれた。 その手つきは長年子供達を相手にしてきた人なんだな、と分かる。 どうやら子供と付き合っていて怪我したと思われているようだ。 しかし、褒めてくれるのは嬉しいが、それだとなんだか俺は遊びに来ているような感じだ。 「で、でも、仕事はちゃんとやってますよ」 「分かってますよ」 焦って言い訳するように言うと、園長先生は優しくにこにこと笑った。 顔に刻まれた皺とひっつめのお団子は怖そうだけど、やっぱりそんな風に笑うと優しく見える。 「島田先生からも、頼りになる人だと聞いてます」 島田先生は、園長先生にそんな風に言ってくれたのか。 認めてもらったのが嬉しくて、急に鼓動が速くなる。 落ち着け、こんなことで舞い上がるな。 認めてくれているのなら、期待を裏切らないようにしっかり働かなきゃ。 「あの、島田先生のことなのですが」 切り出すと、にこにことしていた園長先生は顔を曇らせる。 そして俺の足にガーゼをあてテープでとめながら、ふっとため息をついた。 「はい、彼女の机やロッカーが被害があったとか………」 「はい」 「………彼女が何かに取り憑かれるとか、そういうことなんでしょうか」 「それはまだ分かりませんが、その可能性は低いと思います」 俺は首を横に振る。 断言はできない。 けれど、先生に何かしらの原因があるっていうのは、違う気がした。 先生からは何も変な気配はしない。 園長先生は、少しだけ表情を和らげる。 「それならいいのですが」 「でも、島田先生は、誰かに恨まれたりとか、そう言ったことがあったりするのですか?」 園長先生は俺の足の手当てを終え、救急箱を仕舞いながら考える。 そして言葉を選ぶように、ゆっくりと答えてくれる。 「………プライベートのことは分かりませんが、とてもいい先生なんですよ。ちょっと厳しいけど、子供達のこともよく見てくれて、先生たちのまとめ役もしてくれて、問題も起こしたことないし」 当たり障りのない、人物評。 けれど、園長先生として言えるのはそんなものなのだろう。 問題があったら言ってくれるだろうし。 だから俺も頷いた。 「そうですか。確かにちょっときついけど、優しい人ですもんね」 「ええ。よく分かってますね」 園長先生も同じように頷いて、笑った。 「あ、三薙君、これ食べない?」 職員室に入ると、由比先生がひらひらと手招きをした。 先生の机には他にも田中先生と静波先生が集まっていた。 何かと思って近づくと、先生の机にはクッキーが置いてある。 「甘いもの好き?」 「大好きです」 じゃあどうぞと言われて、クッキーを差し出された。 俺はありがたく一枚つまむ。 市販のチョコチップクッキーは甘くてさくさくとしていて、疲れていた体にエネルギーを与えてくれる気がする。 今日は一日歩きまわって子供達と遊びまわって結構疲れてしまった。 この後徹夜で幼稚園泊まり込みだと思うと、少しうんざりとした。 なんて思ってたら駄目だ。 これは仕事これは仕事。 「こうやってよくお菓子とか食べるんですか」 三人の先生は休憩中なのか他愛のない話をしながらお菓子をつまんでいる。 先生って園児が帰った後も結構仕事があるのだと、今回の仕事で知った。 俺達は適当なところで切り上げるが、先生たちは毎日結構遅くまで残っていた。 田中先生がチョコレートを食べながら笑う。 「幼稚園教諭って結構重労働なのよ。カロリーとらなきゃやってられない」 「確かに。子供達についていくのに精いっぱいです」 「それに残業も多いしね。朝6時出勤で夜9時帰りなんてざらなんだから」 「うわ………、結構ハードですね」 朝6時出勤って、何時起きなんだろう。 幼稚園の先生ってほんわかしたイメージがあるが、結構ハードワークなんだな。 静波先生もくすくすと笑う。 「まだうちは良心的な方だけどね。大規模な私立とかほんと大変そう」 まあ、うちも大変なんだけどねと言うと、他の二人も大きく頷いた。 それからちょっと辺りを見回して、俺に顔を近づけて声を潜める。 「そういえば、島田さんの、あれって、やっぱり呪いかなんか?」 「………それは、まだ、分からないのですが」 「まだ分からないの?」 「いや、ちょっと、すいません」 「あの人、きっついからなあ。