熊沢さんの言葉に、痛む頭を抑えて起き上がる。 ふらつく体を、熊沢さんが支えてくれる。 「どういう、ことですか?」 結界が、破られた? 今ここは、相変わらず神社の中のような清浄な空気が漂っている。 「ちょっと、こちらへ来てもらってもいいですか」 俺がもうはっきりと目を覚ましたことを確認して、熊沢さんが立ち上がる。 ちらりと俺の隣を見るのでその視線を追うと、そこには双兄がいまだに眠っていた。 ちょっとやそっとで起きることはないだろうが、起こす訳にはいかないのだろう。 「はい」 続いて、なんとか立ち上がる。 足りない睡眠の途中で起こされた時の、独特の頭痛がする。 それでも頭をふって眠気を覚まし、隣の玄関に面した和室に移る。 大きな窓を隠した障子越しに、今はまだまだ夜なのだと分かった。 一兄から貰った腕時計に目を落とすと、日付が変わって少ししたところだった。 夢の中で沢山遊んだつもりだったのだが、まだ三時間ほどしか経っていなかったらしい。 「詳しい経緯は分かりません。ただ、塀沿いに張られていた結界が破られました。志藤の意識が戻ったら詳しく聞きますが」 「え、あ、志藤さん!?」 その部屋にはスーツを着た志藤さんが倒れていた。 慌てて駆け寄って覗き込むが、眼鏡のない顔は酷く白かった。 「大丈夫です。気を失ってるだけみたいなんで」 言うとおり、呼吸も穏やかで特に苦しそうな様子はないので、大丈夫だとは思う。 少しだけ安心して、息をつく。 「少し喰われてるみたいですが、特に問題はないでしょう。しばらくしたら回復します。全く、この状況で面倒なことしてくれます。何しにきたんだか」 熊沢さんの俺達に向けることのない毒に満ちた言葉に、少し驚く。 それに気付いたのか熊沢さんはいつものように優しく笑う。 「それで、大変申し訳ないんですが、三薙さん」 「は、はい」 「宗家の方にこんなこと頼むのもあれなのですが、ここの結界の維持お願いできますか」 「え」 熊沢さんは穏やかに笑っているが、目は真剣だった。 今が想像以上に切羽詰まった状況なのだと、じわじわと感じる。 「双馬さんはまだ夢から出られません。俺は母屋の方を見なければいけないので。出来る限り他のも喰いとめるんで、ここの結界守ってほしいんです」 「え、と」 言われている意味を噛みしめていると、熊沢さんが小さく苦笑する。 そして励ますように軽く腕に触れる。 「大丈夫ですかね」 「………は、はい」 そう言われて、出来ないなんて絶対に言えない。 今双兄と双姉は夢の中で順子ちゃんと一緒にいる。 志藤さんは倒れている。 熊沢さんは他にやることがある。 「すいません、こんなお願い出来るような立場じゃないんですが、三薙さんにしか頼めなくて」 「いえ、仕事、ですから」 それなら、俺はやれることをやらなければ。 それに、こんな状況だけれど、少しだけ嬉しかった。 俺に、任せてくれるのだ。 俺にしかできないなんて言葉、与えてもらえることはそうはない。 「ただ、俺、何すれば、いいんでしょう。俺に、できますか」 それでも、俺に出来ることは少ない。 不安になって、つい聞いてしまう。 こんな時、自信を持って頷けるだけの力があればいいのだが。 熊沢さんは不安を掻き消してくれるように朗らかに笑う。 「難しいことはありません。ただ、俺が出たら絶対にここの家の玄関や窓を絶対に開かないでください。それと、ここの結界感じ取れますか?」 言われて目を閉じる。 清められて張りつめた清浄な空気。 家を包み込むように力が網目状に編み込まれている。 「………はい」 綺麗に編み込まれた力は、とても整然として気持ちがいいくらいだ。 