皺の刻まれた手が、襖を開く。 現れたのは温厚そうな顔に、今は苦悩の満ちた表情を浮かべた男性だった。 その手には抜き身の刀が握られていた。 「度会、さん………」 その後ろには金色の目をぎょろぎょろと動かす、黒い獣。 濃厚な闇の気配を放って、こちらを睨みつけている。 「………すいません、三薙さん」 度会さんは苦しそうに消え入りそうな声で目を伏せる。 まだ結界は完全には破られていはいない。 あいつはまだこちらには来ることは出来ない。 「ここまでするつもりは、なかったんです」 「なんで、こんなことを」 度会さんは俺の問いには応えることはなく、ただ苦しげに一瞬を眉を寄せた。 そして静かな声で言った。 「じっとしていてください。あなたたちに極力危害は加えませんので」 そして促すように後ろを向くと、黒い獣がざわりと全身の毛を揺らした。 あれは、人の手に負えるものではない。 ただ伏せているだけでも感じる威圧感。 ただの化け物ではなく神の域に至った化生のもの。 それを従えているということは、何かしらの契約をしているのだろう。 度会さんが、俺達に悪意を持っていたとは思えない。 今だって苦しそうにしている。 何か理由があるのだろう。 それは、分かる。 けれど。 「そういう訳にはいきません」 俺はここをどく訳にはいかない。 危害を加えないとは言っても、あいつの狙いはおそらくはこの先にいる順子ちゃん。 順子ちゃんに近づけさせるわけにはいかない。 それに、順子ちゃんに何かあったら、順子ちゃんと繋がっている双兄だってどうなるか分からない。 度会さんが静かにこちらに近づく。 俺達が張った悪意を阻む結界に触れたせいか、熱いお湯に触れたように弾かれ一歩下がる。 「どいてください、三薙さん。今日しか、ないんです。今日しかない」 どこか焦ったように、度会さんは繰り返す。 その声は切ない思いが込められていて、苦しくなる。 度会さんの願いを聞いてしまいたくなる。 「今回のことで母さんも和臣も警戒するでしょう。今日しかないんです」 「こちらへ来ないでください」 俺の前に懐剣を度会さんに突きつけた志藤さんが立ちはだかる。 度会さんも手にした刀を握り直す。 「すいません、三薙さん。どいていただきます」 勝手なことを言いながら、けれどやっぱり度会さんの顔は暗い。 苦しみと痛みに満ちている。 「………度会さん」 「すいません。責はどのようなことでも負います」 「順子ちゃん………ですか?」 度会さんの表情は動かない。 けれど、刀を握る手がぴくりと揺れた。 「………いけ」 しかし、何も言わずに後ろを振り向き黒い獣を促す。 俺は身構えて札を構える。 何がなんでもこの結界を破らせる訳にはいかない。 「させませんっ!」 志藤さんが素早く動き、度会さんに切りつける。 年には見合わない素早い動きで、度会家の当主はその剣を軽く刀で払った。 「志藤さん!」 駄目だ、リーチが違いすぎる。 おそらく度会さんには俺達を積極的に傷つける意志はないだろうが、それでも邪魔をするなら排除するぐらいの覚悟はあるだろう。 じゃなきゃ、こんなことはしない。 「三薙さん、逃げてください!」 「そういう訳には、いきません!」 志藤さんが何度も度会さんに切りかかる。 度会さんは無表情に何度も志藤さんの剣をいなす。 その間に黒い獣は、結界にはりつき、食い破ろうとする。 「三薙さん早く!」 「でもっ」 志藤さんを置いては行けない。 順子ちゃんと双兄を守らないといけない。 「私の最優先事項は宗家の人の身の安全です。双馬さんを連れて早く逃げてください!」 「っ」 「そうしてください、三薙さん。あなたたちに危害を加えたい訳じゃないんです」 確かに今は度会さんの支配下にあるらしい黒い獣は、下手なことをしなければ俺と双兄には見向きもしないだろう。 あいつの狙いは、更に奥の部屋にあるのだから。 「………そん、な」 逃げるのが正しいのだろうか。 俺の優先事項はなんだ。 俺が出来ることはなんだ。 俺の出来ることは少ない。 その中から、最善を選べ。 