ノックと控えめな声と共に現れたのは家政婦の杉田さんだった。 痩せ形の40代ぐらいの女性で、ずっとうちに勤めてくれている人だ。 後ろでぴっちりと髪を束ねていて、表情はあまり動くことはない。 でもきびきびと働いてくれる、仕事の出来る、実は結構優しい人だ。 「三薙さん、お客様です」 いつもながらの無表情で、来客を告げる。 俺に客なんてほとんどないから、思わず聞き返してしまう。 「え、俺に、ですか?」 「ええ、ご学友の皆さんみたいですよ」 「え」 ご学友っていうと、えっと、学校の友達ってことで。 皆さんって、ことは複数ってことなのか。 想像もしていなかった言葉に、杉田さんの言葉を何回も反芻する。 「学校の、友達、で、み、皆?」 「ええ、同じクラスだと伺いました。女性の方が三人、男性の方が一人、藤吉さんとおっしゃいました。ご存知ですよね?」 「は、はい!」 ベッドの上で飛び上がって、意味もなく姿勢を正す。 別に背筋を伸ばす必要なんてないのだけれど、なんだか落ち着かない気持ちになってしまう。 皆が、来てくれたのか。 なんで。 もしかして、今日学校を休んだから、お見舞い、とかなのか。 鬱々としていた気持ちが、一気に払拭されていく。 「入っていただいても構いませんか?」 「も、勿論です!あ、で、でも、父さんと母さんは」 「はい、旦那様が通していいとのことです。どうなさいますか?」 「あ、では通してください!」 「こちらのお部屋でよろしいですか?」 「はい!」 杉田さんが珍しく表情を少しだけ和らげる。 「かしこまりました。おいしいお茶と、お菓子も用意いたしますね」 「ありがとうございます!」 そうして杉田さんが去っていったと同時に、慌てて部屋のチェックを始める。 部屋にいることが多くて割と時間もあるから、部屋の掃除はこまめにしていて、そこまで汚れてはいない。 でも、落ち着かなくて、クッションの位置を変えてみたり、本棚に変な本は入ってないか確認したり、皆が座る場所はどこにしようなんて考えてしまう。 結局慌てるばかりで何も片付けることは出来ない内に、ドアがノックされてしまう。 「は、はい!入っていいです!」 ガチャリと音を立てて開いたドアから顔を覗かせたのは、眼鏡がよく似合う柔和な顔立ちの友人。 体調不良で休んでいるはずの俺に、気遣わしげな笑顔を浮かべる。 「よお、宮守、大丈夫?」 「藤吉、だ、大丈夫!」 まさか来てくれるなんて思わなくて、心臓が早く打ち始める。 藤吉が、この部屋にいることが信じられない。 それなのに、藤吉の後ろからは更に女の子の甘い声が響いてくる。 「なんだ、元気じゃん」 「本当だ、ずる休みー!」 「ほらほら、千津、騒がないの」 岡野と佐藤と槇が笑いながら部屋の中に入ってくる。 そうすると俺の地味な部屋がなんだか急激に華やかになって別の部屋のようにも感じる。 女の子がいるだけで、こんなにも空気が変わるものなんだ、なんて思った。 「あ、えっと、座って。えっと、今日はなんで」 「お見舞いお見舞い。急に休むから。昨日調子悪そうだったしさ」 さらりといった藤吉に、昨日の体調不良は見抜かれていたのだと知る。 でもあえて俺に聞かなかったことや、それでも心配して気にかけていてくれたことに胸がいっぱいになる。 どうしてこいつはいつもこんな風に、さらりと俺が喜ぶことを言ってくるんだろう。 「宮守、部屋綺麗にしてるな」 「ねー、私の部屋より全然綺麗」 「佐藤の部屋とか、女の子への夢が崩れそうだよなあ」 「どういう意味さ!」 藤吉と佐藤が、相変わらずの様子でふざけ合いながらもベッドに下のラグの上に座りこむ。 俺もその隣に座りこむ。 後ろにいた岡野と槇はやや困惑しながらきょろきょろと部屋を見渡していた。 