しかし隅っこの方を無理矢理解かれようとするような、不思議な抵抗感のような感触を受ける。 「綻びを感じたら力を足してください。奥様の札はお持ちですか?」 「あ、はい。あ、あっちの部屋に」 「では持ってきてください。結界の維持の方法はおわかりですよね」 「は、い」 それは、天にも一兄にも習った。 すで張られている力ある結界の維持なら、きっとなんとかなると思う。 けれどどうしても不安になって、拳を強く握る。 「そんな不安そうな顔をしないでください。大丈夫です。三薙さんなら出来ますよ」 「………はい」 大丈夫、大丈夫、出来る。 熊沢さんだってこう言ってくれている。 仕事を教えてくれた人だ。 俺の力も知っている。 その上でこう言ってくれている。 だから、大丈夫だ。 そもそも俺は宮守宗家の直系だ。 頼るべきではなく、頼られるべき位置にいる。 こんな不安を、見せてはいけない。 甘えるな。 一兄も双兄も、そして天も、そんな甘えはきっと許されなかったのだろうから。 そう、大丈夫だ。 「大丈夫、です。でも、いつまで堪えればいいでしょうか。俺は知っての通り力がそれほどありません。長くは持ちません」 「そうですね。これから六時間。夜明けまで持てばとりあえずは平気です。俺は六時以降まで絶対に来ません。ですから、絶対に開けないでくださいね」 「分かりました」 六時間。 それくらいなら、きっとどうにかなる。 力はわずかに減っているが、維持をするだけなら大丈夫だろう。 熊沢さんが俺の顔を見て朗らかに笑う。 「では、行ってきますね。すいませんが、お願いします」 「はい」 そう言って玄関に向かった熊沢さんはもう一度振り返る。 「ああ、いざとなったら志藤を盾にして双馬さんと逃げてください。この家には悪いですが、俺達の最優先事項は貴方達の身の安全なので」 「………」 それは、あまり聞きたくない言葉だ。 けれど熊沢さんは笑顔を浮かべながらもはっきりとした口調で重ねて言う。 「いいですね」 「………はい」 目を逸らしながら頷くと、そっと肩を叩かれた。 「大丈夫です。そんなことにはきっとなりませんから。それじゃあ」 「あ、熊沢さんは、平気ですか!?」 玄関に手をかけた熊沢さんを、呼びとめてしまう。 自分のことで精一杯だったが、この状況で一番危ないのは熊沢さんだ。 聞いたからってどうなるわけでもない。 分かってる。 けれど、心配だ。 熊沢さんは振り返って、やっぱり朗らかに笑う。 「俺、逃げ足だけは早いんです。ありがとうございます。ご心配なく」 その言葉は力強くて、けれど自然体で、信じることが出来た。 俺なんかよりよっぽど強い熊沢さん。 下手なことはしない、はずだ。 「それでは玄関を封じるので、絶対に出ないでくださいね。後は任せました」 「は、い」 それから外に素早く出て、玄関がガシャガシャと音を立てる。 外から鍵をかけたらしい。 母屋と同じ、曇りガラスの嵌った格子戸からは外の様子が少しだけ分かった。 しばらくして、玄関の前にあった影が消えていく。 「………大丈夫、かな」 取り残されて、しんと家の中が静まり返る。 急に耳が痛いほどの静寂に包まれて、不安がいや増す。 「大丈夫。熊沢さんは、大丈夫」 ぎゅっと拳を握りしめて、何回も口の中で繰り返す。 そうだ、熊沢さんは大丈夫だ。 場数も踏んでいて、俺なんかよりもよっぽど強い。 「志藤さん………」 不安を打ち消すように志藤さんに近づいて、屈みこむ。 やっぱり穏やかな顔で、まるで眠っているようだった。 「………」 後ろの部屋を仰ぎ見て、そこで静かに眠っている兄の姿を認める。 双兄を見ただけで、少しだけ不安が紛れた。 大丈夫、一人では、ない。 