泣きやまない俺を、一兄は抱えあげて一兄の自室に連れて来てくれた。
そして部屋に入り込むと、壁に背を預けるようにしながら一兄が座り込む。
その間ずっと、ただ怖いものから逃れるように一兄にしがみ付いてそのシャツに顔を埋めていた。

「大丈夫か、三薙」

涙で濡れた服は気持ちが悪いだろうに一兄は怒ることはせずに、俺の頭を優しく撫でてくれる。
いつだって泣いた俺を慰めてくれる、大きな手。

ここは、一兄の部屋。
どこよりも安全な場所。
怖いものが何もないところ。
絶対に守ってもらえる、安心出来る場所。

「うっ、く、ひっ」

心からの安堵に体が弛緩して、たくましい体にもたれかかる。
力が抜けた俺の体を抱え直して、一兄が小さく笑う。

「本当によく泣くなお前は」
「泣きたくなんか、ないっ」

泣きたくて、泣いている訳じゃない。
感情と涙腺が直結しているこの体質は、直そうとしても、直らない。
泣きたくなんて、ないのに。
増してこんなことで、泣きたくなんかない。
悔しい悔しい悔しい。
こんなことで泣いてしまっている。
天になんて、泣かされたくないのに。

「分かってる」

一兄が悪い訳じゃないのに怒鳴ってしまった俺を、けれど一兄は優しく笑う。
宥めるようにゆっくりと頭を撫でてくれる。

「お前は、感情に敏感で素直で優しい。だから色々な感情を受け止めて、流せずに溢れてしまう。いつまでも、鈍感になれない。それはお前のいい所だ。辛いことも多いだろうがな」

そう言われると、まるで俺がとても綺麗な心の持ち主のようだ。
そんなじゃ、ないのに。
嫉妬して、羨んで、自分の身を嘆いて、文句を言って、泣いて、喚いて。
素直で、優しくなんてない。
ただ、人の迷惑になりたくなくて、人にこれ以上嫌われたくなくて、人の顔色を窺ってばっかりいるだけだ。

「………俺、そんな、いい性格、じゃない」
「お前はいい子だ。それに意外に負けず嫌いで意地っ張りだからな。悔しくても泣く」
「子供じゃ、ない!」

八つ当たりのように怒鳴ると、泣いていたからうまく出来ない呼吸のせいでむせてしまう。

「けほっ、けほけほ、ひっく、ひ」

昨日の夜から何も口にしていないせいで、喉も渇いている。
痛む喉が更に引き攣れて、咳が止まらなくなる。

「ほら、落ち着け」
「ひぃっく、う」
「ゆっくり呼吸しろ」

背中を軽く叩かれ、頭を撫でられる。
一兄の好むお香の匂いに包まれると、まるで子供の頃に返ったような気になる。

「俺、泣きたくなんか、ない」
「確かに少しは泣くのを堪えた方がいいが、俺の前では我慢しなくていい」

その言葉に伏せていた顔を上げると、一兄は少しだけ困ったようにでも優しく笑っていた。
大きな手が、濡れた俺の頬を包み込む。

「いちに、い」
「俺の前では、泣けばいい。お前の泣き顔なんて慣れっこだ」

そう言われると、もう我慢出来なかった。
涙が、止まらなくなる。
子供の頃のように、一兄に感情の全てを曝け出してしまう。

「う、うーっ」

歯を食いしばって、涙を堪えるが、それでも涙が止まらない。
一兄がもう一度俺を抱きこんで、シャツに顔を押し付けてしまう。

「いい子だ」
「う、ううっ、あああ、ああっ」

一兄の手と、一兄の匂いに包まれて、堰き切ったように叫びと涙が溢れていく。
大人の泣き方ではない。
まるで駄々をこねる子供のように、泣き喚く。
天に与えられたやるせなさと惨めさを、全て吐き出すように。
一兄は自分のシャツが汚されることも厭わず、ただ背中を撫でてくれる。

「ひぃ、あ、ううっ、ひっ、く」
「大丈夫だ」

それからどれくらい泣いたことだろう。
一兄のシャツをぐっしょりと濡らして、鼻がつまって苦しくて、泣き過ぎて頭がガンガンする。
泣きつかれて、ただしゃくりあげるだけになった頃に、一兄が穏やかに聞いてくれる。