「………でき、ません」 これは合っているのか。 間違っているのか。 分からない。 「俺は、仕事をしにきたんだから」 天がいたらなんと言うだろう。 無謀だと言うだろうか。 身の程をわきまえない愚か者だと言うだろうか。 これは俺の出来る最善なのだろうか。 「俺は、課せられた役目を果たします!」 分からない。 正解なんて、何も分からない。 でも、決めたのなら全力でそれをやり遂げるだけだ。 迷いは闇に付け込まれる。 落ち着け。 心を強く持て。 「志藤さん、下がって!結界の維持をお願いします!俺が度会さんを止めます」 「でも!」 「お願いします!これは、命令です」 「は、はい」 志藤さんはその言葉に、一度強く度会さんの刀を弾き結界の中に戻る。 度会さんはあえて追うことはしなかた。 志藤さんが戻って結界に力を注ぎこみ始めたのを見届けてから、自分の剣を取り出す。 これで度会さんを防ぐことは、俺には出来ないだろう。 でも、やらなければいけない。 とりあえず、度会さんの隙を作らなければ。 「消えろ!」 結界から飛び出し、剣に力を纏わせ、黒い獣と度会さんに向かって放つ。 俺の微弱な力では黒い獣はただ体を震わせただけだった。 生身の人間には力で物理的な干渉をすることは出来ない。 ただ、精神に働きかけるだけだけれど、生身に攻撃を受けたような痛みを感じる。 「三薙さん、余計なことはしないでください」 度会さんは俺の放った力を軽々と避けて、刀をこちらに付きつける。 力はそう強くない家系だと聞いたが、それを補って余りある武術の腕があるようだ。 「あなたに怪我をさせたくはないんです。このままだと三つ目神も抑えきれなくなる」 「俺だってそうです!」 俺が攻撃したせいか、黒い獣の苛立ちや怒りが徐々に増しているのを感じる。 所詮は人間の意志など気にすることのない異形の者。 度会さんとの契約がどうなっているのか分からないが、このままだったら命令など忘れて俺を攻撃してくるだろう。 そちらに気が取られた一瞬で、度会さんが踏み込んでくる。 「どいてください」 「ぐっ」 「目的のものは奥だ!三つ目神、行け!」 そして力を乗せた刀を結界に付きつける。 聞こえるはずがない、ギシギシと空間が軋む音がする。 俺と志藤さんで張った結界に綻びが生じていく。 「駄目だ!」 黒い獣が綻びに張り付き、更に結界に食らいつく。 このままだと、結界が破られる。 そうすれば順子ちゃんも双兄も、結界を維持している志藤さんもただではすまない。 そうなる前に、一か八か、度会さんを止めて結界を張り直す。 「………」 自分の中の力の調整を始める。 隙は見つからないけど、出来るはずだ。 「すいません、三薙さん!」 度会さんがもう一度刀を振りかぶる。 「謝るぐらいならやらないでくださいよ」 その時、場にそぐわない飄々とした声が響いた。 度会さんの刀は、声と共に宙を飛んできた何かに弾かれて軌道を変える。 「やー、間に合った間に合った」 まるで緊張感のない声で度会さんの後ろから現れたのは、スーツを着た一見真面目そうな男性。 いつもと変わらぬ落ち着いた様子だが、その頬は真っ赤な血で濡れていた。 「熊沢さん!」 その血も気になるし、どうしてここにきたのかも分からないし、なんと声をかけていいか分からずただ名前を呼んだ。 いつも陽気な人は、にっこりと笑って近づいてくる。 「すいません、ここまでするとは思ってなくて、油断しました。ここまで踏ん張ってくれてありがとうございます、三薙さん、志藤君」 和やかに言ったかと思うと、音も立てずに素早く近づき度会さんの手を蹴りあげる。 その衝撃で度会さんの手から刀がこぼれた。 小さく呻いてたたらを踏む。 「別にあなたが何をしようと構わないんですよ、度会さん。あなたの立場には同情しますし、気持ちも分からないでもない。だから、今回のこともこれ以上何もなければ不問に処そうとしました」 ふうっと息をついて、顔を血で濡らした熊沢さんが肩をすくめる。 そしてにっこりと笑った。 「けど、うちの宗家に手を出されたら、黙ってはいられませんね」 |