俺はこの人達を、守らなければいけない。 そうだ、俺は人を守ろうと、出来る人間なんだから。 強いと、言ってもらえたのだから。 「あんた、強いよ、か」 その言葉を思い出すと、不安が掻き消されて力が沸いてくる。 強くて優しい女の子がくれた、温かい言葉。 そうだ、俺は大丈夫。 「………六時間、か。ちょっと暇だな」 自分を誤魔化すように、少しだけ笑って見せる。 頬は引き攣ってうまく笑えなかったけれど、気持ちは軽くなった気がした。 でも、考えてみれば本当に暇だ。 テレビも何もない家の中、眠っている人達に囲まれているのは自分も眠くなりそうだ。 緊張で眠気が訪れるのかは妖しいが。 「そうだ、札」 ガシャ、ン。 札を取ろうと、後ろを振り返った時、玄関が音をたてた。 「ひっ」 静まり返った部屋に響いた音に、思わず飛び上がる。 玄関に慌てて視線を移す。 「すいません、三薙さん、ちょっと開けてもらえますか!」 「熊沢さん!?」 曇りガラスの向こうには、先ほどと同じ長身の男性の姿。 熊沢さんの声はどこか焦っていて、俺は慌てて玄関に駆け寄る。 「はい、すいません、ちょっと緊急事態なんです!」 「あ、ちょっと待って下さい」 聞いたこともない熊沢さんの悲鳴じみた声に、鍵に手をかける。 そこで、ふと気付いた。 鍵をかけたのは、熊沢さんだ。 さっき、熊沢さんが、自分でかけた。 どうして、自分で、開けないんだ。 「………」 「三薙さん?」 動きを止めたのが向こうからも見えたのか、怪訝そうな声で聞いてくる。 それは紛れもなく熊沢さんの声。 でも、違う。 これは、違う。 「三薙さん、どうしたんですか?早く開けてください。三薙さん?」 「………」 そうだ、絶対に開けるなと言われた。 六時まではここに訪れないと言われた。 「………嫌、です」 「三薙さん?どうしたんですか、三薙さん?早く開けてください。お願いします!」 熊沢さんの切羽詰まった声。 一瞬、その切ないまでの響きに玄関に手をかけそうになる。 これはもしかしたら、本当に熊沢さんなんじゃないかと疑う。 「早く!早くしてください!ああ、駄目だ!早くしてください!あいつらが来る!早く!」 本当に、これは熊沢さんじゃないのだろうか。 実は事情が変わって戻ってきたのではないだろうか。 今危険が迫っていて、俺がここを開けなきゃ危険なんじゃないだろうか。 「………っ」 けれど、熊沢さんは、絶対に開けるなと言った。 俺に任せると言った。 そうだ、俺は、熊沢さんの言葉を、信じる。 「三薙さん!開けて!開けてください!開けて!」 「嫌、ですっ」 ガシャっと大きく玄関が揺すられる。 「開けろ!」 耳を塞いでも、聞こえてくる声。 玄関を揺らす音は、徐々に大きくなり家中に響き渡る。 「開けろ!開けろ開けろ開けろ!開けろ!開けろ!」 ガシャガシャガシャガシャと、玄関が揺すられる。 曇りガラスの向こうの影は人型だけれど、きっと何か違うものだ。 「開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ!開けろ!!!」 それはもう、熊沢さんの声とは言えなかった。 声質は熊沢さんのものなのに、喉の引き裂くような叫び声なんて、あの人には似つかわしくない。 きっと熊沢さんはピンチでも朗らかに飄々としている。 だから、これは全く違う、もの。 「開けろ!」 「嫌だ!消えろ!」 ぴたりと、全ての音が消えた。 顔を上げると、玄関の向こうの影は消えていた。 もう一度、世界が静まり返る。 「…………」 背筋に嫌な汗を掻いている。 心臓が、バクバクと早く打っている。 「………消え、た?」 部屋の中は、完全に静まり返っていた。 |