やっぱり、時間は遅々として進まなかった。 一兄が小説を差し入れてくれたから、この前の時よりはマシだったかもしれない。 でも頭には入らず、ただページを捲るばかり。 少し心は落ち着いたけれど、やっぱり鬱々とした気分は抜けない。 それでも、時間は過ぎ、夜が来る。 カラカラと、ドアが開く音がする。 鼓動の早さが、増す。 ついに、来てしまった。 諦めと不安と緊張と、それがないまぜになったような、もやもやとしたものがいまだに心に残っている。 覚悟を決める時間なんて、なかった。 廊下が軋む音、すっと襖が開く。 「………一兄」 狭い部屋と敷かれた布団と、薄暗い行燈。 この前と同じシチュエーション。 けれど、訪れた人は、違う。 白装束を身にまとっているのは、まだ少年の細さを残す弟ではなく、長身の兄。 一兄が俺を見て、ふっと表情を緩める。 「今日は冷えるな。お茶を持ってきた」 「あ、ありがと」 あの時の天と同じように、盆を持っている。 その上に乗っているものも、大体同じように見える。 「………」 落ち着け落ち着け落ち着け。 怖いことなんて、何もない。 一回やったことだ。 そりゃ、少しは痛いし恥ずかしいし苦しいし、何より自分の意志でどうにもできないのが怖い。 でも、耐えきれないことではない。 何より一兄や天の方が、大変だ。 「ちょっと待ってろ」 「うん」 テーブルに盆を置くと、水場に行きお茶を淹れている気配がする。 そして、カップと、反対の手には一升瓶を捧げ持って帰ってきた。 「少し、話をしよう」 俺の緊張を見抜いたのか、俺の前に座った一兄がお茶を差し出す。 優しい笑顔と、甘いリンゴの匂いに、少しだけ緊張が収まる。 「………うん」 胡坐をかいた一兄が、自分の分のグラスに酒を注ぐ。 鼻につく、軽いアルコールの匂い。 「そうだな、何を話そうか」 一兄がグラスを少し煽って、ふっと笑う。 それからいつも通りに、本当に普段のように聞いてくる。 「学校は楽しいか?」 その普段通りの態度に、俺もほっとして、お茶を飲みながら頷く。 「うん、楽しいよ」 「藤吉君や岡野さんとは、仲良くしているか?」 「うん。二人とも、よくしてくれてる。一緒のクラスになれたし。槇と佐藤とは離れちゃったけど。でも、遊びに来てくれる」 「そうか。よかったな」 一兄が目を細めて、頷く。 「お前は昔から、友達を欲しがってたから」 「うん。友達出来てよかった。すごく、今楽しい」 「そうか。他には友達出来たか?」 志藤さんが脳裏に浮かんだが、すぐに首を横に振る。 一兄には知られたらいけない。 嘘をつくのは心苦しいけれど、正直に言って友達付き合いをやめさせられたり、志藤さんに迷惑をかけたりすることにはなりたくない。 「………他は、まだかな」 「まあ、大学に行けば、もっと出来るだろう」 大学。 それは、少し前まで、とても遠かった言葉だ。 通信大学ぐらいならいけるかなって思ってたけど。 「大学、行けるかな」 「お前が勉強を頑張ればな」 からかうように笑う一兄に、拗ねたような声が出てしまう。 そうじゃない。 それとはもっと違う言葉が欲しい。 「それは、頑張るけどさ」 「体の面では、きっと大丈夫だ。そのための儀式だ」 「う、ん」 そうだ。 それが聞きたかったんだ。 大丈夫。 未来を夢見ることが、俺には出来るんだ。 これはそのための儀式だ。 だから、受け入れるんだ。 「昔からお前は辛い思いをしてきた。これからはもっと楽に、自由に生きられるはずだ」 「………」 「俺はお前に、もっと自由に生きて欲しい」 一兄が優しい笑顔で、穏やかな声で言う。 胸が熱くなって、熱が溢れていく。 「………一兄」 「大丈夫だ、三薙。怖くない。お前が家から解放されても、俺はお前の傍にいる」 ずっと、この人に守られてきた。 この人が一緒にいてくれた。 無力を嘆いても、友達に嫌われて泣いても、全てを恨んで羨んで罵っても、この人は受け止めてくれた。 俺を守り、導いてくれた。 「………」 堪え切れなくなった涙がつっと頬を伝う。 