「落ち着いたか?」
「………」
「腹は減ってないのか?」

そこで、俺は今がまだ朝だったことに気付いた。
登校時間にも、きっともう間に合わない。
一兄は会社に行く格好をしているから、きっと出かけるところだったのだろう。

「あ、いちに、仕事、は」
「少しくらいいい。弟の様子を見る方が大事だ。それに少しの遅刻で問題になるような仕事の仕方はしていない」

そんなこと言うけれど、人一倍時間には厳しい人だ。
系列の会社だからこそ、自由に振る舞う訳にはいかないと、そう言っていたこともある。
それなのに、俺が引きとめてしまった。
俺はまた、一兄に迷惑をかけている。
迷惑をかけたくないと思いながらも、結局俺は迷惑をかけずにはいられないのだ。

「ごめ、んね」
「構わない」
「ありがと、一兄。ごめんね」

一兄はただ目を細めて、俺の濡れた顔を拭ってくれる。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃだし、目も腫れて鼻も真っ赤で、きっとひどい顔をしているだろう。

「三薙」
「ん?」

少しだけ言い淀んで、けれど一兄がまっすぐに俺を見る。

「四天と何があったんだ?」
「………っ」

さっきのやりとりを思い出して、反射的に体を堅くしてしまう。
それに気づいて、一兄はまたぽんぽんと宥めるように俺の背中を叩く。

「言いたくなければ、言わなくていい」

言える訳がない。
あんな、屈辱的なことをされたなんて、言える訳がない。
意志を無視され、まるで物のように扱われたなんて、悔しくて、惨めで、言いたくない。
自分の弟に、こんなにも馬鹿にされ、貶められているなんて、知られたくない。

「本当に、あいつにも困ったもんだな」

一兄はそれ以上聞かずに、小さくため息をついた。

「後で俺から注意しておく」

一度収まった激情が、まだ溢れだしてくる。
惨めで、悔しくて、苦しくて、哀しい。

「一兄、俺」
「どうした」
「俺、俺、こんな体、やだっ」

一兄のシャツを強く握りしめて、吐きだす。
背を撫でてくれていた一兄の手が止まる。

「三薙」

わずかに困惑したような一兄の声にも、止めることが出来なかった。
誰かに言っても仕方ないことだと分かってる。
だって、言ったって事態が好転する訳じゃない。
一兄や双兄や天に迷惑をかけている俺が言っていい言葉じゃない。
人の手を借りて生きているくせに、それについて文句をつけるなんて許されることじゃない。
文句を言いたいのは、きっと兄弟達の方だ。
けれど一兄への甘えと、昂ぶった感情は、止めることが出来ない。

「なんで、俺、こんな体質なんだろ、こんな、誰かに、迷惑をかけなきゃ、いけない、一兄にも、天にも、迷惑をかけてばっかりの、役立たずな体、いらないっ!」

供給なんて必要なければあんなことにはならなかった。
人の手を借りずに生きていられるなら、こんな悔しい思いをしなくて済んだ。
どんなに悔しくて苦しくても惨めでも、俺は結局天の手を借りないと生きていけない。
それに、だからきっと、天も俺が嫌いなのだ。

「俺、普通に、暮らしたい!力の供給なんて、したくない!」

この体のせいで、学校にもろくにいけなかった。
友達も出来なかった。
遊びにも遠足にも旅行にも行けなかった。
全部を体質のせいにするのは、馬鹿げていると分かっている。
例え普通の体だったとしても、友達は出来なかったかもしれない。
何も出来なかったかもしれない。
でも、それでも思ってしまう。
こんな忌々しい体でなければ、もっともっと色々なことが出来たのではないだろうか。

「皆と普通に遊びたい!また、旅行も行きたいっ!大学も行きたい!普通に学校行きたい!普通に暮らしたい!」

岡野や藤吉達と修学旅行に行きたかった。
皆と遠足に行きたかった。
県の外にも自由に出てみたい。
海が見たい。
もっと遠くの世界を見てみたい。

「何も出来ないなら、こんな力、いらないっ!普通で、いいのに、一兄や、天みたいになれないなら、普通でよかった!こんな力、いらなかった!何も見えなくてよかった!何も感じなくてよかった!」

