寒い寒い寒い。
体の震えが止まらない。
歯がカチカチと音を立てる。
寒い。

公園の茂みは木が生い茂り、俺の体を隠してくれている。
木の陰にいるものの雨足は強く、体を濡らし、体温を奪っていく。
髪を伝う水滴に、前が見えない。
服は水を吸って重く、冷たい。
座り込んだのは泥の上で、ズボンはもう泥に塗れてぐちゃぐちゃだ。
サンダルのままだったから剥き出しになった足もドロドロで、冷たくて痛い。

痛い、痛い痛い。

「………っ」

嗚咽が漏れて、必死に唇を噛みしめる。
涙が溢れてくる。
何が辛い、何が哀しい。
分からない分からない分からない。
自分が何に泣いているのかも分からない。
どうしたら分からない。

なんで俺はここにいるんだ。
なんで俺はこんなに苦しいんだ。
寒い、痛い、苦しい。

怖い。
嫌だ、こんなの嫌だ。

「こんなところにいたの?」

声をかけられて、飛び上がる。
逃げだそうとして腰を上げるが冷え切った手足は上手く動かず、泥に滑って不様に顔から倒れ込む。
手足にも顔にも、泥が跳ねて、土の匂いがした。

「何やってるの。あーあ、汚い、またドロドロになっちゃって」

少年の色を残す声が、呆れたようにため息をつく。
そしてしゃがみこんで、泥の中に這う俺を引っ張り起こす。
もう一度泥の中に座りこむと、暗闇の中でも目の前のその白い顔ははっきりと見えた。

「………天」

傘を俺に差しかけるのは、まったくいつもと変わらない様子の末弟だった。
薄く笑って俺を観察するようにじっと見ている。

「風邪引くよ。帰ろうか」

優しく甘い声は、俺を気遣っているように聞こえる。
でも、そんな訳はない。
だって、俺は、家に帰りたくない。
絶対に、帰りたくない。

「やだ………、やだ」

だからずるずると四天から逃れて後ずさり首を横に振る。
天は立ち上がって一歩で、その距離を詰める。
そして傘をさしかけてくれながら、首を傾げる。

「でも、ここは寒いでしょう」

寒い。
寒くて寒くて、凍えてしまいそうだ。
頭も痛くなってきた。
でも、帰りたくない。
あそこには、帰りたくない。

「いやだっ、家には帰りたくない!」

あんな怖いところには、帰りたくない。
怖い怖い場所。
怖いものがいる場所。

「………」

天が表情を消して、じっと俺を見下ろしている。
それから静かに言った。

「………じゃあどこに行くの?」
「………」

頭が真っ白になった。
どこに行く。
天の質問は、簡単なものだ。
俺が、これからどこへ行くのか、だ。

どこ。
どこに行けばいいんだ。
俺は、どこに行けるんだ。

「お友達のところに行く?」

藤吉の顔が、一瞬浮かぶ。
今行けば、迎え入れてくれるかもしれない。
匿ってくれるかもしれない。

「いつまで?その後は?」

でも、いつかは出なければいけない。
たとえ、藤吉が迎え入れてくれたとしても、いつまでもいられる訳じゃない。
じゃあ、その後どこへ行けばいい。

「遠くへ行く?お金は?」

金は、ない訳じゃない。
でも今は財布も何も持っていない。
金は家にある。
でも、手持ちはそんなにない。
貯金は、一兄の言うとおりに管理を任せてしまっている。
俺の自由におろせる訳じゃない。
どちらにせよ、家に戻らなければ金はない。

「そもそも兄さん、一人で新幹線のチケットとか買える?」

天が馬鹿にしたように小さく笑う。
電車は乗れる。
切符の買い方も知っている。
でも、長距離の電車なんてどうすればいいのか、分からない。
仕事で行く時も、天に任せてしまっていた。
買えない訳じゃないとは思うが、どこにいけば、どんな電車に乗れるかなんて知らない。
俺は、何も知らない。

「乗れたとして、遠くへ逃げて、それから?」

ありたっけの金を持ちだしたとして、電車に乗れたとして、それで逃げて、どうする。
逃げても、その先でどうする。
どうすればいい。
食事は、家は、学校は、仕事は。
分からない。
俺はどれ一つとして、それを手に入れるすべを知らない。

