結局友人達は夕食まで食べていってくれてから、帰って行った。 明日は学校来いよ、なんて言ってくれて。 とてもとても楽しい食事だった。 父さんや母さんは忙しいらしくて別だったけれど、皆と食べる夕食はおいしくて、沢山笑って、まるであの旅行の時のようだった。 「皆、すごいな」 朝からどうしても暗く重かった心が、すっかり軽くなっている。 皆といると元気が出てくる。 あいつら、すごい。 笑うって、すごい。 沢山笑っていると、嫌な気分なんて、吹っ飛んでしまう。 後ろしか見えなかったけれど、少しだけ心が前向きになっている。 自分を卑下してばかりでは駄目だということを、改めて思い出す。 すぐに一兄に甘えて泣きごとを言うようじゃ、駄目だ。 もっと、もっともっと強くならなきゃ。 そんな気力が、湧いてくる。 トントン。 その時、静かに部屋のドアがノックされる。 誰だろうと思いながら、声をかける。 「はい。どうぞ」 「失礼いたします。三薙様」 「………あ、宮城さん」 宮守に長く使える、管理者としての仕事の一切を取り仕切る使用人の老人。 皺が深く刻まれた顔と深い鈍藍の野袴を身につけた小柄な体躯は、失礼だが猿を想像してしまうことがある。 常に控え目で出過ぎることがなく、俺達宗家、特に先宮を敬い傅く。 宮守に仕える人間の、本当に模範って感じだ。 この人が部屋まで現れる理由は一つ。 「先宮がお呼びでございます。急ぎ広間までおいでください」 「はい、分かりました」 広間、ということは父ではなく先宮としての呼び出しなのだろう。 俺は自分の格好に失礼がないかを簡単に確認してから、広間に向かう。 別に何を着ててもいいが、最低限の礼儀は守らなければいけない。 広間にいる時の父は、基本的に父でなく先宮なのだから。 母屋の中心に位置する広間の前まで来て、一つ息を吸う。 ここに来る時は、いつでも圧迫感を感じる。 「先宮、三薙です。お呼びとお聞きいたしました」 「入れ」 「失礼いたします」 許しを得て、襖を開ける。 だだっ広い広間の上座に、先宮たる父がいつもと同じ厳しい顔で座っていた。 襖の前で座り込み、頭を下げる。 それから、緊張しながら粗相のないように先宮の元へと急ぐ。 「呼びだてして悪かったな」 「いえ。何かご用ででしょうか?」 「ああ。まず、舞の稽古は順調か」 きゅっと胃が萎む思いだ。 次の謳宮祭では、大役を任されている。 失敗するわけには、いかない。 「………だと、いいのですが。お師匠様には叱られてばかりです」 「そうか。励めよ。謳宮祭は宮守の祭事でも重要な役割を占めるものだ。宗家のものとして、不様な姿だけは見せるな」 「はい、心得ております。恥ずかしい姿を見せぬよう、精進いたします」 「ああ、期待している」 期待、の言葉に、体がかっと熱くなる。 先宮に期待されるなんて、俺にはないことだ。 直接の仕事ではないが、祭事も管理者の家には大切なこと。 そうだ、これは、俺に出来ること。 役立たずの俺にも、出来ること。 「………はいっ」 「ああ」 頭を下げる俺に、わずかに表情を緩めて先宮も鷹揚に頷いた。 頑張ろう。 せめて、俺に出来ることを、頑張ろう。 しかし、その激励のためだけに、先宮は俺を呼んだのだろうか。 「あの、ご用事は、そのことでしょうか」 「いや、後二つある」 「はい、二つ?」 首を傾げる俺に、先宮またゆっくりと頷いた。 ここにいる父は、先宮であるためか、いつも以上の威厳と圧力を感じる。 ただ座っているだけでも、手に汗を掻いてしまうぐらい緊張する。 「まず一つ目。お前にまた仕事を頼みたい」 「え」 「今週末。金曜日から日曜日にかけての三日間。双馬と一緒に仕事に向かってくれ」 俺は思わず返事も忘れて目を瞬かせてしまう。 後ほんの一月もしたら謳宮祭だ。 俺としてはそちらに専念したいし、家としてもその方がいいだろう。 仕事は確かに俺の修練になるが、正直戦力には全くなっていないのだから。 「嫌か?」 「い、いえ。ただ俺は舞の練習もありますし、そう、役には立たないから……」 「お前のためにもなる依頼だ。舞も勿論、仕事の方も手は抜くな」 「は、はい。承知いたしました」 まあ、どちらにせよ、先宮の命に逆らうことなど出来やしない。 先宮には考えがあるのだろうし、宮守の家の者として、それは受け入れてしかるべきだ。 「次第は後で双馬か宮城に聞いておけ。そう難しい依頼ではない。お前は双馬について補佐をすればいい」 「はい。今回は双馬兄さんと一緒なんですね」 「ああ、あいつの仕事は特殊なものが多いから、それもまた勉強になるだろう」 「はい」 確かに双兄の能力のことを考えれば、一兄や四天とは全く違うものになるのだろう。 それは確かに、俺のためになるはずだ。 となると、双姉ともまた会えるのだろうか。 