気が付くと、そこは乳白色をした温かな世界だった。 「こんばんは、三薙」 「………双姉」 柔らかく澄んだ声で俺を呼ぶのは、白いワンピースを着た少し痩せぎすな長身の女性。 長い髪を軽く肩から払う仕草は、驚くほどに次兄にそっくりだ。 それはそのはず、だってこの人は双兄と双子なんだから。 「俺、寝ちゃったのか」 「そ。双馬に抱きつかれてね」 「もう………」 「ごめんなさいね。酒臭いでしょう」 「それに重いよ」 あの酔っ払い。 結局供給もしていない。 ため息をつく俺に、双姉が嬉しそうににっこりと笑う。 「本当にごめんなさい。でも、三薙に会えたのは嬉しいわ」 「………うん、俺も」 まあ、そのおかげで双姉と会えたことは俺も嬉しいんだけど。 双兄、なんか中々会わせてくれないし。 「ここって、術使ってなくても来れるんだ」 「ええ、相性とまあ、運がよければね。基本は術を使わないと駄目だけど。あなたは血が近いし、力の性質もね」 「そういうものなの?」 「うん」 双姉がひらりと手を閃かすと、居間にあるソファが現れる。 促されて隣に一緒に座った。 すぐにテーブルも現れ、お茶も出てくる。 この前双兄と一緒に飲んだ紅茶だ。 啜ると、匂いはしないはずなのに微かに甘い匂いと味がした気がした。 「ありがとう」 「どういたしまして」 「朝まで起きないかなあ、双兄」 「大丈夫よ、もうすぐ亮君が来ることになってるから」 「え、熊沢さんが?」 「あ、そうそう、熊沢さん」 「今さらいいいよ。亮君で」 俺がいないところでは亮君と呼んでいるらしい。 双姉がちょっとだけ顔を赤らめてはにかむ。 その照れた様子は、どきりとするほど色っぽくてかわいかった。 「一緒にお酒を飲む約束したみたい」 なんだか目を逸らしてしまうと、双姉がくすくすと笑って言う。 待てなくて先に飲んだのか。 それともあれ以上ガンガン飲むつもりだったのか。 さすがに体が心配になる。 「双兄、なんかあったの?なんか様子おかしくない?」 「うーん、色々悩みが多いみたいね。まだ若いし」 「双姉だって一緒じゃん」 「私はほら、お姉ちゃんだから。弟をちゃんと面倒みてあげなきゃ」 この二人はどっちもお互いが上だと言って譲らない。 でも確かに、双姉の方がしっかりしていて、お姉ちゃんに感じる。 それでも、胸を張る双姉がおかしくて笑ってしまう。 「双子なのに」 「でも私がお姉ちゃん!」 「あはは、それで熊沢さんがお兄ちゃん?」 俺がからかうように言うと、双姉は一瞬驚いた顔をした。 それから手で口元を覆って大きく頷いた。 「そうよ。亮君が、お兄ちゃん」 それはとてもとても嬉しそうな笑顔。 双姉が本当に、熊沢さんのことが好きなのだと伝わってきて、ちょっとヤキモチを妬いてしまいそうになる。 双姉とこんなに仲がいい熊沢さんが羨ましいのか、それともこんな風にお互いを大事に思えるのが羨ましいのか。 「熊沢さんと、双姉達って、どういう関係なの?」 「関係って、幼馴染よ?」 「すごい仲がいいよね」 「ふふ、そうかな。小さい頃、私達の遊び相手として連れてこられたのよね。父さんも母さんも兄さんも忙しいしね。それに双馬は今よりずっと内気で大人しい子だったから」 「そうなの!?」 今の傍若無人な態度からは想像がつかない。 俺が物心ついたころには、すでにあの性格だった。 散々苛められて泣かされてきたのだ。 双姉が俺の反応に楽しそうに頬を緩ませる。 「ほら、私がいたでしょう。だから一人で話したり、感情が二つあるけど、誰にも分かってもらえないから混乱が抑えきれずに奇妙な行動とったりね。友達も少なかったのよ」 「………」 一つの体に、二人の人間。 確かにいるのに、誰も知ることはない、存在。 それは、幼い双兄と双姉にはさぞ辛かったことだろう。 誰にも理解されないのだから。 「それでね、父さん達が心配して年の近かった亮君を遊び相手としてつけてくれたの」 双姉がソファの上に足をのっけて、体育座りで膝を抱える。 「私の存在を一番初めに分かったのは兄さんだけど、おかしいって気付いたのは、亮君だったのよ。双馬の中には双馬じゃない人がいるって、兄さんに言ってくれたの」 「そうなんだ!」 「ええ。それで初めて、双馬以外が、父さんも兄さんも私の存在を知ってくれたの」 双姉が懐かしそうに目を細める。 