学校から帰ってきて、離れ座敷にこもるまではまだ少し時間がある。
すぐには、行きたくない。
あそこは何もすることがなくて退屈だし、何より色々考えこんでしまう。
藤吉と槇と話して気は少し晴れたが、また暗くなってしまいそうだ。

「………」

誰かと、話がしたい。
何を、かは分からない。
でも、話がしたい。
携帯を取り出し、少しの間考える。

藤吉は、でも、また愚痴になってしまう。
岡野の明るい声が聞きたいけど、何を話せばいいのか分からない。
聞くだけで元気になれそうな気もするけど、気が緩んで変なこと言ってしまっても嫌だ。

「………そうだ、天に電話した方がいいかな」

何かあったら電話してくれと言われていた。
今回の儀式で、もしかしたら天の体にも影響が出るかもしれない。
それなら言っておいた方がいいだろう。

そういえば、天は今回の儀式のこと、知っているのだろうか。
知っている気はするけど、言う必要はないだろうか。
でもどちらにせよ、天になら心おきなく話せる。
仕事中だし、またきついこと言われるかもしれないが、事情は分かってくれている。

携帯の電話帳を呼びだし、四天と書かれてある欄を選び出す。
送信を選択して押し、耳に押し当てる。

「おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が切られている為……」

圏外、か。
仕事中だし電源を切っているのかもしれない。
それなら、仕方ない。
でも小さく落胆してしまう。

「………誰かと、話したいな」

誰か、事情の分かってる人と話したい。
変なこと言ってしまっても、問題ない人と話したい。
それなら、やっぱり、双兄か。
下品な冗談を言われるかもしれないけど、気が紛れそうだ。

もう時間は後少ししかない。
部屋から飛び出して、双兄の部屋に向かう。
すぐ傍にある部屋に辿りつきノックをするが、中から反応はなかった。
出かけているのだろうか。
携帯に電話してみようか。

「………三薙様?」

双兄の部屋の前で立ちつくしていると、低くしわがれた声に名前を呼ばれた。
気配を全く感じなかったのでびくりと飛び上がる。

「あ、宮城さん」
「双馬様に何かご用事ですか?」

声の方を向くと、そこには小柄な老人がひっそりと立っていた。
相変わらず全く気配を感じない人だ。
心臓に悪いからやめてほしい。

「あの、宮城さん、双馬兄さんは今家にいますか?」
「いいえ、まだお帰りになられていないようです」
「………そう、ですか」
「何か双馬様にご用事でしたか?」
「あ、いいえ、その、ちょっと話がしたくて」

用事、なんてものはない。
ただ、話したかっただけだ。
双兄の明るくていい加減な発破を聞きたかった。

「本日は潔斎に入る日。あまり、お心をお乱しになられませんように」
「は、い」

そうだ、宮城さんは、儀式の事を知っているんだ。
急に全てを見透かされている気になって、恥ずかしくなる。
この人は、俺と天があんなことをしたことを知っているんだ。
これから一兄とすることも知っている。

「ありがとうございました。失礼します」

考えていると耐えきれなくなって、断ってから歩きだす。
宮城さんは深々と頭を下げて、俺が通り過ぎるまで待っていた。
駄目だ、宮城さんのあの静かな目で見られていると、いたたまれなさが増す。

でも、自室にはまだ戻りたくない。
誰かと話したい。
事情を知っている人って、誰がいたっけ。
父さんや宮城さんとなんて話せない。
一兄も今は、ちょっと話したくない。
双兄も天もいない。
誰も話す人なんて、いないだろうか。
いやこれ以上いても困るんだけど。

「あ、熊沢さん」

そこであと一人、儀式の存在を知っている人を思い出した。
そうだ、熊沢さんだったらいい。
双兄と同じように明るく朗らかに話を聞いてくれるのではないだろうか。

ただ当てもなく広い家を歩いていたが、方向を変える。
家住みの使用人たちが住んでいる一角へと。
管理者としての仕事を手伝っている人は何人かいるが、家に住んでいるのはほんの少数の人だ。
宮城さんと熊沢さん、そして最近になって志藤さん、後二人ほどだっただろうか。
家の中心から遠い、廊下で繋がった離れのようなところに、使用人部屋はある。
熊沢さんの部屋をノックすると、すぐに返事は帰ってきた。