そういえば、父は双姉のことを知っているはずだ。 双姉のことをどう思っているんだろう。 一瞬聞いてみたい気がした。 「何かあるか?」 「い、いえ」 じっと見ていた俺に、怪訝そうに先宮が眉を潜める。 けれど、ここで聞ける訳がなく、俺は慌てて首を横に振った。 「では、もう一つ」 「はい」 これ以上、何を言われるのだろうか、と身構える。 けれど、父の口から出てきたのは、想像したどれでもない、意外な言葉だった。 「しばらく供給は一矢か双馬のどちらかに頼むように。二人の都合が悪い時は夕子か宮城が選んだ家人からしてもらえ」 「え」 それは、つまり、今までと供給方法を変えるということ、か。 俺は今まで、力を無尽蔵に持つ弟からの力の供給を義務付けられていた。 その義務が外れた、ということか。 いや、違う。 「四天にはしばらく供給はさせない」 「それ、は」 義務が外れた訳じゃない。 それが、禁止されたのだ。 「期限は定めていない。また私から何かあるまで四天には頼まないように」 それは、願ったり叶ったりの話だった。 たまに一兄から供給してもらったりしていたが、基本的に天に頼まなければいけなかった。 それが本当に悔しくて、屈辱で、嫌で仕方なかった。 けれど一兄や双兄の負担を考えれば、力を一番持ち合わせている弟に頼むことは当然のことだった。 でも、嫌だった。 自分より年下の、しかもあんな性格の奴に頭を下げて頼むことが、嫌で仕方なかった。 けれど、今更、なぜ。 「………それは、四天が、そう願ったのですか?」 「四天からは何も言われていない。これは私の判断だ」 そうは言われても、このタイミングでこの判断を下す理由は、あるはずだ。 想像して、一気に体温が冷えていった。 先宮は家の中で起きたことを全て把握しているようなきらいがある。 まさか昨夜のことを知られたのではと思うと、体が震えた。 「………俺と、四天の、間に、何があったか、って」 「詳細は聞いていない。だが、お前たちは少し距離を置く必要があると判断した」 「………」 本当かどうかは分からないが、とりあえずその言葉に体の力が少しだけ抜ける。 昨夜のことが知られてないなら、いい。 それなら、きっと一兄から先宮への報告があったのだろう。 俺と天が喧嘩して、俺が泣きわめいていた、という。 それでも、そんなこと今までいくらでもあった。 俺への供給が力に溢れた弟の仕事になってから、幾度も繰り返されていたことだ。 それが、今になって、なぜ。 「四天にも問題があるが、お前も四天への態度を少し改めろ」 唇を、噛みしめる。 確かに俺は天を忌避していた。 けれど、こんな事態になっている理由は、俺ではない。 天にある。 「お前は確かに人より不自由なことが多い体だ。一矢達に頼るところも多いだろう。それは変えることの出来ない事実だ。それを認め、その上で自分の為すべきこと、為さなければいけないことを考えろ」 「父さん、俺はっ」 思わず食いつくと、先宮はじろりと俺を見据えた。 その冷たい視線に背筋にぞわりと悪寒が走る。 慌てて頭を伏せる。 「………失礼いたしました。先宮」 「これは決定だ。下がれ」 「………はい」 そう言われたら、下がらない訳にはいかない。 俺は頭を深く下げて、その場を辞した。 落ち着かない気持ちのまま、庭に面した廊下に出る。 閉まっていたガラス戸を開くと、冬の冷たい風が強く頬を打った。 そっとそのまま、下駄をつっかけ庭に下りる。 「………寒」 細くなってしまった月はあまり光を地上に下ろさず、暗闇に沈む木々が揺れる様はまるで生き物のように感じる。 自分の家だと言うのに、昔から俺はどこかこの家に恐ろしさを感じる。 この暗闇の中に潜む色々なものの気配を感じるからかもしれない。 結局俺は、この家に馴染まない人間なのかな、なんてたまに考えてしまう。 「………っ」 頭を冷やしたくてうろうろと庭の奥まで来たところで、人影が見えた。 ぼんやりと庭の奥を見て、佇んでいる人間がいる。 暗がりの中、なぜかその白い肌は光り輝いて見え、浮かびあがった端正な顔はまるで人形のようだ。 その内に秘める白い力のせいかもしれないのだけれど。 それは、今、絶対に会いたくない人間にだった。 「………てん」 「何?」 天は俺が近づくのに気付いてたのだろう。 こちらを見ないまま聞いてくる。 「………」 「用がないなら、俺は行くね」 やはり普段と変わらない様子で、軽く肩をすくめて踵を返す。 そして俺の横を通り過ぎようとした時に、その白い頬が赤く腫れているのが見えた。 暗闇の中でも分かる、そのくっきりとした赤さ。 「あ、おい」 「何?」 思わず肩を掴んで引きとめると、天は面倒臭そうに眉をひそめた。 やはりその頬は、しばらくは痛むだろうぐらいに腫れあがっていた。 