「………っ」 ズキズキと、腹の中が溶かされているような痛みが絶え間なく続く。 脂汗で髪が張り付いて気持ち悪い。 吐き気がする。 寒いぐらいの気候なのに、全身がぐっしょりと濡れている。 「無茶をする」 「え」 不意に浮遊感を感じたと思うと、一兄が俺を持ち上げていた。 そのまま危なげなく俺を運んで、園庭の片隅のベンチまで行き腰かける。 「いちに、い?」 一兄は俺を抱えたまま、支えるように背中に手を添えた。 その大きな手に一兄の力を感じて、咄嗟に離れようとする。 「いちにい、ま、って、浄化は………」 身を食い荒らす力をなんとか宥めて、俺の力に重ねようとする。 浄化の力で、消し去りたくはなかった。 この力を飲みこみたかった。 だから、一兄の力から逃れようとする。 けれど、立っていることすら難しい痛みに、その手が振り払えない。 「分かってる」 少し笑った一兄は、俺の抵抗を制して、手を俺の唇にそっと添える。 だらしなく開いていた口から、少し埃っぽい指が入ってくる。 軽く舌に触れた指は、かすかに鉄の味がした。 「ん」 一兄が軽く呪を唱えると、指先の血を伝って、力が入り込んでくる。 一兄の青が、俺の薄い青と混じり合い、黒い力を飲み込んでいく。 力を与えられる快感が脳を犯していく。 体の中を苛んでいた痛みが、徐々に薄れていく。 「んっ、うぅ」 一兄の指にしゃぶりつきながら、その血と力を貪る。 血の混じった唾液を飲み込むたびに痛みが薄れ、力が与えられる気持ちよさに、変わっていく。 ギイギイの力も、俺の体に馴染んで、一つとなっていく。 「んっ」 しばらくして、すっかり黒い力が静まってから、一兄が俺の口から指を引き抜く。 濡れた唇を指の腹で拭ってくれてから、俺の顔を覗き込む。 「大丈夫か?」 「う、ん………、なん、とか」 痛みの余韻は残っていはいるものの、供給の後の心地よさが勝っている。 このまま、気を抜いたら眠ってしまいそうだ。 一兄の腕は、小さな頃からずっとずっと、どこよりも落ち着く場所だ。 でも、眠ってしまう前に、言わなきゃいけないことがある。 「………ごめん、一兄。勝手なこと、して」 滲む視界で見上げると、一兄は先ほどとは違って優しい顔で笑っていた。 園舎の非常灯でうっすらと照らされただけの暗闇の中、けれど一兄の顔はしっかり見える。 「お前はそれでいい」 そんな訳ないのに、一兄は褒めてくれる。 厳しい人だけれど、確かに双兄や天が言うように、俺には甘いところがある。 そんな慰めが欲しい訳じゃない。 優しい指が、汗で張り付いた髪を払ってくれる。 「今回はよく頑張ったな」 「………でも、一兄がいなきゃ、俺、ギイギイのことにも気付かなかったし、さっきもやられてた。俺やっぱり、何も、出来てない。今も、迷惑かけた」 色々見落としがあった。 一兄がいなきゃ、こんなに早く解決していなかったかもしれない。 そもそも、解決できていたかもわからない。 それに、ギイギイに同情して、勝手な真似をした。 もしもここにいるのが天だったら、あの綺麗な眉をひそめて、大きくため息をつかれているところだろう。 けれど優しい長兄は頭を撫でてくれる。 「俺はヒントを与えて、少し手伝っただけだ。最初から補佐をすると言っていただろう。お前が判断の材料を集めて、気付き、追及して、解決に導いた」 「………でも」 なおも言い募ろうとした俺を、一兄が目線で制する。 そして少し声を低くした。 「お前は経験が浅い。それにどう足掻いても力はそれほど強くはない。それは事実だ。俺や四天と同じレベルの働きなんて、最初から出来るはずがない。現状を認め、その上で行動しろと言っているだろう。自分にできること以上を望むな」 それは、そうだ。 どうやったって、俺は一兄や四天にはなれない。 それはこれまでの年月で、思い知っている。 「今回はお前が持てる力で、精一杯最善を尽くしていた。これが今のお前に出来る、最高の結果だ。この幼稚園の歪みはなくなった。子供達は傷つくこともなくなった。