それはそれはとても幸せそうで、やっぱりなぜだか胸がちくりと痛む。 「それからずっと、双馬と私にとって、亮君はお兄ちゃんよ」 「………そっか。いいなあ」 「いいでしょ」 得意げに胸を張る双姉。 その子供のような威張り方に噴き出してしまう。 熊沢さんの存在は、俺が思うよりもずっとずっと双姉達にとって大きいのだろう。 「一兄とはそんなにあまり遊ばなかったんだ」 「忙しかったから、仕方ないわ」 「でも、熊沢さんがいるから、寂しくなかった?」 「ええ、寂しくなかったわ。とても楽しかった。それに三薙も四天も生まれたわ。貴方達と遊べるようになる頃には、私達もうまく折り合いをつけられるようになったしね。楽しかったわ、とても」 俺は双姉の存在を知らなかったけれど、それでも楽しかったのだろうか。 子供の頃に双姉のことを知ることが出来たらもっと楽しかっただろうに。 双姉が悪戯っぽく指を一本立てて片眼をつむる。 「今の話は内緒よ?双馬が小さい頃弱虫毛虫だったなんて絶対知られたくないと思うから」 「でも、この世界のことは知られてるんじゃないの?」 「今は完全に眠っているから平気。眠ってる時は、こっちに意識も配れないの」 「そっか。じゃあ、内緒だね」 「ええ、内緒」 お互い指を立てて、くすくすと笑う。 双兄には内緒の、双姉との話。 なんだかとてもくすぐったい。 「それにしても、双兄、大丈夫かな」 「そうねえ。もう少ししたら、多分立ち直ってくれると思うけど」 「………平気?」 双姉は少しだけ困ったように眉を潜めて首を傾げる。 それこそ、泣いている弟を見てやれやれというように。 「双馬は、ちょっと弱いところがあるから」 「そう、なの?」 「ええ。強がってはいるけれどね、これも内緒よ」 確か熊沢さんもそんなことを言っていたっけ。 双兄は繊細だから悩みやすいって。 「………そういえば、双兄、一兄や熊沢さんみたいに強くなりたいって言ってたっけ」 「一矢兄さんは強いから。私達はあんな風にはなれないわ」 「うん、一兄は強いよな。なんでも出来るし」 「ええ、本当に強い人だわ」 尊敬してやまない長兄。 強くてかっこよくて頭がよくて優しくて、なんだって出来る。 言葉に出すのは恥ずかしいけれど、俺の憧れで、理想。 一兄は強くて、双兄は弱い。 俺もそして弱い。 「………天は?」 「え、四天?」 「四天も、強いよね」 何も寄せ付けない白い力を持つ弟。 まだ子供のくせに誰よりも冷静な行動と判断力。 そしてなによりも強大なその力。 「そうねえ、確かに強いわ」 双姉は考えるように視線を彷徨わせて頷く。 「でも、私もあまり話したことある訳じゃないからなんとも言えないんだけど」 「うん?」 「前にも言ったことあるけれど、私は四天がどこか脆くも見えるのよね」 「もろ、い?」 天からは連想できない言葉。 誰よりも強くて、誰よりも尊大な弟。 脆いなんて言葉、似つかわしくない。 けれど双姉はもう一度頷く。 「そうね、よく研ぎ澄まされた日本刀みたいな感じかしら。なんでも切ってしまうほどに鋭くて強いけれど、変な力の入れ方をしたらぐちゃって曲がっちゃう、みたいな。うまく力を入れていれば鋭い切れ味なんだけどね」 「え」 「兄さんは、海外の大剣、かな。切れ味は鈍いけれど強く重くすべてを寄せ付けず叩き伏せていくって感じかしらね」 「………」 俺には考えられない二人のイメージ。 一兄が海外の大剣というのは、分からないでもないだろうか。 いや、でも俺の中では二人とも日本刀のような気がする。 打刀ではなく、剣の形を持つ、強く粘りのある刃。 二人がいつも使っている剣のように。 「まあ、私の勝手な感想よ。あまり気にしないで」 俺が考え込んで眉を潜めたのを見て、双姉が笑う。 そして優しく肩を引き寄せられて頭を撫でられた。 「三薙はいい子ね。いい子。大好きよ」 いい子いい子と言われて頭を撫でられるのは子供扱いのようで恥ずかしい。 「ちょ、やめてよ」 「まあ、かわいくない!」 「その言い方、双兄そっくり!」 双姉は俺の抗議にけぶるように笑った。 「私がちゃんと生まれてきていれば、誰も悩まなかったのかしらね」 「………双姉?」 「ああ、そんな顔しないで。ごめんなさい」 双姉の言葉に胸がズキズキと痛む。 儚い笑い方も、哀しくて、嫌だ。 明るい双姉にはいつでも笑っていてほしい。 