「はい、今日はこれまで」

お師匠様が扇を閉じる音が響いて、それが稽古の終了の合図となった。
本番が近付くにつれ指導の厳しさは日々増していき、今日も終わるころには精神的にも肉体的にもへとへとだ。
けれど、最後の気力を振り絞って、栞ちゃんと五十鈴姉さんと俺の三人は深々と頭を下げる。

「ありがとうございました」
「皆さん、もう後二週間もなく、謳宮祭です。気を引き締めてかかるようにね」
「はい」

お師匠様自体も疲れているだろうに、そんな様子は全く見せずに穏やかに笑っている。
その笑顔が威圧感を感じて余計に怖いのだが。

「でも、皆さんの舞ならきっと奥宮にもご満足いただけるわね」

三人とも驚いて一斉に顔を上げる。
お師匠様が褒めてくれるなんて、そうないことだ。
喜びがふつふつと浮かんできて、泡のようにはじけていく。
疲弊した体に力が沸いてくるような気がする。

「最後まで精進を重ねれば、ですけどね」
「は、はい」

けれど最後の最後でやっぱり喜んだままにはさせてくれない。
しっかりと釘をさされて、俺達三人は同時に素早く頭を下げた。



***




「っこらせ、っと。疲れたあ」

二人を送る車の手配が整うまでの間お茶をしようということになり、居間にやってきた。
くたくたの体をソファに投げ出した途端、思わずため息が漏れてしまう。
俺の年寄りじみた言葉に、栞ちゃんがくすくすと笑う。

「三薙さん、おじさんくさいですよ」
「だって、疲れただろ?」

どっかりと背もたれに倒れ込むと、五十鈴姉さんが苦笑して頭を軽く叩く。

「もう、三薙ちゃん、まだ若いんだから」
「だって、しんどくて」

体を覆う倦怠感は、動くのすら億劫になる。
稽古疲れもあるが、力が足りなくなってきていた。
ついこの間供給したばかりだったと思ったのだが、すでにそろそろエンプティだ。
軽い喉の渇きを覚えて、苦しい。

「大丈夫ですか?」
「あ、平気、まだ若いから。二人は平気?」

栞ちゃんが心配げに眉を潜めるから、すぐに笑顔を作って軽口を叩く。
なるべくなら、心配はされたくない。
栞ちゃんもにっこりと笑って返してくれた。

「まだ若いですから」
「あら、そしたら私が若くないみたい」

一番の年長者がちょっと口を尖らせて拗ねるから、二人で笑ってしまった。
勿論冗談だったらしく、一瞬後に五十鈴姉さんも笑う。
しばらくそんな他愛のない話をした後、ふと、五十鈴姉さんが切りだした。

「そういえば、今日は、一矢さんはいないのかしら」

何気なさを装ってはいるが、明らかにそわそわとして落ち着かない。
その分かりやすい態度は、なんだか微笑ましくなってきてもしまう。

「仕事で忙しいみたい」
「………そう」

がっくりと肩を落として、哀しそうに顔を歪める。
一件綺麗で冷静そうな大人の女性なのに、行動がどこか幼くて可愛らしい。
ついに俺と栞ちゃんは同時に噴き出してしまった。

「な、なあに?」

五十鈴姉さんが俺達が笑い始めたので、慌てて顔を上げる。

「いやあ、五十鈴姉さんって分かりやすいなって、ね、栞ちゃん」
「はい、かわいいですね、三薙さん」
「もう、何なの二人とも!変なこと言わないの!」
「一兄も罪つくりだなあ」
「一矢さんは本当にモテますよねえ」

ここぞとばかりにからかいまくる俺達に、五十鈴姉さんは顔を真っ赤にした。
握り拳を作って、小さく震えながら抗議する。

「か、一矢さんは別にそういうんじゃなくて、ただ、小さい頃からよくしてもらったお兄ちゃんっていうか、そういう……」
「はいはい」
「分かってますよ」
「もう!」

とうとう怒ってそっぽを向いてしまった。
そんな行動一つ一つがやっぱりちょっと幼くて、見た目とのギャップもあるからかわいいなあと思う。
本当に一兄ってモテるよなあ。
羨ましくてちょっとムカつく。

「ごめんごめん、五十鈴姉さん」
「ごめんなさい」
「知らない!」

拗ねてしまった五十鈴姉さんに、俺と栞ちゃんは顔を見合わせて苦笑した。
ちょっとやりすぎてしまったかもしれない。
まあ、五十鈴姉さんはこんなことで本当に怒ったりはしないんだけど。