「こ、これ、俺がやった、やつ?」 「違うよ。兄さんの力の乗らない平手でこんなになるはずないでしょ」 天が馬鹿にしたように鼻で笑う。 こんな時でも嫌みな奴にイラつくが、なんとかその怒りを収める。 「………じゃあ、誰に」 「偉大なる先宮」 父さんが、天を殴った。 その事実に驚いて咄嗟に言葉が出てこない。 「………まさ、か、それって、俺の、せいで」 「違う。また勝手に悲劇のヒロインぶって落ち込まないで。なんでもかんでも兄さんが中心じゃないんだよ。面倒くさい」 「………」 自意識過剰だと言われて、顔がカッと熱くなる。 けれど、先ほどの先宮との話からして、そう思うのは当然のことだろう。 悔しさに唇を噛みしめると、天はつまらそうに鼻を鳴らして笑う。 「確かにきっかけは兄さんの話だったけどね。でもこれは別の仕事の話。俺のやり方が先宮の気に添わなかったらしいよ。ま、珍しいことじゃない」 珍しいことじゃない、と言われて再度驚く。 先宮が暴力的なことをするなんて考えられない。 例え怒られる時でも殴られたりすることなんて、ない。 先宮としての父は確かに恐ろしいが、それでも理性的に自分を律している人だ。 安易に暴力に走るなんて思えない。 言葉を失う俺に、天は楽しそうにくすくす笑う。 「言ったでしょ。父さんや一矢兄さんは俺にはスパルタだって」 それでも信じられなくて、ただ天を見つめる。 すると天は肩をすくめた。 「まあ、俺は強いから。期待されているんだろうね」 その言葉に、そんな場合じゃないのに、嫉妬がちりりと心を焼く。 確かにそうなのかもしれない。 俺は何をして駄目だから、怒る必要すら、最初からないのかもしれない。 わざわざそんなことを突きつける天が、憎らしくなる。 一兄にも父さんにも、卑屈になるのも、天に変な態度取るのもやめろと言われてるのに。 「それだけ?」 天は黙りこんだ俺に、さっさと帰りたさそうにおざなりに聞いてくる。 俺は怒りと嫉妬と悔しさを抑えて、聞く。 すぐに感情的になるから、駄目なのだろう。 だから、天はいつまでも俺のことを認めず、あんなことをするのかもしれない。 「………供給のこと」 「ああ、聞いた。ま、当然かな」 「お前、あの時のこと………」 「言ってないよ。安心して」 それには、心から安堵する。 あんな真似をしたことを、誰にも知られたくない。 今思い返すだけでも吐き気がする、おぞましい行為だ。 でも、なら、なんで、当然のこと、なのか。 「なら、なんで」 「兄さんを泣かせちゃったからじゃない?」 くっと馬鹿にしたように笑われて、顔が羞恥で熱くなる。 怒りで腹の中が煮える。 拳を握りしめて、その怒りを堪える。 「………俺のせいで、父さん達に、怒られたのか?」 「だからそれは兄さんのせいじゃないって」 本当に天は、いつも通りだ。 あんなことがあったとは思えないほどに、変わらない態度。 先宮からの命が下ったとも思えない、変わらない笑顔。 「ていうか、兄さんのせいって、兄さんは被害者でしょ?どう考えても」 「………」 そうだ、俺は被害者だ。 無理矢理意に沿わない行為を強いられた、被害者だ。 今回の件は、俺に何も非はないはずだ。 けれど加害者は悪びれることなく先を続ける。 「あのさ、兄さん」 「な、なに」 「兄さんが俺の怒るのは当然のことだと思うよ。俺を嫌うのもこれも当然。むしろ嫌わない方がおかしい。憎んでも当たり前」 そうだ、俺は天が嫌いだ。 天が憎い。 それでも、最近はそんな態度を改めて、近づこうと、していたのに。 天を理解したかったのに。 どうして。 どうして、こんなことをするんだ。 「なのに、どうして兄さんは、結局何もしないの?逃げ出すの?逃げ出すのでもいい。それならどうして、形振り構わず逃げ出さないの?」 「え」 加害者のあまりにも勝手な言い分に怒りすら湧いてこなかった。 そもそも、抵抗も逃亡も、封じたのは自分なのに。 「噛みちぎればよかった。目覚めてから殴り倒してもよかった。いっそ刺し殺してもよかった。何がなんでも死に物狂いで抵抗するべきだった。屈辱を与えた俺に徹底的に報復すればよかった。逃げ出すなら、こんな風に俺に話しかけるのもおかしい。俺だったら殺してる」 簡単に殺す、という言葉を口にする弟に不安と恐怖を覚える。 居心地の悪さと不快感。 それは子供が強がって言う言葉ではなく、心から覚悟を持って言っている言葉だろうから。 もう茶化す様子はない。 天は真剣な顔でまっすぐに俺を見つめている。 ただ、じっと、俺の答えを探るように、深い黒い瞳が、俺を見ている。 「ねえ、どうして兄さんは、何もしないの?何されてもいいの?」 俺はその言葉に、答えが思いつかなかった。 ただじっと暗闇の中に浮かび上がる、弟を見つめ返した。 |