慌てて拭おうとすると、そっと一兄が手を差し伸べる。 幼い頃、一兄を出迎えた俺を受け止めるように。 「おいで、三薙」 「………」 ふらふらと立ち上がって、一兄の前に立つ。 一兄は座ったまま、俺の手を握る。 その手は昔と変わらず大きく、力強く、頼もしい。 「お前には、辛い思いをさせる。悪いな」 「………ううん。一兄も天も、俺のために、してくれてることだ。俺の方こそ、ごめん」 「構わない。お前のためなら、俺はなんだってしてやる。俺だけは、お前の傍にずっといる」 俺を見上げる一兄の目が、どこまでも真っ直ぐで、胸がツキンと痛くなる。 苦しい、苦しい。 「一兄………っ」 腰を引き寄せられて、一兄に更に近づく。 一兄を見下ろす形でその腕に大人しく収まると、腰を掴む手とは反対の手が俺の頬を覆い、近づくように促される。 胸は痛むけれど、不思議と落ち着いていた。 促されるまま腰を折ると、一兄の顔が近づいてくる。 端正で男らしい、俺の憧れの顔。 そのまま、一兄の吐息と、自分の吐息が重なる。 少しだけアルコールの匂いがしたけれど、一兄のお香の匂いに混じって、まったく不快な気分にはならなかった。 「………」 触れたのは一瞬。 すぐに離れた唇は、俺の知っているものより堅くて大きかった。 なんだか、違和感を感じる。 そして、違和感を感じたことを不思議に思った。 一兄がぼんやりとしていた俺の顔を見て、小さく笑う。 「どうした?」 「なんか、不思議で」 「何がだ?」 「一兄と、その、キスするのって、これが初めてなんだなって」 一兄とキスすることに、違和感を感じたことが不思議だった。 だって、これまでこんなに近くにいて沢山触れていたのに、唇だけが触れてなかった。 それが、不思議だった。 天とは今まで何度も唇を触れ合ってきた。 慣れて、この前の時だって、何も違和感を感じなかった。 なのに、一兄とは慣れてないのが、不思議だ。 「初めてなのが、なんか変だった。そっか、初めてなんだ」 一兄が困ったように眉を寄せて苦笑しているのを見て、ようやく自分が変なことを言ったことに気付いた。 そんなの、兄弟では当たり前のことだ。 「な、なんか、俺変なこと言ってるな!当たり前だよな!する訳ない!」 「確かに、不思議だな」 焦って一兄の腕から逃げ出そうと暴れると、一兄が背中を引き寄せる。 一兄の足の間に、立て膝で座り込み、唇が重なる。 「ん………」 今度はさっきよりも、長めに重なる。 一兄の、唇だ。 やっぱり天のものとは、違う。 「触れてなかったのが不思議だ」 触れるだけのキスは、すぐに離れていく。 一兄が俺を見上げて悪戯っぽく笑う。 「嫌じゃないか?」 「ない、けど」 少し違和感はある。 でも、気持ち悪さはない。 自分でもどうなのかと思うけれど、嫌な気分はしない。 「よかった」 一兄が笑って、俺の首の後ろを大きな手で覆い、自分の額を俺の肩に乗せる。 「宮守の血の絆は、ここにおいて更なる繋がりを結び、この地に更なる繁栄を………」 耳元で聞こえるゆったりとした呪に、肩が熱くなっていく。 一兄と俺の力が徐々に共鳴して、繋がって行く。 一つ一つ、丁寧に、一本づつ糸をつなげていく。 つながっていくごとに、一兄の青い力が俺を包み込んでいく。 「んっ………」 時間をかけて完全に繋がると、ぼんやりと意識が靄がかっていく。 いつもと違って供給の力は注がれてないから、理性が吹っ飛ぶまではいかないけれど。 一兄が俺を抱き寄せたまま、隣に置いてあった盆から、瓶を取りあげる。 その瓶は、多分この前飲まされたものと一緒だろう。 変なものを飲まされるのは、抵抗感がある。 「………それ、やっぱり、飲むの?」 「お前の体の負担が減るからな」 一兄が苦笑して、悪いなとだけ言う。 そう言われたら、我慢しない訳にはいかない。 俺だって痛いのは、嫌だ。 あんなところにあんなものを入れられるんだから、普通はもっと痛いに決まってる。 飲んで痛くなくなるなら、受け入れるべきだ。 「え」 一兄が自分で瓶の中身を煽る。 