誰かに恨まれてるんじゃないのかなあ」 俺がなんとも答えられずに曖昧に笑うと、田中先生も声を潜める。 「島田先生だけだもんね、狙われたの」 「すっかり落ち込んじゃってるよね。大丈夫かな」 三人で大丈夫かしらと言い合っていると、由比先生がちらりと笑ってこちらを見る。 「でも、三薙君と話したら復活してたみたいだけどね」 「あ、ね。本当」 「すごいよね、三薙君、その年でしっかりしてるよねえ」 「そ、そんな」 なんだか今日はストレートに褒められてばっかりだ。 女性に褒められるなんて、そうはない。 ていうか人に褒められることが少ないから、嬉しい。 でも恥ずかしくて頭を掻いていると、女性陣はさざ波のように笑う。 「本当にしっかりしてるよ」 「そ、そんなことは」 「あ、ねえねえ、一矢さんとは兄弟なんだよね」 「え、は、はい」 「一矢さんって、彼女いるの?」 「………」 こそばゆくほこほことしていた気持ちが一気に冷める。 まあ、そうだよな。 うん、そうだよな。 分かってる。 分かってた。 「霊能者が本業なの?」 「えっと」 「でも、結構いいスーツ着てたよね」 「あの」 霊能者だといいスーツを着てたらいけないのか。 ていうか本業を聞いてどうするつもりだ。 なんて目を爛々と輝かせる女性達に向かって言えるはずがない。 ハンターだ、ハンターの目をしてる。 正直怖い。 「ねえ、三薙君」 「あ、俺見回り行くんで!クッキーご馳走様でした!」 俺はハンターと化した女性たちから逃げるべく、背を向けて駆けだした。 「くしゅっ」 毛布をかぶっていても入り込む寒気に、自然とくしゃみが出た。 初秋の夜は、室内とはいえ、やっぱり冷える。 「大丈夫か?」 隣にいて同じように毛布をかぶっていた一兄が気遣わしげに聞いてくる。 一兄は夜になってから合流して、今日は夜通しパトロールだ。 俺は鼻を啜りながら、誤魔化すように笑う。 「うん。やっぱちょっと寒いね」 「ほら、こっち来い」 腕を引っ張られて引き寄せられて、俺は毛布ごと一兄の毛布にくるまれてしまう。 二枚になった毛布と一兄の体温で、じんわりと肩が温かくなる。 「でも、一兄寒くない?これだと」 「お前の体温が子供みたいに高いから暑いくらいだな」 「子供じゃない!」 思わずムキになって言い返してしまうと、一兄は楽しそうにくすくすと笑った。 すぐ近くにいるから、その振動はダイレクトに伝わる。 ああ、こうやって言い返すから楽しまれてしまうのに。 「………」 「悪かった。怒るな」 一兄が宥めるように肩をぽんぽんと叩く。 別に本気で怒っている訳じゃない。 双兄や四天にからかわれたら本気でムカつくが、一兄にからかわれても本気で怒りきれない。 なんでなんだろ。 それでも俺は、一兄に本気で怒ることなんてできないんだ。 「そういえば島田さんがお前に感謝してたぞ。若いのにしっかりしてると感心してた」 「………」 「よくやったな。管理者同士の仕事ならともかく、一般の人間が相手なら依頼人に不安を与えるのはよくない。不安は場を乱れさせ、余計な闇を引き寄せる」 「………俺、何も、出来てないけど」 「とりあえず島田さんの不安を和らげた。何か出来ているだろう」 本当に何も出来てないから、褒められても複雑な気分だ。 自分の力不足は痛感している。 でも、一兄は無意味に褒めることはしない。 だから、本当にそれは心から言ってくれているのだろう。 そう思うと、やっぱり、嬉しい。 「何もできない訳じゃない。現に学校の時だってお前一人でなんとか頑張れただろう」 「でも、結局は一兄や天に、助けてもらった」 「まあ、それはそうだけどな。それでも皆を守りながらあそこまで持ちこたえられたのは、お前だ」 でも、守れたのは藤吉や岡野や槇だけ。 他のクラスメイトは結局、キガミ様に襲われていた。 藤吉たちを守れたのは、嬉しかったけれど、それでもまだまだ全然俺は弱すぎる。 一兄が俺の頭を引き寄せて自分の肩に押し付ける。 その大きくて頼もしい手は、いつだって俺を安心させてくれる。 「力が足りないのは、お前のせいじゃない。確かにお前の出来ることは俺や四天と比べて少ない。けれど、出来ることだってちゃんとあるんだ。怯まず諦めず、今までの通り鍛錬を詰めばいい。