俺は化け物が見てても逃げまとうだけ。
何も出来ずに、後悔をするばかり。
闇や邪といった存在に翻弄されて、また周りに迷惑をかける。
それくらいなら、何も感じない体質が欲しかった。
見て感じ取れる力があるくせに、何もできない体なんて、いらなかった。
一人で立っていられる、体が欲しかった。

「三薙」
「うっ、く」

まだ涙が止まらなくなってしまう。
もう出尽くしたんじゃないかと思ったのに、体中の水分を絞りつくすように涙は次から次へと出てくる。
昂ぶった感情は溢れだして、もう止めることが出来ない。

「昔から、お前はそういうことは言わなかったな」

胸に顔を埋める俺の背中を、変わらず一兄の大きな手が撫でてくれる。
分かってる。
一兄に言ったって、どうにもならない。
それに、俺は一兄に迷惑をかける存在なのだ。
それなのに、俺が我儘を言うなんて、なんて身の程知らずなのだろう。

「お前は、よく頑張ってる。我慢して、努力して、苦しい思いをしても、逃げ出していない」
「もう、嫌だっ、嫌だ、こんな役立たずな体、いらない!もう誰にも迷惑、かけたくない!」

人に迷惑をかけてばかりの存在。
存在するだけで害になる存在。
力がなくてもせめてこの体質がなければ、ひっそりと生きていくことが出来ただろうに。

「役立たずなんかじゃない」
「嘘だ!」
「本当だ、お前は役立たずなんかじゃない」

一兄が俺の顔を両手で包み込んで持ち上げる。
顔を見たくなくて背けようとするが、強い力で固定されてそれは敵わない。
一兄は静かな目で、じっと俺の顔を覗き込んでいた。

「お前のためにすることが、迷惑だなんて思うはずがない。努力しているお前を見て、役立たずなんて思うはずがない」
「………でも、俺は何も出来ない」
「きっとある。お前にしか出来ないことがある」
「………」

そんなこと言われても、やっぱり迷惑だと思う。
何かが出来る訳がない。
口を噛みしめた俺の唇をなぞって解きながら、一兄が少し笑う。

「いや、なくてもいいんだ。ただ今まで通りお前が生きていてくれれば、それでいい。役に立たないとか、迷惑だとか、お前が決めることじゃない。少なくとも俺は一度も思ったことはない」

一兄の言葉は、嬉しい。
嬉しいけれど、信じられない。
だって、現に俺を迷惑に思う人間がいる。

「………四天は、迷惑だよ」

俺のふてくされたような言葉に、けれど一兄は小さく笑う。

「あいつが、お前の存在が迷惑だと言ったことがあるか?」

言われて、考える。
確かに迷惑だと言われたことはない。
俺が馬鹿な行動や、先走った行動をした時は確かに怒って、迷惑だと言う。
けれど、俺の体質や供給をすることは面倒だとは言うが、迷惑だとは言わない。
むしろ供給を渋る俺に、体質なのだから仕方ないと呆れながらも諭してくる。

「ない、けど」

でも、天の態度は、あんなことしたのは、きっと俺が迷惑をかけるからだ。
俺のことが、嫌いだからだ。
そうとしか、考えられない。

「無理もないが、卑屈にはなるな。過剰な自己否定は闇につけいられる」
「………」
「卑屈にならなくてもいい。お前は必要な存在だ」

一兄の言葉は、心にじわりと沁みわたって、潤っていく。
その体にもたれかかると、一兄は頭を撫でてくれる。
ずっとこうしていたくなる。
もう誰にも傷つけられることのないこの場所で、まどろんでいたい。

「お前はそのままでいい、三薙」

けれどそれじゃ駄目だってことは分かってる。
一兄の言葉は嬉しい。
一兄の言葉は優しい。
それに浸って、嫌なことなんて全て忘れてしまいたい。

「俺は、お前の存在が大事だよ」

けれど、心のどこかでそんなはずないって思ってる。
だって、俺は役立たずだ。





BACK   TOP   NEXT