「はい、どなたですか?」

よかった、いてくれた。
ほっと、息をつく。

「あの、三薙ですが、今よろしいですか?」
「三薙さん?お待ちを」

すぐにドアは開かれ、私服姿の熊沢さんが面白そうに笑って首を傾げる。
いつも通りの飄々とした表情に、なんだかすごく安心する。

「どうしたんですか?こんなところまでお珍しい」
「すいません、お忙しいところ」
「いえいえ、大丈夫ですよ」

ここに立ち入ることは基本的に禁止されているので、確かに珍しいだろう。
俺も、熊沢さんはスーツ姿を見ることが多いので、私服姿は新鮮だ。
いつもよりなんだか若く見える。
今日はお休みなのだろうか。
熊沢さんが俺を見下ろして不思議そうに問う。

「双馬さんですか?呼び出しますかね」
「あ、いいんです。ちょっと、誰かと話したくて」
「はあ」

俺が熊沢さん単独に話に来ることなんてないから、ますます不思議そうに瞬きをする。
迷惑かもしれないけど、でも、少しでいいから話したかった。

「あの、お忙しかったらいいんですが、お時間があったら、ちょっと話してくれませんか?ご迷惑かもしれないんですが」
「いえいえ、俺をご指名ですか?喜んで」

けれど熊沢さんは理由も聞かずあっさりと頷いてくれた。
この人のこういうところは、本当にすごくありがたい。

「どうぞお入りください。宮城さんに見つかったら怒られそうなんで」
「あ、はい」
「何かあったら双馬さんの用事といいましょう」
「はい」

悪戯っぽく笑う熊沢さんに、俺も笑ってしまう。
迎え入れてもらった部屋は、綺麗に片付いた和室だった。
物が少なくて趣味を感じるものはガラスのはまった飾り棚の中に綺麗なグラスが並べられているところだろうか。
双兄みたいな部屋かと勝手に思っていたので、ちょっと意外だった。

「何か飲みますか?」
「えっと、では水を」

冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出してローテーブルに置いてくれる。
熊沢さんも俺に付き合ってくれて、水にしたようだ。
それにしても週に二回潔斎をするのはちょっと辛い。
座布団を敷いてくれて、座らせてくれる。

「珍しいですね、俺と話したいなんて」
「あ、あの、儀式のことって、知って、ますよね」
「あー、ああ、はい」

熊沢さんは水を煽りながら、何度か頷いた。
よかった、これで知らないって言われたらどうしたらいいか分からなかった。
いや、知られてるのはよくないんだけど。

「その、知ってる人と、話したくて。四天も双兄も、いないから。父さんと宮城さんとは話せないし」
「なるほどなるほど」

一兄とは一兄のことだし、何を話したらいいか分からない。
そうなると、後は熊沢さんしかいなかった。
熊沢さんは困ったように笑う。

「三薙さんも気苦労が絶えませんね」
「………はあ」

曖昧に頷いて、曖昧な返事をする。
気苦労と言えるのだろうか。
皆が言うように、そんな気にしなければいいのに。
俺の性格がうじうじしているだけかもしれない。

「可哀そうに、そんなに衰弱してしまって」
「俺より、あっちの方が、大変だから」
「んー」

俺より大変なのは、一兄と天だ。
力を与えなきゃいけないのはなにより、正直、あの儀式だって、俺よりもあっちの方が大変そうだ。
俺みたいな男に、その気にならなきゃいけないって、結構大変な気がする。
俺なら無理だ。
なんて、何を考えているんだ、俺は。

「でも、環境がぐるぐる変わって行くのはお辛いでしょう」
「………あ」

熊沢さんが優しい顔で言ってくれたことが、すとんと胸に落ちる。
そうだ、それも、嫌だった。
環境が変わって行く。
俺の体のこと、周りのこと、一兄や天との関係。
全部全部、変わって行く。
それが、急激な変化過ぎて、怖かった。
嫌だった。