焦らなくていい。自分の出来ることをやればいい」 でも、それでもやっぱり不安で、出来そこないの自分が情けなくて悔しい。 だから俺はいつか弟にもした質問を兄に繰り返す。 「………俺、ちゃんと、強くなれるの、かな」 「少しづつでも、お前は成長しているだろう。それとも全く何も成長していないのか?」 「してると、思うんだけど」 「謙虚なのはいい事だが、自分を過小評価しすぎることとは別だ。いつもそう言っているはずだな」 熊沢さんも、双姉も言っていた。 自信がなさすぎるのも、問題だと。 でも、保証が欲しい。 俺がやっていることは間違ってないんだって、誰かに言ってほしい。 俺はこのまま頑張ればいいんだって、自信が欲しい。 俯く俺に、一兄がため息交じりに笑ったのが分かった。 「まあ、自信をなくすのも無理はないがな。四天との仕事は、最初から少し難易度が高すぎた。管理者としての経験を積むためにはあいつの仕事はうってつけなんだがな」 四天との仕事では、俺は足を引っ張ってばっかりで、自分の不甲斐なさを思い知らされるだけ。 自分が悪いってことは分かっているのだが、それでも天じゃなければと思ってしまう。 そうすれば俺だってもう少しは、何か出来たんじゃないだろうか。 「なんで、天と一緒なの?一兄がよかった」 「先宮の思し召しだ。お前とあいつの力の相性はいいからな」 「………」 「そんな不貞腐れるな。学ぶところも多かっただろう?あいつは双馬なんかよりはよっぽど管理者として相応しい」 「そりゃ、そうだけどさ………」 冷酷なほどに冷静。 一族の中でも稀有なほどの強い力で、一瞬もブレない判断力で、常に最善を求め、成し遂げる。 あいつほど管理者として向いている奴はいない。 それはよく分かっているんだけれど。 「まあ、あいつの性格も考慮に入れるべきだった。悪かったな」 「そうだよ。天、俺のこと邪魔だって、言ってばっかりだし」 それでも、邪魔だ役立たずだと邪険にされ続けるのは、堪える。 俺だってもっと説明してもらって、指示をしてもらえれば、出来ることだってある。 あんな風に放り出されたら、経験も力も足りない俺は、どうしたらいいのか分からない。 「そりゃ、俺は、甘えてるし、教えてもらうって気持ちで仕事に行くのもいけないんだろうけどさ、でも………」 なんてことが、言い訳だってことは、分かっている。 分かっているけれど、一兄の優しさに愚痴は止まらない。 一兄が、肩をポンポンと叩いて、苦笑した。 「確かに人に教えるのは向いてないかもしれないな。あいつは、強い力を持ちすぎているし、それにまだ、若いからな」 「若い?」 「ああ、あいつはあれでもまだ中学生だ。課せられたものが大きいから大人びているが、まだ未熟なところもあるし、脆いところもある」 そんなことを、この前誰かが言っていた。 ああ、そうだ、双姉だ。 俺から見る天は年下とはとても思えない強く冷静な人間。 けれど、一兄や双姉から見たら、違うのだろうか。 「そう、なの?」 「まあ、俺がそう思ってるだけかもしれないけどな」 四天は強い。 四天は怖い。 いつだって冷静で間違いがなくて自信に満ちていて皮肉げに笑っている。 俺を馬鹿にして、その強大な力を振い、その結果どんな犠牲を払おうが気にすることはない。 管理者として理想的な姿。 でも、あの傷だらけの体。 体に刻み込まれた、大小さまざまな傷。 今までどれだけ痛みを感じてきたのだろう。 どれだけ傷ついてきたのだろう。 俺には天の弱さは見えないけれど、一兄や双姉には見えているのだろうか。 あんな風になるまでにはどんな経験をしてきたのだろう。 「………うん」 そうだ、あいつは血の通わない人間なんかじゃない。 俺より二つも年下だ。 俺の、弟だ。 「そう、だよな。あいつ、俺の弟、なんだもんな」 「ああ」 「俺が、受け止めるぐらいに強くならなきゃ、駄目だよな」 あいつを恨み憎む前に、俺は自分が強くならなければいけない。 天に望むばかりではなく、俺が天に与えられるぐらいに強くならなければいけない。 そうすればあいつも俺を兄として認めてくれるだろうか。 一兄にような頼れる兄になるのは無理だろうけど、少しでは認めてくれないだろうか。 