「あ、岡野と槇も座って」 「うん」 「あ、うん」 いつも物怖じしない二人らしくなく、どこか戸惑った様子だ。 どこか部屋におかしなところがあっただろうかと、自分でもひそかに部屋を眺めながら聞く。 「ど、どうかした?」 けれどおかしいのは部屋ではなかったらしい。 岡野がどこか呆れたようにため息をつく。 「………あんたって、本当にお坊ちゃんだったんだね」 「へ?」 「ねえ、おっきな家だねえ。気遅れしちゃった」 槇も苦笑しながら頷く。 自分ではいつもあまり意識はしないけど、確かにうちの家は広い。 親戚の家も管理者の家もでかいものが多いから特別何かを思うことはないのだけれど。 「まあ、確かに、大きい、かな」 「でかいよ!」 「うん、大きい」 「まあ、うん。確かに大きいし、結構裕福な方だと、思う」 お坊ちゃんと言われるのは嫌だが、確かに平均的な家庭よりは裕福だし、物質面では何一つ不自由ない生活をしている。 「………」 岡野と槇は、そんな俺をどう思っただろうか。 苦労知らずの坊ちゃんだと思っただろうか。 管理者などではない人が、この家にどんな反応するかも分からない。 こわごわとまだ立ったままだった岡野を見上げると、目があった岡野は肩をすくめた。 それから槇と一緒に、ラグの上に座りこむ。 ど、どういう反応なんだろう。 落ち着かなくてそわそわとしていると、槇がおっとりと首を傾げた。 「宮守君、風邪?」 「あ、えっと、ちょっと体調悪くて」 本当の理由なんて、言える訳がない。 結局あのまま一兄に散々甘えて、一緒にご飯を食べてから一兄は出社した。 仕事の邪魔をしたことも、子供のように癇癪を起こして甘えてしまったのも、全てに自己嫌悪だ。 結局顔がパンパンに腫れていたのでそのまま休んでいいと言われて休んでしまったことも、情けなさ過ぎてため息が漏れる。 なんてことを考えて思わず俯いてしまうと、急にふわりといい匂いがした。 「確かに顔がちょっと腫れぼったいね。熱はー?」 佐藤が四つん這いになって近づいてきて、額を俺の額に合わせてくる。 佐藤の息が、顔にかかる。 シャンプーの匂いなのか香水の匂いなのか、いい匂いがする。 「さ、佐藤!?」 「千津だってば」 「う、わ」 「んー、熱はないみたいだね」 目のやり場がなくて視線を下に向ける。 ていうか、胸、胸が近い。 うわ、顔が熱い。 触れているところが、火傷しそうだ。 「結構あっつい?」 「千津、それじゃ熱が下がらないと思うよ」 「へ?」 「ま、槇!」 槇がくすくすと笑いながら、そっと佐藤の腕をとって引きはがしてくれる。 助かった。 佐藤は男女問わずこういうスキンシップが多くて、心臓に悪い。 ああ、まだなんか、いい匂いがする気がする。 額が、あっつい。 「ふーん、めっちゃ嬉しそう」 「そ、そんな訳じゃ、な、ないけど」 「まあ、いいんじゃない?」 「あ、えっと、お、岡野、違う」 「何が?」 確かに何が違うんだろう。 いや、でも岡野には誤解してほしくなくて。 誤解って何を。 岡野が冷たい視線で呆れたように俺を見ている。 その目で見られるとなんだか一気に熱かった体温が冷えていく。 「いいなあ、宮守」 「ふ、藤吉!」 藤吉がにやにやと笑いながら、楽しそうに見ている。 いや、確かに佐藤と接近してしまったのはラッキーと言えばラッキーだと言えるかもしれない。 でもなんか今はすごい心臓が嫌な感じに落ち着かない訳で。 俺は何に焦っているんだろう。 ああ、もう訳が分からない。 「とりあえずこれくらいにしておこうか。はい、宮守君。具合良さそうだったらケーキ食べない?」 「え」 「ここのケーキ、お薦めなんだ」 混乱する会話を収めてくれたのは、やっぱり槇だった。 ケーキが入っているらしい箱をそっと差し出してくる。 