「………はい、辛いです。皆が、変わって行ってしまうのが、怖い。俺はずっと、このままでいたかったのに。でも、変わって行くのが、怖いです」

優しい一兄と、生意気な天と、俺と、喧嘩とかしながら、それでも遊んだりして、このまま行きたかった。
でも、関係が変わってしまう、俺の体も変わってしまう、それが怖い。
天との関係の変化は、どうにか受け入れられた。
でも、一兄とはどうだろう。
また受け入れられるだろうか。
変わるのは怖い。
ずっとこのままでいたい。

「急激な変化は、誰でも戸惑い、時には恐ろしいものです。三薙さんはこのところ変化がありすぎました。疲れても当然です。愚痴や弱音でしたらいくらでも吐き出してください」
「………」
「それでゆっくり受け入れていけばいいと思いますよ」

愚痴って吐きだして、皆に迷惑かけて、それでもいいだろうか。
ゆっくりでも、いいだろうか。

「………ありがとう、ございます」

ずっとここ最近の変化に、怖かった。
ついていけなくて、苦しかった。
それが肯定されて、ほっとして涙が出てきそうになる。
声が震えたのに気付いたのか、熊沢さんが慌てて手をパタパタと振る。

「あー、泣かないでください泣かないで。あなたが泣くと俺が志藤君に殴られます」

その焦った様子に、つい笑ってしまう。
目尻に浮かんだ涙をすぐに拭って、呼吸を整える。
こんなことで泣いたら熊沢さんだって困ってしまう。

「あはは、志藤さんが、熊沢さんを、殴れるはずがないです」
「そんなことないんですよ、彼は実は強いんですから」
「はい、志藤さんは強いです」
「本当に、豆腐メンタルのくせに、無駄にスペックだけ高いんですから」

豆腐メンタルって、酷い言い草だ。
熊沢さんは志藤さんにだけ、なんだか冷たい。
うんざりとした言い方に、また笑ってしまう。

「志藤さんは、心も強いですよ」
「だといいんですけどねえ」

ふっとため息をつく熊沢さんは物憂げだ。
それでもなんだかんだと面倒を見ているんだから、仲はいいんだろう。

「どちらにしても、志藤さんは、熊沢さんに絶対服従じゃないですか」
「まあ、彼は俺の弟分みたいなものですからね。俺の命令を聞いているのは志藤君にとっても楽ですから」

弟分って、なんだかいいな。
弟って、欲しかった。
ていうか弟はいるんだが、あれは俺が思い描く弟という気がしない。
小さい頃は、もっと、普通の兄弟みたいだったのに。

「その分、俺以上に依存できる相手が見つかったら、のめり込むでしょうねえ」
「そうなんですか」

志藤さんが依存するっていうのも、よくわからないけど。
照れ屋でちょっとネガティブで可愛くて、でも優しくてしっかりしてて強い人だ。
そういえば、志藤さんには好きな人がいるっていってたな。
その人には、依存するのだろうか。
あれ、もしかして志藤さんの好きな人って熊沢さんのことなのだろうか。

「三薙さん?」

変な考えになってしまって、慌てて首を横に振る。
志藤さんも熊沢さんも男だぞ。
なんか思考が変になってしまっている。
落ち着け。
いや、例え志藤さんが熊沢さんのこと好きでも別に嫌いになったりしないけど。
とりあえず落ち着け。

「あ、えっと、志藤さんって、そういえば学生さんなんですよね。今はお休みしてるって聞いたけど」
「ええ、去年の後半から。全く土壇場で休学なんて無駄なことして」
「何かあったんですか?って、あ、聞いたら駄目ですよね、すいません、今のなしで」