あの忘れられた神のことも」 一兄が目を細めて、声を和らげる。 小さな子供のように抱えあげられて、大きな手が背中をぽんぽんと宥めるように叩く。 「あれが、きっとあいつにとっては、救いだっただろう」 天だったらきっと、馬鹿なことをしたと言っただろう。 俺自身もそう思う。 もしこれがギイギイのように優しい神ではなかったら、俺は今頃食い殺されていたかもしれない。 そもそもギイギイが、俺に飲み込まれることを望んでいたのかわからない。 俺の、ただの自分勝手な感傷かもしれない。 ただの俺の自己満足。 分かっている。 けれど、一兄の言葉に縋りたくなる。 また目が熱くなって、涙が滲んでくる。 「そう、かな。本当に、よかったかな」 「ああ。そうでなければ人間なんかに飲まれることをよしとするはずがない。嫌なら自分から消滅していたはずだ」 絞り出した声はみっともない鼻声に、一兄が頷く。 確かにギイギイは、抵抗せずに俺に協力してくれた。 それなら、あれは、あれでよかったのだろうか。 「そっか」 「ああ」 それなら、いいな。 ギイギイが、嫌がってなかったなら、いいな。 「俺、一兄に、迷惑かけなかった?俺、俺に出来ることを、ちゃんと出来てた?」 「ああ、上出来だ」 大きな手が、くしゃくしゃと頭を掻きまわす。 その指の感触が、心地いい。 一兄のお香の匂いに、心がゆるゆるとほどけていく。 「よくやったな、三薙」 優しい声が、じんわりと心に溶けていく。 力を消耗した疲れと、供給を終えた後の眠気が、急に襲ってくる。 「………うん」 「ああ、少し休め」 「………うん」 これでいいのなら、いいのだ。 俺に甘い一兄だけれど、でも、それでも、仕事に関しては真摯で厳しい。 その一兄が言うのなら、きっと、これが俺に出来る最善。 そう、信じたい。 「………ありがと、一兄」 大きな手が頭を撫でるのを感じながら、眠気に抵抗することをやめ、目を閉じた。 「これで、ご報告は終わりです。もうこの幼稚園に怪異が起こることはないかと思います」 「そうですか」 次の日、学校をちゃんと終えた放課後にもう一度幼稚園に訪れた。 今日は俺一人。 園長先生に報告をして、これでこの仕事は終了だ。 「ありがとうございました」 報告を終えると、園長先生は深々と頭を下げてくれた。 少し怖い印象のきつい顔に、柔和な笑顔を浮かべる。 「お若い方で少し心配だったのですが、子供達にも気を配ってくださって、本当に助かりました」 「い、いえ、こちらこそ、色々ご協力いただき、ありがとうございまいた。余計なことをしたかもしれませんが、その………」 先生たちのことは、俺達が踏み込むべきことでは、なかったのかもしれない。 仕事の一環だったから、報告はしたのだが。 余計なことをしてしまったかもしれないという罪悪感が口に苦みを残す。 「いつかはきっと、何かトラブルが起こったでしょう。腐った土台の上にをいくら綺麗に取り繕っても、その匂いは隠せません」 けれど園長先生は、少し寂しげに笑って首を横に振った。 「だから、あなたにはその点も含めて、感謝しているんですよ」 「………ありがとう、ございます」 「それに、先生同士のトラブルなんて、今まで沢山ありました。女が集まったら仕方ないことですよ」 冗談めかして、笑い飛ばす園長先生は頼もしい。 穏やかな声は、慈愛に満ちている。 沢山のことを乗り越えて、ずっと長年子供を見守ってきた人なのだ。 この人がいるなら、きっとこの幼稚園は大丈夫。 園長先生と話していると、自然とそう思える。 「島田先生が、とてもあなたに感謝していました。もしよかったら会って行ってください」 「………はい」 園長室を後にする最後まで、園長先生は穏やかに笑っていた。 「あ、お兄ちゃん!」 「健吾君」 島田先生に会ってから帰ろうかどうしようか迷っていると、高い子供の声が後ろから響いた。 幼稚園の時間はもう終わっているから、預かり保育なのだろう。 