そこでようやく岡野も笑ってくれた。 「チエのお薦めは絶対美味しいよ。そこのは私も好き」 「ここのケーキ私も好き!」 俺に渡されたものなのに、なぜか女子三人がいそいそと箱を開き始める。 大きめの箱にぎっしりと詰まっているのは繊細なデザインをした小さなケーキ。 「へえ、うまそう」 「綺麗だな」 藤吉と俺もそれを見て、喉を鳴らす。 様々なフルーツや生クリームで彩られたケーキは華やかで甘い匂いがして美味しそうだった。 「わざわざお土産も、買ってきてくれたのか?」 「お土産っていうか、お見舞い!」 佐藤の言葉に、胸がつまった。 きゅーと熱いものがこみ上げてきて、息が出来なくなってしまう。 苦しくて、でも、嫌な気分じゃない。 ただ、胸が熱い。 「………なんであんたまた泣きそうなの」 ケーキを見ながら俯いた俺に、岡野が怪訝そうに聞く。 ああ、本当にやだな、この体質。 哀しくても、悔しくても、怒っていても、嬉しくても、涙が出てくる。 でも、今気付いた。 嬉しい時は、恥ずかしいけれど、そんなに嫌な気分じゃないかもしれない。 「と、友達、家に来てくれたの、初めて、で」 家に誰かが来てくれるなんて、初めてだ。 お見舞いに来てくれるなんて、これまでなかった。 たまに担任に頼まれた子が玄関先にまでプリントを届けたりしてくれることはあったけど、部屋に入ってくれることはない。 こんな風に部屋に友達を招くって、ずっと憧れていた。 「………暗」 「うお、岡野ひど!」 俺が黙りこんでしまうと、岡野がぼそりと言い捨てる。 藤吉が笑いながらつっこむが、岡野はつまらなそうに鼻を鳴らす。 「こんなことで一々感激して泣いてんじゃねーよ。これからいくらだって、こんなことあるんだから」 「………」 もう、堪え切れなかった。 目に膜を張っていた涙が、大きくなってぽたりと床に落ちる。 朝、散々あんなに泣いたのに、まだ俺の涙は枯れ果ててないらしい。 手で必死にで拭うが、涙は余計に滲んでくる。 前まで、こんなに酷くなかった気がする。 最近、俺の涙腺は壊れているのかもしれない。 「彩、もっと泣かしてどうするの?」 「ご、ごめ。こんな、つもりじゃ」 「本当仕方ねーな。このへたれ」 岡野が呆れたように頭を小突いてくる。 ごつごつした指輪が当たって痛いけど、でも嬉しくなってしまう。 つまった鼻をすすると、藤吉が笑いながら両手を広げる。 「ほらほら宮守、俺の胸でお泣き!」 「え、やだ」 「うわ、素で否定された。ショック」 「じゃあ、三薙、私の胸でもいいよー!」 「え」 思わず固まった俺に、藤吉が冷静に突っ込む。 「あ、ちょっと迷った」 「ふーん」 「あ、岡野、ちが!違うんだ!」 なんでか分からないけど、岡野に言い訳しなきゃいけない気がして必死に弁解する。 けれど岡野は冷たい目で見据えるばかり。 別に佐藤の胸で泣きないなんて、本気で思った訳じゃない。 ちょっと思ったけど。 「宮守君どれがいい?」 「マイペースすぎるよ、槇!」 「だって、ケーキが最優先でしょ?」 「は、はい」 焦る俺なんて意に介さず、槇がにこにこと笑いながらケーキの箱を差し出す。 その笑顔は心がふわっとする、それこそ砂糖菓子のようだ。 でも、やっぱり槇って、凄く優しくて、いい子で、癒されるんだけど、優しいだけじゃない気がする。 でも、おかげで涙が止まった。 「あ、えっと、杉田さんが、お茶持ってきてくれるからそれからにしよっか」 「杉田さん?」 「さっきのお手伝いさん」 「お手伝いさんかあ」 感心したように槇が繰り返すが、それ以上は何も言わなかった。 やっぱりお手伝いさんがいる家って、そんなにないのかな。 俺って結構ずれてたりするのだろうか。 「今日は一矢さんとかいらっしゃるの?」 