聞いてから無神経な発言をしたと気付いた。
慌てて手を振ると、熊沢さんは苦笑した。

「まあ、それは本人に聞いてください。三薙さんだったら教えてくれますよ」
「そう、ですかね」
「ええ、間違いなく」

だったら、聞いてみてもいいだろうか。
なんでもかんでも聞くのが友達って訳でもないだろうけど、でも、話してくれるなら知りたいな。
志藤さんのことなら、知りたい。

「後期からは戻るそうですよ。単位はほぼ取ってるんだから、さっさと卒業してもらいたいもんです。俺の仕事手伝ってもらわないと、人手不足なんですから」
「あはは」

管理者の仕事を専属で手伝っている人は、確かに少ない。
年々人不足になっているとは聞いた。
能力の面でも、人材を引き取る面でも、現代では中々難しいようだ。

「本当に兄弟みたいでいいですね」
「かわいいと鬱陶しいで紙一重ですねえ」

それこそ、兄弟の心境じゃないだろうか。
俺が天へ向ける感情とも、一兄に向ける感情ともちょっと違うけど。
ああ、双兄への心境と同じ感じだろうか。
鬱陶しくて時折本気でムカつくけど、やっぱりいないと寂しいし、一緒にいると楽しい。

「双兄はどうでした?かわいい弟でしたか?」
「双馬さんですか。そうですね、可愛い弟でしたよ」

熊沢さんが小さく笑う。
この二人が遊んでた様子ってあまり覚えてない。
双兄はいないことが多かったし、その時遊んでたのだろうか。

「昔は三薙さん以上に泣き虫でしたしねえ」
「俺以上って………」
「はは」

そりゃ俺はよく泣くけど、そう言われると複雑だ。
いや、泣くのが悪いんだけど。

「泣き虫で芯が脆くてその場の感情で行動して、俺も大分悩まされましたね」

そんな双兄、まったく想像できない。
懐かしそうに語る熊沢さんしか知らない双兄。
ちょっと二人の仲が羨ましい。

「そういえば双馬さんと志藤君はちょっと似てるかもしれません」
「似てますか?」
「ええ。そう思うと、馬鹿な子ほどかわいいって奴ですね。放っておけない」

馬鹿な子ほど放っておけないか。
それで放っておかない熊沢さんは、優しいんだと思う。

「もう一人の双馬さんは、昔から芯が強くてしっかりしてたんですけどね。でも同じように暴走癖があったので、放っておけませんでした」

それは双姉らしい。
三人の面倒を見て、熊沢さんは大変だったんだろうな。
いいお兄ちゃんだ。

「いいお兄さんですね。大変そう」
「そりゃもう」
「あはは、双兄と双姉とどんなことして遊んだんですか?」
「色々しましたよ。もう一人の双馬さんはやっぱり女の子ですからおままごととかしたがって、俺も付き合わされました。傍から見てると痛い光景ですね」
「ふふ」

三人で遊んだエピソードを聞いていると、あっという間に時間が過ぎてしまった。
腕時計を見ると、そろそろ禊をして離れ座敷に行かなきゃいけない時間を指している。
気が重いけれど、大分、軽くなった。
やっぱり誰かと話すのって、気が楽になる。

「そろそろ、いかなきゃ。邪魔してすいませんでした」
「いえいえ。楽しかったです。またいらしてください」
「はい、緊張がほぐれました」
「何かあるんですか?」

今日の儀式を執り行うってことは、熊沢さんは知らないのか。
恥ずかしいけれど付き合ってもらったし、言っておこう。

「あ、その、今日、一兄との儀式のための潔斎に入るから」
「へ、一矢さん?儀式は四天さんとになったんじゃなかったんですか?」
「あ」

しまった、一兄との儀式は知らなかったのか。
熊沢さんは不思議そうに首を傾げている。
じゃあ、言わなきゃよかった。

「その、急遽一兄とも、することになって」
「え、お二人ともってことですか?」
「あ、そ、その、はい。えっと、その、すいませんでした。失礼しました!」

お二人ともと言われて、急に恥ずかしくなった。
俺は兄とも弟も、そういうことをするのだと突きつけられた。
そういうつもりはないんだろうけど。
でも、いたたまれない。

「お、お話聞いてくれて、ありがとうございました!」

頭をもう一回下げて、自分勝手にも逃げ出してしまう。
気分は軽くなった。
後で、ちゃんとお礼を言おう。

顔を合わせるの恥ずかしいけど。



***




「ふう」

禊を終えて、何もない部屋に訪れる。
何もすることのない時間が、やっぱり辛い。
何か持ち込んでいいか聞けばよかった。
漫画とかゲームとかは許されないと思うけど、もっと気軽に読める本とかならいけたかも。