「何も出来ないよね。だからこんな家の近くでこうして蹲ってる」

天が、俺の考えを見透かしたのかくすくすと笑う。
笑い声が、頭の中に響く。
頭がガンガンとして痛い。

「兄さんはどこにも行けない」

つい最近まで、俺は二つ隣の駅ほどしか、行ったことがなかった。
それすら、稀だった。
仕事で行く時は、全て家の人間に任せていた。
俺はこの狭い範囲しか、知らない。
その先には何があるのか、知らない。

「兄さんの世界は、この小さな街の中だけ。ううん、違うね」

ゆるりと天が首を横に振る。

「兄さんの世界は、あの小さな家の中だけ」
「………」

体から力が抜けていく。
真っ白だった頭と胸が、じわじわと黒く染まって行く。
雨のせいだけではなく、体の震えが止まらない。

俺は何も知らない。
俺は何も持たない。
俺は何も出来ない。

「それに、そもそも、俺は兄さんのいる場所が分かる」
「………あ」

俺は天の血水晶を飲み込んでいるせいで、どこにいたって場所は把握されている。
どんな状態かも分かってしまう。
なんで、天がここにすぐ来れたか、考えれば分かることだ。

「今となっては一矢兄さんもある程度分かるだろうね。残念、かくれんぼは兄さんの負け」

悪戯っぽく言って、楽しげに笑う。
逃げられない。
隠れられない。
どこに行くことも出来ない。

「ね、だから早く帰ろう。お腹も空いたでしょ?」
「………」

天が手を差し伸べる。
昨日までだったら、この手を、四天の優しい言葉を、嬉しく思ったかもしれない。
けれど、今はただその手が恐ろしく感じて、取ることは出来ない。

弟に近づけたと思った。
少し近づけたと思った。
でも、今目の前にいる人間は、ただただ恐ろしいものに見える。

「もう」

差し伸べた手を取る気配のない俺に焦れたのか、天が小さくため息をつく。
皮肉げに獲物を嬲る猫のような表情で笑う。

「ここで座ってて何かになる?事態が進む?誰かが解決してくれる?」

そして、俺を更に追い詰める。
こうやって、いつだって、弟は俺を追い詰める。
正しい言葉で、厳しい態度で、逃げ場をなくす。

「泣いて待ってたら、誰かが助けてくれる?」

泣いても、誰も助けてくれない。
いつも、手を差し伸べてくれた兄や弟達はいない。
俺を温かく守り導き諭してくれてきた、兄弟は、もう俺を助けてくれない。

「とりあえずご飯でも食べて寝たら?そしたらいい考えも浮かぶかも」
「………」

もう、どうしたらいいのか分からない。
涙が、止まらない。
天を見上げる目に、雨が入って痛い。
真っ暗な空、生い茂る不気味な木々の中、見上げる天は、恐ろしいほどに綺麗だ。

「これからの兄さんの環境は一変するだろうけどね。とりあえず休んで冷静になったら」

逃げてもどうにもならない。
どこにも逃げられない。
誰も助けてくれない。
そう考えると、すっと胸の奥が冷たくなって、少しだけ冷静になった。
俺には、何もなく、何も出来ない。

「………天」
「なあに?」

天が無邪気に首を傾げる。
口を開こうとして、喉が痛いほどに渇いていたことに気付いた。
唾を何度も飲み込んで、喘ぐように口を開く。

「あれは………」

なんだと聞こうとして、首を横に振る。
違う、なに、ではない。
あれは、そうじゃない。

「………あれは、誰だ?」

間違いなくあれは、人だった。
人の形を、していた。
答えはなんとなく、分かっている気もする。
でも、それを認めることは、したくなかった。

「あれはね」

天が、唇を歪めて、笑う。

「二葉叔母さん」

心を真っ黒でどろどろしたものが満たして行く。
ああ、邪気を身の内に取りこんだ時のようだ。

「だったものの成れの果て、かな」

暗闇の中笑う四天の顔は冴え冴えとして、酷く綺麗だった。





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