「いい子だ」 頭を優しく撫でられて、照れくさくなる。 だから俺は慌てて冗談ぽく、しんみりとした空気を振り払う。 「でもあいつ、小さい頃から生意気だったから、なんか中学生って言われてもやっぱり変な感じ」 「昔は、仲良かったのにな」 「あいつがクソ生意気だからいけないんだよ!」 いつからかあんな鼻もちならない奴になってしまって、一緒にいることは極端に少なくなった。 話すことすら減った。 昔は、一緒によく遊んだ。 俺は友達がいなかったから、天が遊んでくれるのが、本当に嬉しかったんだ。 いつからこんな風になってしまったんだっけ。 「それに比べてここの子たち、本当にかわいい」 「ああ、そうだな」 教室内を見回すと、そこには何かの授業で書いたのか将来の夢と書かれた絵が貼ってあった。 ケーキ屋さん、パイロット、花屋さん、野球選手、医者、看護婦。 弁護士や会社員、公務員なんてのもある。 今時の子供は随分とシビアだ。 けれど、子供らしい自由な色と線で描かれた絵は、見ているだけでほんわかとした気持ちになれる。 「………夢、か」 将来の夢。 俺は幼稚園の頃、どんな夢を見ていただろうか。 将来なんて、考えたこともなかった気がする。 友達が欲しい、なんてことだったかも。 「一兄は………」 「ん?」 「ううん、なんでもない」 一兄は小さい頃どんな夢を見てた、と聞こうとしてやめた。 一兄は、決められた道を覚悟を決めて歩んでいる。 天に課せられたものが重いと一兄は言っていたが、それは一兄も同じだ。 他に例え夢があっとして、それを叶えることは不可能ではないかもしれない。 けれど、多くのものを犠牲にする選択となるだろう。 そして一兄は、それを選ばなかった。 「そういえばさ、今日話を聞いて回って」 俺は話を変えるために、今日あった出来事を報告する。 そしてそこで感じた違和感を話し始めた時だった。 ドンドン! 急に、教室のドアが乱暴にノックされる。 ドアにはすりガラスがついていて、外に誰かが、たとえば先生がいたとしたらすぐに分かるだろう。 「………っ」 それを瞬時に理解して、あげそうになる悲鳴をなんとか堪える。 一兄はすでに毛布を放り出して立ち上がっていた。 「行くぞ」 「は、はい!」 俺も慌てて立ち上がって、一兄の後に続く。 その間にも、ノックは続いていた。 ドンドン! ドンドン! 一兄がドアに手をかけ、冷静なまま静かに開ける。 「………」 半ば予想した通り、そこには誰もいない。 ノックの音は、嘘だったかのように、幼稚園内は静まり返っている。 ドンドン! すると今度は隣の教室の中からノックが聞こえた。 まるでその教室に逃げ込んで、中からまたノックを続けているように。 こんなに素早く逃げられるはずもなく、隣の教室のドアが開閉する音もしなかったから、誰かがいるってことは間違いなくないのだが。 一瞬顔を見合わせて、俺達は隣の教室に急ぐ。 今度は俺がドアを思い切り開くと、やはりそこには誰もいない。 ドンドン! すると今度は俺達が待機していた教室の反対隣りの教室の中から聞こえてきた。 まるでそれは俺達をからかっているかのようだ。 「こ、のっ」 恐怖よりも怒りが上回って、俺はそちらに駆けだす。 小さな幼稚園は、二つ分の教室の距離もあっという間だ。 「三薙!足元!」 「え!?」 一兄の声に、足元を見た時にはもう遅かった。 そこには暗い中でも非常灯の明りに反射してキラキラと光る何か小さなものが転がっていた。 「うわあ!」 それに気づいた時には、俺はそれに足を取られていた。 思いっきり滑って体が後ろに傾く。 慌てて受け身を取って痛みに備えようとするが、尻餅をつく前に背中を支えられた。 「あ」 大きな手が、俺の体を支えていくれる。 「落ち着いて行動しろ」 「ご、ごめんなさい」 一兄の怒りを込めた厳しい声。 咄嗟に謝って、俺は足元にもう一度目を向ける。 キラキラとした小さなものは、丸いガラス玉だった。 「………ビー玉?」 「みたいだな」 俺の体を起こした一兄が身をかがめて、一つビー玉を取りあげる。 明りにかざしてみると、赤い模様が入ったそれはきらりと光る。 「………やっぱり、違う」 そして俺は感じた違和感を、より強めた。 |