それも、俺の我儘かもしれないけれど。 「双馬は大丈夫よ」 そしてそっとその白い指で、俺の額をつついた。 ぐらりと世界が揺れて、急激に乳白色の世界が遠ざかって行く。 「さあ、亮君が来たわ。また来てね。待ってるわ」 「そ、双姉!?」 「大好きよ、三薙。お休みなさい」 その言葉を最後に、ぷつりと世界が消えた。 「大丈夫ですか、三薙さん?」 「………あ、くま、さわさん」 目を開けると、心配そうにのぞき込む熊沢さんの顔があった。 痛む頭を抱えて起き上がり、辺りを見回す。 散らかり放題散らかった、汚い部屋。 そして隣ですやすやと眠る、酒臭い双兄。 「あ、どかしてくれたんだ」 「どっかり乗ってましたねえ。重かったでしょう」 「それに酒臭かった」 顔をつい顰めると、熊沢さんが声を上げてわらう。 「あーあー、こんなに飲んで」 サイドテーブルに置いてあったワインボトルの中身は残り10センチほどを残すのみだ。 熊沢さんがボトルを取りあげて肩をすくめる。 「双兄、なんか悩んでるみたい、だけど」 「みたいですねえ。まあ、まだまだ悩み多き年頃ですしね」 軽く言われて、少しだけショックを受けた。 熊沢さんはもっと双兄を心配してくれると思っていた。 「心配じゃないですか?」 「心配ですよ。でも、子供みたいに何から何まで手をとってあげる訳にも行きませんしね」 少しだけ咎めるように言ってしまうと、熊沢さんは苦笑する。 その言葉に、恥ずかしくなった。 確かになんでもかんでも心配してやってあげるというのは、その人のためではないかもしれない。 あからさまに心配してないからといって、その人を大事に思っていない訳ではない。 俺の失礼な言葉に、けれど熊沢さんは優しく笑った。 「三薙さんは本当にご兄弟を大事に思ってらっしゃるんですね」 「………家族だし、普通です」 「ふふ」 熊沢さんが楽しそうに目を細めるが、何も言わなかった。 そしてすぐに話を変える。 「供給は出来たんですか?」 「いえ、その前につぶれちゃって」 「そうですか、俺がしましょうか」 少しだけ、考える。 供給は早めにしないと駄目だろう。 ぶっ倒れるほどではないが、かなり体がだるいのは確かだ。 「………いえ、大丈夫です。ありがとうございます」 けれど、やっぱり熊沢さん達にやってもらうのは気がひける。 人に対して完全に無防備になるのだ。 家族以外に、あんな姿を見られたくない。 「おや、ふられてしまいました。俺では駄目ですか………」 「そ、そういう訳ではなく!」 「俺は三薙さんにとって不要なんですね………」 「熊沢さんもお疲れでしょう。明日にでも誰かに頼みます」 「遠慮しなくていいですよ?いつでもどんとこいです」 「いえいえいえいえ、大丈夫です」 わざとからかっていると分かっていても、つい焦って首を横に振ってしまう。 俺の慌てた態度が面白かったのか、熊沢さんがくすくすと笑った。 けれどすぐに真顔になって付け加える。 「辛かったらいつでも言ってくださいね」 「はい、分かりました」 本当に優しい人だ。 明日になって双兄も一兄も捕まらなかったら、嫌でも誰かに頼まなきゃいけない。 母さんか使用人の誰かかになるが、やっぱりどちらも本当に気がひける。 そのどちらかを選ばなきゃいけないのなら、熊沢さんがいいな。 もしくは志藤さんかな。 「じゃあ、早めにお休みください。俺は双馬さんを布団に突っ込んでから寝ます」 それもそうだろう。 手伝おうかと思ったが、布団をかけるだけだ。 俺がやるより熊沢さんがやったほうが双兄も双姉も嬉しいだろう。 「お願いしていいですか?」 「ええ、勿論です」 「ではお言葉に甘えます。ありがとうございます。では、部屋に戻ります」 「はい、お休みなさい」 「お休みなさい」 部屋を出る前に、布団を直している熊沢さんを振り返る。 「あ、双姉に会いました」 「おや、それはあっちの双馬さんも喜んだでしょう」 「ええ」 優しい双姉。 そして双姉の大好きな優しい熊沢さん。 その関係は酷く切ないけれど、でも、温かい。 双姉が好きな人がいて、よかった。 双姉を大事にしてくれる人がいて、よかった。 「熊沢さんはお兄ちゃんだって言ってました」 熊沢さんが振り返って、にっこりと笑う。 とても優しく。 「それはとても嬉しいですね」 その顔を見届けて、もう一度熊沢さんに就寝の挨拶をして部屋から出る。 