「でも、一兄、五十鈴姉さんには優しいかも」
「はい、確かに」
「だから、二人ともからかわないの!」

でもやっぱり反応がかわいくて、車が用意されるまでの間、俺と栞ちゃんは五十鈴姉さんをからかい続けるのを止められなかった。



***




「双兄、いる?」
「あー」
「入るよ?」
「あー」

夜が更けて、寝る準備も整った頃に次兄の部屋を訪れた。
気のない返事に、いつものように勝手に入り込んでしまう。
そして部屋に入った途端、鼻をつく甘い臭気。

「うわ、酒くさ」
「よお、みつ!いい夜だな!」

相変わらず散らかり放題散らかっている部屋の奥のベッドで、双兄はワインボトルを抱えていた。
ワイングラスとかではなく、コップにドボドボと注いで飲んでいる。
ワインってあんな風に飲むものじゃないだろうに。

「部屋でも飲んでんの?しょーがねーなー、もう」

外で飲んでくるのはよくあることだが、あまり家で飲んでいるところを見ることはない。
まあ、部屋とかで飲んでて俺が知らないだけかもしれないけど。

「なんだとお、お兄ちゃんは成人してるんだろう!飲もうが飲むまいが問題ないだろう!」
「飲み過ぎはいくつでも駄目!」
「まあ、かわいくない」

言いながら、ぐびぐびとまたワインを水のように煽る。
ワインの価値なんて分からないけれど、なんだかもったいない飲み方だ。
あれ、高い奴じゃないのかな。

「三薙君はいつからこんなに可愛くなくなっちゃったの。昔は双馬お兄ちゃん大好きー!結婚するーとか」
「言ってないから!」
「言われてもお断りだ!」
「じゃあ言うな!」

双兄が空になったコップにワインを注ぎながら愚痴愚痴と言っている。
完璧に酔っぱらっているらしい。
近づきたくないな。
供給してもらわないとまずそうだけど、他の人に頼もうかな。
でも、一兄は忙しいし、母さんにやってもらうのもなんだかこの年になると恥ずかしい。
そして使用人の人達にやってもらうのは気が引ける。

「まったく、生意気なんだから。ほら、こっち来なさい!」
「え、な、なんで」
「いいから」

逃げようかどうしようか迷っていると、手招きをされてしまった。
コップをもったまま手招きされてると、ベッドにこぼしそうで怖い。
ここで逃げるとなんか言われそうだから、仕方なくベッドに近づく。
すると双兄は顎でベッドの上を刺す。

「ここに座りなさい」

俺は双兄の手からさりげなくワインボトルとコップを奪い、サイドテーブルに置く。
とりあえず文句は言われずにすんだ。

「ほら、座りなさい」
「………」

それからなんだか双兄の前でベッドで正坐。
なんだこの状況。

「いいか、三薙。お前に言うことがある」
「………はあ」

双兄はアルコールでやや血走った目で、じっと俺を見つめてくる。
その表情は真剣そのものだ。

「お前はお兄ちゃんをもっと敬うんだ!」
「いきなりそれかよ!」

しかし言ってることはいつも通り馬鹿だ。

「お兄ちゃんの言うことにはまずはいって言いなさい!ついでに酒を注げ」
「やだよ!」

色々な意味でお断りだ。
これ以上飲ませたらこの人はどうなってしまうのだろう。

「また口応え!まあ、かわいくない!年長者は敬えって古くからの言葉を知らないのか!」
「一兄は敬ってるよ」

俺だって敬うべき人は敬っている。
父さんや一兄に対しては最上位の敬意をはらって接しているつもりだ。
まあ、一兄には結構甘えちゃってるんだけど。

「………」
「双兄?」

双兄はぴたりと騒ぐのをやめて、じーっと俺を見てくる。
それから大きくため息をついた。
かかる息が酒臭くて気持ち悪い。

「お前は、ほんと兄貴大好きだよなあ」
「あ、な、いや、えっと」

確かにそうなのだが、ストレートに言われると照れくさい。
この年になって兄弟を好きだというのがちょっと変だと言うことぐらいは分かる。
それでも年の離れた兄は完璧すぎて、尊敬せずにはいられない。

「そうだよなあ、お前は兄貴に可愛がられてたもんなあ」

双兄がしみじみと言いながら前倒しになり、俺の肩に頭を預けてくる。
ずっしりと重い頭は、酔っているせいか熱い。

「双兄?」
「兄貴は、ほんと、よく出来た男だしな」

俺の肩のあたりでぼそぼそと言っている。
酔っ払い特有の舌足らずな言い方が、なんだか頼りない。
さっきまでのテンションの高さとは雲泥の差だ。

「まあ、一兄は、なんでも出来るけど」
「お前本当になんつーか、兄貴至上主義だな。可愛がられるとこうなるんだな」
「そ、双兄だって、可愛がられてるだろ?」
「まあなあ。でも俺兄貴怖いしなあ」
「双兄が変なことしなければ一兄だって怒らないよ!俺にだって意地悪ばっかりだしさ!」