そんなことを考えていると、カラカラと玄関が開く音がした。
離れ座敷にはチャイムはないから直接開けるしかない。

「三薙、入るぞ」
「………あ、一兄」

一兄の声がして、心臓がどきりと跳ね上がる。
許可する暇もなく、すっと襖が開かれる。
制止するつもりもないけど、ついびくりと震えてしまう。
それを見て一兄が苦笑する。

「そんなに怯えるな。結構ショックだぞ」
「ご、ごめん」

一兄が怖い訳じゃない。
ただ、明日のことを考えると、訳もなく不安になってしまうだけだ。
それが一兄とセットになっているだけで。

「まあ、無理もないな」

一兄はスーツのままだった。
仕事帰りで、これから潔斎に入るのだろう。
明日は仕事を休まなきゃいけないだろうし、大変だ。

「緊張して眠れないだろう。お茶を持ってきた」

言葉通り一兄の手にはお盆があって、そこにはポットが乗せられていた。
俺の前に座ってカップに注ぐそれは、ふわりと甘いリンゴの香り。

「はは」

つい、その香りに心がほぐれて、笑ってしまう。
一兄がカップを差し出しくれながら首を傾げる。

「どうした?」
「天も、この前の時、カモミールティー持ってきてくれたから」
「そうか」

一兄が目を細めて優しく笑う。
兄弟達の心遣いに、落ちていた心が、浮上してくる。
俺はそんなに、カモミールティーを飲んでいたっけ。
でも、確かにこのお茶を飲むと、心が落ち着く。
もはや条件反射だ。

「おいしい」
「よかった」

一兄も自分のものを飲みながら穏やかに表情を緩める。
特にそれ以上責めることも、話を促すこともない。

「………」
「………」

やっぱり、一兄は優しい。
変な態度を取ってしまって、申し訳ない気分になる。
お茶を飲み干して、横に置く。
体が温まり、心も大分落ち着いた。

「ごめん、俺、突然過ぎて、混乱して、緊張して、中々、受け入れられないんだけど」
「分かってる。当然のことだ」
「………うん」

一兄が横のテーブルにカップを置いて、手を伸ばしてくる。
触れる寸前で止め、俺の顔を窺う。

「触るぞ」
「う、うん」

いつも触れられるのは普通だったんだが、改めて断られると、なんだか緊張する。
一兄の気遣いなんだろうが、その大きな手が頭を撫でるまで息を詰めてしまった。

「大丈夫だ。何も変わらない。俺もお前も、変わらない」

けれど優しい声と、優しく頭を撫でる大きな手に、力が抜ける。
大丈夫だ、これは一兄の手、ずっと俺を守ってくれた手。
俺に危害を加える訳がないんだ。

「………うん」
「まあ、多少恥ずかしくはあるがな。だが、四天も変わらなかっただろう?」
「うん」

態度は、特に変わらなかった。
でも、心の在り方は変わったかもしれない。
ちょっとだけ近づけた気がする。
お互いに親しさが、生まれた気がする。
でも、それはいい変化かもしれない。
怖いことは、何も起こらなかった。

「大丈夫。大丈夫だ、三薙。怖いことはない」
「う、ん」

一兄が辛抱強く、俺の頭を撫でる。
そうすると、言葉通り、恐怖心が薄れていく。
そっと、一兄が俺の体を引き寄せて、その胸に抱きこむ。

「大丈夫だよ、三薙」

でももうびくついたりはしなかった。
優しい声に、優しい手。
一兄の腕の中は、昔からどこよりも落ち着く場所だった。

「一兄」
「いい子だ、三薙」

一兄にいい子だと言われて頭を撫でられると、嬉しくて仕方なかった。
力を抜いて体重を預けると、背中を撫でられる。
温かくて、とろとろと眠くなっていく。

「いい子だ」

一兄の唇が、こめかみに触れる。
額を、頬を、優しく撫でる。
気持ち良くて眠くて、目を瞑ってしまう。

「いちに………」

そのまま一兄に撫でられ、あやされるように口づけられながら、ただまどろんでいた。





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