時計を見るともう日付は変わっていた。 静まり返った廊下は、トレーナーを着ていてもやっぱり寒くて一つ身震いをする、 早いところ部屋に戻ろう。 俺の部屋は双兄の部屋からの廊下の先。 小走りでかけぬけようとすると、角からゆらりと影が見えた。 家の誰かとは分かりながら、一瞬驚いて足を止めると、その人は俺に気付いて声をかけてくる。 「三薙か」 よく響く深みのある低い声。 その人は、袴姿の宮守家の当主だった。 「と、父さん」 思わぬ人が現れたことで、声が上擦ってしまう。 父さんは俺の驚きに驚いたらしくて、目を丸くした。 「どうした、何を驚いている」 「あ、いえ、こんなところで会うとは思わなかったから」 「こんなところって、家の中だろう」 「そ、そうなんだけど」 それはそうだ。 家の中に父さんがいるのは何もおかしくない。 ただいつも会うのは広間とか食事を取るリビングとか決められて予告された場所だけだから、その他の場所で会うとなんだか不思議な感じだった。 「おかしな奴だな」 動揺している俺に、父さんは厳めしい顔を少しだけ和らげた。 尊敬しているし好きなのだが、どうしても父さんの前だと緊張してしまう。 その威厳は、空気すらピンと張り詰めるようだ。 父さんが近寄ってきて、俺の頬に触れる。 「体は大丈夫か。随分力が失われているようだ」 力が足りてないのは、すぐ分かってしまったらしい。 バツが悪くて、言い訳をしてしまう。 決して怠っている訳ではないのだ。 「あ、今双兄にしてもらおうと思ったんだけど、色々あって、明日にしようかと」 「双馬がいないのか?」 「いえ、そういう訳じゃないんです、けど」 酔い潰れているとは、なんとなく言いづらい。 それで双兄が怒られても、後味が悪いし。 「あ、父さん、大丈夫なの?」 誤魔化すように話を変えると、父は不思議そうに首を傾げた。 「何がだ?」 「えっと、この前、なんか侵入者が、いたでしょ?」 あの心を掻きまわして汚されるような叫び声。 あれを聞いた時は、父さんに何かがあったのだと本当に思った。 実際は父さんにはかすり傷一つなかったんだけど。 それでなんのことか思い立ったのだろう、父さんは大きく頷いた。 「ああ、言っただろう。大丈夫だ。何も心配することはない」 「………そう、ですか」 あの後、父さんは皆を集めて侵入者は無事捕えて祓ったと告げた。 すぐに飛び出して行った一兄と四天も、それを肯定した。 それで終わりだった。 どんな侵入者だったのかとかは、教えてもらえなかった。 そもそも、たまにそういうことがあるなんて、俺は全く知らなかった。 その理由を今ここで、父に問うのは問題ないだろうか。 「お前も大きくなったな」 「わ」 考え込んでいると、突然頭を撫でられた。 大きなその手は一兄と同じようで、けれどやっぱり違う。 滅多に父さんにこんな風にされることがないので、更に動揺してしまう。 「な、何突然!?」 「いや、改めて大きくなったな、と」 父さんは俺の動揺がおかしかったようで、小さく笑う。 それからぽんっと軽く頭を撫でて、離れる。 「お前の体は確かに人とは違い不便が多い。それでもお前は負けずに心が強い。あまり腐らず励めよ」 「あ、え、と」 久々にあった父の、いきなりの行動と、いきなりの言葉。 俺の小さい頭では処理しきれずにショートしてしまいそうだ。 「自分を卑下する必要はない。そのままで頑張ればいい」 けれどその優しい眼差しに、じわりじわりと全身が熱くなっていく。 「は、はいっ」 顔がきっと真っ赤になっているだろう。 父さんにこんな風に褒めて励ましてもらうことなんて、そうはない。 くすぐったくて、でも嬉しくて、叫び出したくなってしまう。 父さんが俺の返事に表情を和らげた。 「一矢が帰ってきているはずだ。早めに供給しておくといい」 「で、でも、一矢兄さんは、忙しいし」 「それくらいなら大丈夫だ。あいつもそんなヤワな鍛え方はしてない」 「は、はい」 当主たる先宮にそこまで言われると、固辞することも出来ない。 何より父さんが俺を心配してくれるのだ。 一兄にはとりあえず言ってから駄目なら明日お願いすればいい。 「それじゃあ、一兄のところ、いきます」 「ああ、そうするといい」 最後に父さんはもう一度だけ俺の頭を撫でてくれた。 |