なんだか自分が甘えただと言われているようで、恥ずかしい。
確かに双兄や四天に比べると、俺は体のこともあり一兄に甘やかされていただろう。
俺が照れ隠しついでに抗議すると、双兄はがばっと顔を上げた。

「生意気な!お前があまりにももやしだったから俺が鍛えてやったんだろうが!」
「余計なお世話だ!」

確かに池に突き落とされたり、塀に登らされたり、喧嘩されられたり、虫と闘ったり、双兄のおかげで色々と鍛えられた。
まあ、鍛えるとかじゃなくて、絶対楽しんでやっていただけだろうけど。
双兄が再度の俺の肩に頭をぼすっとのせた。

「俺は、いい兄貴かなあ」
「双兄?ほんとどうしたの?飲みすぎじゃないの」

そして、また頼りない口調に戻る。
さっきからテンションのアップダウンが激しい。

「お前や四天からしたら、俺って頼りないよな」
「………」
「俺もさ、兄貴とか亮平みたいに強かったらよかったのにな」

本当に酔っているらしい。
俺の前で、熊沢さんを名前で呼ぶことなんていつもはない。

「ごめんなあ、駄目兄貴で」
「………」

どうしたんだろう。
でも、なんだか本当に落ち込んでるらしい。
この前から、様子変だったし何か悩んでいるのだろうか。

「………双兄は」

こんな頼りない次兄を見ることはあまりないので、心配になってくる。
双兄にはいつも堂々としてふざけて笑っていてほしい。

「双兄は、意地悪だけど、でも、木のぼりとか喧嘩の仕方とか、トランプゲームのズルの仕方とか、そういうの、教えてくれて、かっこよかったよ。今だって、一兄とかじゃ絶対連れて行ってくれないお店とか連れてってくれるし、一兄とは別だけど、でも」

いつだって自信満々で適当なことばっかり言っている二番目の兄。
長兄は俺を守って導いてくれる父のような存在だった。
次兄は俺と同じ目線で遊んで、でも頼れる存在だった。

「尊敬してるし、いつも、その………」

さりげないところでフォローしてくれたり、俺に色々な世界を見せてくれた。
一兄や家の人間からは絶対教わらない様々なことを教わった。

「遊んでくれて、感謝してる」

一兄も大好きだが、双兄は一兄よりも近しく感じる。
より近い、兄だ。

「………」
「………双兄?」

双兄が黙りこんでしまった。
そのまましばらく動かない。
もしかして眠ってしまったんだろうかと思うぐらいの時間の後、ぼそっと言った。

「………みつ」

そしてゆっくりと顔を上げて、俺の顔をじっと見つめる。

「お前、恥ずかしい奴だな。よくもまあ、そんな恥ずかしいことを真顔で」
「なっ」

人がせっかく真面目に返した言葉を茶化される。
いつものこととは言え、恥ずかしさで腹が立ってくる。

「お、俺は、双兄がなんかへこんでるみたいだから!」
「分かった分かった。三薙は双馬お兄ちゃんが大好きなんだな!よっく分かった!よし、愛しの弟よ、お兄ちゃんに存分に甘えるがいい!」
「人がせっかく真剣に答えたのに、なんなんだよ、本当に!」

これだから真面目に答えると馬鹿を見るんだ。
珍しく落ち込んでいるようだったから、心配してたのに。

「いやいや、分かった分かった。さあ、お兄ちゃんの胸に飛び込んでおいで」
「って、双兄がタックルしてんなよ!」

飛び込んでおいでといいながら、飛び込んできたのは双兄だった。
体当たりする勢いで両手を広げ覆いかぶさってくる。
細いけれど大きな体は支えきれず、ベッドに双兄ごと倒れ込んだ。
スプリングが効いているから痛くなくてよかった。

「何すんだよ!」
「………ありがとうな、三薙」

抗議をしようとしたら、小さく顔の横で囁かれた。
上にのっている体はずっしりと重く熱い。
それにしても、本当にどうしたんだろう。
いや、酔ってるんだろうけど。

「双兄?」
「………」
「双兄、どうしたんだよ、本当に」

背中をぽんぽんと叩いて、返事を促す。
そして、聞こえてきたのは穏やかな呼吸。
すーすーと耳元に響いているのは明らかな寝息だった。

「え、ちょ、双兄、寝てるの!?え、嘘、ちょ、重い、重!双兄!」

いつのまにか眠ってしまった次兄は、俺をしっかりとホールドしていた。





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