なんで、と思った瞬間に引き寄せられて、もう一度唇を塞がれた。 「ん」 生温くて、甘くて苦い液体が、口の中に入ってくる。 まずいと思ったけれど、一兄の舌が俺の舌に絡み、そちらに気が取られた。 「ぐ、んっ」 液体をゆっくりと注ぎこまれながら、口の中が掻きまわされる。 回路が繋がっている体は、体液を力として感じ、受け入れることを快感として受け止める。 一兄の唾液が甘く感じて、甘苦い液体と一緒に、舐め取り、飲み干す。 「は、あっ」 唇を離されて、ふらりと後ろに倒れ込みそうになる。 一兄に引き寄せられて、また立て膝の状態になった。 「大丈夫か?」 「う、ん」 頷くけれど、熱に浮かされ始めている。 体も、反応を示し始めている。 この後どんな風に乱されるのか、知っている。 それを考えると怖く恥ずかしく、いたたまれない。 一兄が冷静なのが、更に、恥ずかしくなってくる。 一兄ももっと、冷静さをなくしてくれればいいのに。 「一兄は、その、飲まなくて、平気?」 「ん?」 「あの、えっと、興奮剤、みたいなの」 俺相手に、その気になることは、出来るのだろうか。 天は、大丈夫だったけど。 「四天ほど若くはないが、まだまだ俺も薬に頼るほど枯れてはない」 「………」 薬を飲まなくても、出来るのか。 それがいいんだか悪いんだか分からないけど、薬飲むよりはいいんだろうか。 なんだか、複雑な気分だ。 「お前は飲まなくて平気か?」 「だ、大丈夫。多分」 「そうか。辛くなったら言え」 「う、うん………」 俺は飲まなくても、平気だろう。 この体は、力を注ぎこまれれば、誰にだろうと快感に溶ける。 志藤さんにだって、理性をなくした。 忌々しく汚い、体だ。 「ん」 一兄が俺の顔を引き寄せて、もう一度唇を重ねる。 舌で唇を割られて、口の中に入ってくる。 歯列をなぞられ、舌を絡められる。 いつもより厚い舌。 いつもとは違う、触れ方。 違和感を覚えながらも、一兄の力を受け取って、体が熱くなっていく。 「あっ、は………」 体が支えていられなくて、一兄の肩にしがみつく。 一兄の装束が乱れ、逞しい肩が露わになる。 まだ細い首をしていた天とは違う、太い首。 優しい目で、一兄が俺を見上げている。 胸がまた、つきつきと痛む。 「一兄は、変わらない、よね」 俺は恐れている。 この絶対的な庇護者を失うことを。 尊敬し憧れる兄との関係が変化することを。 「ああ、変わらない」 だから一兄がいつもと同じように微笑んでくれて、安堵する。 何があっても、この兄が俺の傍にいると、信じられる。 「傍にいて、くれるよね?」 「ずっとお前の傍にいる」 それなら、平気だ。 今と変わらないのなら平気。 一兄がいてくれるなら、平気。 力を受け取れば、俺はこのままでいられる。 これは、今後も変わらないための、儀式。 「………ありがと、一兄」 一兄の首にしがみつくと、大きな手が俺の背中を撫でる。 その心地よさに、目をつぶり、体の力を抜く。 パサリと、解かれた帯が、畳に落ちる音がした。 「………」 頭を撫でる優しい感触。 それは昔から変わらない、何よりも安心出来る手だ。 その感触が気持ち良くて、中々目を開けることが出来ない。 ずっとこのままでいたい。 「………ん」 でも瞼を焼く陽射しがまぶしくて、逃げるように身を丸める。 くすくすと笑う耳に心地よい声が聞こえる。 「起きたか、三薙」 「ん………」 まだ、起きたくない。 このまま、ここにいたい。 目覚めたくない。 でも、空っぽの胃が空腹を訴え始めた。 「もう少し寝るか?」 「うう、ん、………腹減った。ご飯、食べたい」 「ああ、そうだな」 顔を埋めている体は、落ち着くいい匂いがする。 一兄の、お香の匂い。 抱かれている背も、頭を撫でる手も、ただただ心地いい。 「じゃあ、起きるか?」 「でも、眠い………」 「じゃあ、もう少し眠るといい」 「ん………」 許されて、もう一度顔を一兄の体に埋める。 触れる、熱い素肌の感触。 堅い、肩。 天とは違うと、昨日思った。 