駆け寄ってくる元気な少年の前に座りこんで視線を合わせる。 頬は赤く上気していて、昨日の泣き腫らした顔とは違ってあどけない笑顔を浮かべている。 「体調は平気?」 「たいちょう?」 「あー、元気?」 「うん!」 大きく頷く健吾君に、もう影はない。 これで、この子ももう大丈夫だろう。 それに、救われた気分になる。 そうだ、大丈夫。 俺のやったことは、少しはこの幼稚園のためになっているはずだ。 「あの、ね、お兄ちゃん」 「うん?何?」 健吾君が辺りをきょろきょろと見回して、そっと声を顰める。 内緒話をするように手を口に添えた健吾君に、顔を寄せる。 「………ねえ、お兄ちゃん、ギイギイが、いなくなっちゃった。声もしない。どこにもいない。」 「………」 「お兄ちゃん、ギイギイがどこに行ったか、知ってる?」 心臓が、キリキリと、痛む。 その幼い顔には、心配と寂しさと焦りが浮かんでいる。 「………健吾君は、卓也君とギイギイが違うものだって、分かってたの?」 質問には答えずに、逆に質問をする。 ずるいと分かっているのだが、動揺する心を抑えられなかった。 「………最初は、卓也だと、思ったよ。でも、なんか違った。ギイギイ、卓也と違う。だから卓也がオバケになって、ギイギイになったのかと思った。オバケになると、生きてる時とは、性格、ちがく、なるんでしょ?でも、卓也とギイギイは、違うよね?」 何かの本で、そんなことを読んだのだろうか。 小さい子が読むにはふさわしくなさそうな本だけど。 でも、よかった。 ギイギイは、健吾君にちゃんと分かってもらえていた。 「ねえ、ギイギイは、どこ?」 もう一度聞かれて、覚悟を決める。 その大きな目をじっと見つめて、ゆっくりと伝えた。 「ギイギイはね、遠くへ行っちゃった。健吾君に、よろしくって言ってた」 「え………」 驚きで、大きな目を更に見開く。 その表情にまた胸が痛むけれど、嘘はつけない。 つきたくない。 またこの子に寂しい想いをさせる訳にはいかない。 大丈夫、園長先生も、島田先生も、卓也君だって、彼にはいるんだから。 「ギイギイ、どこにいるの?」 「うんと、遠く。会えないぐらい、遠く」 「俺、卓也に手紙書くよ。ママが昨日、卓也のじゅうしょ、教えてくれた。ギイギイのじゅうしょは、ないの?」 「………」 純粋で真っ直ぐな好意が、伝わってくる。 ギイギイという人ではないものを、彼は受け止めてくれていた。 健吾君はこんなにも、ギイギイに懐いていた。 それが、嬉しくて、哀しくて、痛い。 「ギイギイは、手紙が届かないところに、行っちゃったんだ」 「………そんなの、やだ」 「健吾君と遊べて、楽しかったって言ってた。一緒にいたかったって、言ってた。健吾君が、大好きだって、言ってた」 健吾君の目に、涙が浮かぶ。 癇癪を起したりはしない。 ただ、哀しそうに眉を寄せて、涙を堪えるように拳を握る。 なんて、強い子なんだろう。 「………もう、会えないの?」 「………うん」 目をぎゅっと瞑って、涙を堪える。 それでも堪え切れず、すんと鼻を啜りあげる。 「………」 優しい子。 強い子。 ああ、ギイギイ、本当だ。 子供は温かくて、心地いい。 「ギイギイに何か、言うことはある?いつか会ったら、言っておくよ」 健吾君が瞼を開くと、大きな涙がぼろりと毀れた。 ぼろぼろと、そのまま丸い頬を伝っていく。 「健吾君?」 すると、健吾君は、しゃくりあげながら、言った。 「俺も、ギイギイが、大好き」 感情が、溢れだす。 たまらず、小さな体を抱き寄せる。 少し土の匂いのする体を強く抱きしめる。 「お兄ちゃん?」 不思議そうな声に、答えることが出来ない。 胸が熱くて、しめつけられて、息ができない。 「お兄ちゃん?」 健吾君が、居心地悪そうに少しだけ身をよじる。 この胸の痛みは、もしかしたらギイギイのものなのだろうか。 「ありがとう、健吾君」 小さな体を抱きしめて、祈る。 どうか少しだけでも、覚えていて。 幼い頃にいた、優しく哀しい、友達のことを。 |