「一兄は仕事、双兄はどこいるんだか分からない。天は………学校だと、思う」 天とは、あれから顔を合わせていない。 次、合ったら、何を話せばいいのか、分からない。 あいつが一体何を考えているのか、さっぱりわからない。 「四天君もまだ帰ってないんだ。一応他の皆さんのも買ってきたんだけど」 「………あいつには、後で言っておくよ」 例えもう学校から帰っているのだとしても、この部屋に呼ぶ訳にはいかない。 平静な態度で接することなんて、出来やしない。 「宮守、また喧嘩でもしたの?」 「え」 藤吉がケーキを選びながらなんでもないように聞いてくる。 それに岡野も呆れたように肩をすくめる。 「また?」 「………」 槇と佐藤も、どこか微笑ましそうに笑う。 「まあ、喧嘩するほど仲がいいって、ことなのかな」 「………」 「三薙って、ブラコンなのに四天君とだけは仲悪いよねえ」 「ぶ、ブラコンじゃない」 「四天君かわいいのに」 かわいくなんて、ない。 兄をいたぶって貶めて遊ぶ、最低な奴だ。 俺のことを物のように扱う、酷い奴だ。 けれど女子達は、かわいいかわいいと騒ぎ始める。 「四天君はかわいいよねえ。あの年であんなにしっかりしてるってのがまたなんか頑張ってるって感じでかわいい」 「あー、分かる分かる」 「………あれが、かわいい」 あれをかわいいと思える女性たちの神経がすごい。 俺とは違う四天が見えているのだろうか。 旅行の時も決して態度はよくなかったのに。 「………一兄や双兄の方がいいだろ」 「二人とも素敵だけどねー」 「うん、かっこいいよね」 「皆かっこいいよねえ」 どうせその皆、には俺は入ってないんだろうけどさ。 そして女子達は俺の兄弟の寸評を始める。 兄弟の俺がいるのだから、やめてほしいのだが。 「私は双馬さん好きだなあ。ノリがいいから話してて楽しい!」 「一矢さんかな。大人でいいわ。ガキくささがないし」 「私は一矢さんはちょっと怖いから、四天君がいいなあ」 「え、一兄怖かった?」 「完璧すぎて、近寄りがたいかな。なんでも出来る人だと委縮しちゃう」 それは、分かるかもしれない。 一兄は確かに頭もよく運動神経もよく性格もよくスタイルもよくマナーだって完璧だし力だって強いし頼もしくて冷静で非の打ちどころのない人間だ。 実際俺だって隣を歩くのは嫌な時もある。 「なるほど。四天もなんでも出来るよ?」 「四天君もすごいしっかりものだけど、ほら、宮守君と喧嘩したりするような可愛さがあるでしょう」 それを可愛さと、女子は言うのか。 女の子の考えることはよく分からない。 しかもあれは喧嘩じゃない。 俺が一方的に切れて、天は馬鹿にしたように嫌みを言うだけだ。 圧倒的な力の差の元で、俺はきゃんきゃんと吠えて、天は軽くいなす。 対等な喧嘩なんて、出来やしない。 「藤吉はー?」 「え、俺!?俺は栞ちゃん一択でお願いします」 そりゃそうだ。 と思ったのが女子達は途端に顔を顰める。 「最低」 「変態」 「藤吉君、駄目だよ。栞ちゃんは彼氏持ちなんだから」 今まで散々自分達も言っていたくせに、それは関係ないらしい。 同じことを思ったのか藤吉が抗議する。 「ええ、俺だけ!?お前らも散々好き勝手言ってたじゃん!」 「藤吉が言うから駄目なの」 「ひどっ!本当にひどっ!なんとか言ってやってくれよ、宮守」 「俺、女性には逆らわないっていうのが今年の抱負なんだ」 「お前もひどい!」 「ごめんな、藤吉」 そんな風にじゃれあって笑っていると、部屋のドアがノックされる。 「お茶をお持ちしました」 「はい!」 いい匂いのするお茶を受け取ると、皆がいそいそとフォークを持ち始める。 きっと今日食べたケーキの味は、ずっと忘れないんだろうな。 そんなことを、ふと思った。 |