「あ………」 「どうした?」 そこで目がぱっちり覚めた。 今がどういう状況が完全に一瞬で把握した。 目の前は装束が肌蹴た一兄の肩が露わになっている。 思わずかたまってしまう。 「目が覚めたか」 「う、うう………」 一兄が俺の動揺に気付いたのか、楽しそうに笑っている。 このままでいるのはものすごく恥ずかしい。 でも、ここから顔を上げることも出来ない。 「体は拭いてある。食事に行くか?気持ち悪かったら風呂に入れ」 「ちょ、ちょっと、待って」 「ああ」 体を拭いてあるって、昨日あの後、拭かれたのか。 ていうかこの前の時も、体は綺麗になっていた。 あれは天が綺麗にしてくれたのか。 そういえば中のも掻きだしたとか言ってたっけ。 ていうことはつまり、一兄もしてくれたのか。 うわ、駄目だ、消えたい。 ものすごく消えたい。 一兄と天にそんなことをさせたとか本当に消えたい。 「落ち着いてきたか?」 「も、ちょ、ちょっとだけ待って!」 「焦らないでいい。もう少しここにいよう」 「う、うん」 落ち着け落ち着け落ち着け。 恥ずかしがることなんてない。 これは儀式だ。 単なる儀式なんだ。 「力の方は平気か?」 「えっと」 聞かれて、気を逸らすためにも、自分の体の中を探る。 今まで体の中心に感じていた力強い天の白い力。 その隣に、穏やかでどっしりとした深い青の力を感じる。 俺の中に、二つの力を感じて、どことなく違和感を感じる。 「変な、感じ。天の力と別に、一兄の力もある」 「なんか違和感なんかはあるか?」 「違和感はあるけど、でも、痛かったり苦しかったりはしない」 「そうか。それならいい。調子はよさそうか?」 「うん」 でも注がれる力が増えたせいか、気分はいい。 ずっと傍にあった喉が渇く感触は、ここ最近ずっとない。 「体は、大丈夫か?痛まないか?」 「へ、平気」 体は軋んで、また内腿や腰が筋肉痛のように引き攣れて、下腹部が重く痛い。 でも、そんなこと、言える訳がない。 二日ぐらいゆっくりしてたら、治るし。 ああ、そんなこと、知りたくなかった。 「なるべく負担がないようにしたつもりだが、どこか痛みがあったら言え」 「う、うー………」 「どうした?」 一兄が俺の頭を撫でながら、唸る俺に聞いてくる。 顔を上げることは、やっぱり出来ない。 「は、恥ずかしい」 「まあ、そうだな。俺も少し気恥ずかしいな」 恥ずかしさのレベルが違う。 俺は、凄く恥ずかしかった。 一兄の前で足を開き受け入れ、その背にしがみつき、甘えた声を上げ続けた。 嫌になるほど優しく俺に触れる一兄に、懇願すらした。 ああ、本当に消えたい。 儀式自体よりも、この朝の方が嫌かもしれない。 「みっともない姿を見せてないといいんだが」 「お、俺の方が、みっともない」 「大丈夫だ。みっともなくなんかなかった」 「う、嘘だ」 「褒め言葉じゃないかもしれないが」 一兄が体を離し、俺の顔を覗き込む。 いつも俺をからかう時の人の悪い笑い方。 恥ずかしさと嫌な予感に、視線が彷徨う。 「な、何?」 「そそった。興奮した」 「ば、馬鹿!」 思わず尊敬する長兄の頭を殴ってしまった。 何を言ってるんだ、一兄は。 「全然、褒め言葉じゃない!」 「はは」 一兄が楽しそうに声をあげて笑う。 髪が乱れて、少し疲れた表情が、昨日の夜の名残を見せて、またいたたまれない気持ちになる。 一兄が、まるで知らない人のように感じる。 「そろそろ起きるか」 「………う、うん」 一兄が俺の体を抱き込んだまま、体を起こす。 朝日の中、下着も身につけていない装束は心もとなく感じて、乱れた襟もとを直す。 「おはよう、三薙」 「………おはよう、一兄」 一兄がそっと、俺の額に唇を落とす。 その温かな感触は、心地いい。 「行くか」 一兄は一つ笑うと、その場にすっと立ち上がり、乱れていた装束を直す。 伸びた背筋と、落ち着いた空気。 すると、先ほどまでの雄の匂いが消えうせて、いつもの兄の顔になる。 「うん」 それを見て、俺はそっと息をついた。 |