雨の中では靴の用途をなさないサンダルを、ずりずりと引きずりながら歩く。 歩くたびに、びしゃりびしゃりと音を立てる。 水を吸った靴下が気持ち悪い。 びしょ濡れの全身が、ひどく重くて、寒い。 天の上着を借りても、全身の震えが止まらない。 足が、うまく動かない。 もう、このまま、止まってしまいたい。 いっそ、倒れこんで、眠ってしまいたい。 消えてしまいたい。 でも、俺に、行く場所はない。 どこへも、いけない。 天の言うとおり、俺の世界はあの狭い狭い家の中だけ。 何も知らない。 何もできない。 何も持たない。 心の中に濁った黒いものがどろりどろりとたまっていく。 体がどんどん重くなっていく。 天は、のろのろと歩く俺を急かすことはなく、俺に傘を差し掛けてくれながら、隣を歩いている。 こいつは、何を考えているのだろう。 俺のことを、どう思っているんだろう。 こいつだけじゃない。 父さんも母さんも、一兄も、それに、双兄も。 何を、考えているのだろう。 「………双兄、は?」 そういえば、双兄のことを置いて、逃げ出した。 俺をあそこに連れて行った次兄は、どうしているのだろう。 「反省して部屋に閉じこもってるよ。打たれ弱い人だからね。色々やっては、あとで後悔して落ち込む。難儀な性格だよね」 隣を見上げると、天は薄く笑いながら馬鹿にしたように答えた。 その笑い方にも言葉にも声にも、全てに毒が含まれている。 「本当にあの人は碌なことをしない。昔からそうだ。自分は何もしない、何も決断しないくせに、中途半端に引っ掻き回す」 笑いながらも、そこには嫌悪感と嘲りがある。 それは、いつも皮肉げな天にしても、感情的に感じて意外に思う。 天は、こんな風に、兄を批判するような奴だったっけ。 俺のことは馬鹿にしてるけど、二人の兄のことは、こんな風に言っていたっけ。 いや、でも、そういえば、次兄のことを口にする弟は、いつもどこか不愉快そうだった気がする。 どうだったっけ。 「………俺をあそこに、連れて行ったのは、碌なことじゃ、ないのか」 冷え切った唇が、舌が、もつれてうまく話せない。 天の答えは、なんとなくわかっていた気がする。 「碌なことだと思うの?」 疑問に疑問で返す、いつもの答え。 碌なことではないと、分かっている。 今思えば、俺はあそこから意識的に遠ざけられてた。 俺には、見せてはいけないものだったのだろう。 父さんも一兄も双兄も天も知っていた。 俺だけが、知らなかった。 それが意味することは、なんだ。 「………お前も、俺をあそこに連れて行った」 天がちらりとこちらを見て、とても楽しげにその赤い唇を持ち上げた。 その笑顔が、あの時の幼い天を彷彿とさせて、ぞくりと背筋に寒気が走る。 「思い出したんだ?」 「思い、出した」 宮守の家の小さな森を抜けて、奥宮に、辿り着いた。 四天の幼い手にひかれて、連れて行かれた。 「俺は、あの時、お前に連れられて、あそこに行った」 そして見た。 あの時もあれを。 あの人を。 「そう、それが兄さんが知りたがってた、酷いこと、だよ。あの時から兄さんは俺に怯えるようになった」 くすくすと笑う声が、頭の中に響いて、頭がガンガンする。 このまま倒れこみそうだ。 天はあの時も笑っていた。 楽しそうに笑っていた。 まるで、見たこともない化け物のようだった。 得体の知れない、怖いものだった。 「俺は」 『きたない、ばけもの』 違う、化け物は、天じゃない。 得体の知れないものは、この弟じゃない。 「俺は、アレになるのか?」 化け物は誰だ。 化け物は誰だ。 化け物は誰だ。 「どう思う?」 天が楽しげに笑う。 『三薙お兄ちゃんは、アレになるんだよ』 札を幾重にも張り巡らされた一枚板の両開きの扉を、双兄が開く。 「あ………」 社の中は真っ暗闇で何も見えなかったが、わずかに奥に、何かが光った。 闇に浮かぶ、二つの光。 ざわりと、全身に鳥肌が立つ。 奥に何かがうごめいている。 二つの光が、こちらを向いている。 「………っ」 途端に飲み込まれそうなほどの邪気が身を包み込んだ。 いや、違う。 邪気の気配だ。 邪気そのものではない。 声が聞こえる。 ずっと聞こえていた声だ。 家に侵入者があったあの時。 そして謳宮祭で、倒れこむ寸前に聞こえた声。 「あああああああああ、あああああああああああ」 あらゆる苦痛を内包したかのような、耳を塞ぎしゃがみこみたくなるほどに悲痛な声。 聞いているだけで、体の中から腐っていくような、不快感。 吐き気が、する。 「いやああああああああ、ああああ」 それは、音じゃなかった。 声だ。 やっぱり、声だ。 そして言葉だ。 人間の、言葉。 「ああああああああ、ううううううううう」 いやだいやだいやだいやだ。 聞きたくない。 見たくない。 「三薙、あれだ」 でも双兄が近くにあった燭台に火をつけ掲げ、奥を照らしだす。 俯いていた頭を押さえられ、あげさせられる。 光に気づいたのか、身を伏せていたソレが、体を起こす。 「にい、さん?」 先ほどとは違う、若くか細い高い、声。 ソレは、人間の形をしていた。 髪の長い、巫女装束を着た、まだ二十代ほどの、女性らしき、形。 札で強化された呪鎖で両手両足を繋がれている。 暴れているせいか、手からも足からも血が溢れている。 「もういやあああああああああああああ。助けて助けて助けて、兄さん、助けて………。兄さん兄さん兄さん、助けて」 悲痛な声が、助けを求めている。 でも、怖くて、足が一歩も動かない。 身じろぎすら、できない。 「兄さん、兄さん………」 そこでソレは自らの手で、自分の顔を掻きむしり始めた。 顔中に赤い筋が出て、血が溢れかえる。 「っ」 「殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して」 自分の首を掻きむしり、腕に噛みつき、噛みちぎり、のた打ち回る。 気づけば、装束はすでにどす黒い色で染まっていた。 何度も血を吸ったかのように。 「殺して………」 でも、顔に残されていた血筋は、すぐに消え去った。 腕も首も、全ての傷があっという間に塞がっていく。 後に残るは、元々の白い肌。 怪我なんてまるでなかったかのように、綺麗な肌がそこにある。 それは苦しげに絶望に顔を歪める。 「殺してやる殺してやる殺してやる。滅びろ滅びろ滅びろ死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。あはははは、あは」 向けられた呪詛に、全身が囚われる気がする。 力ある言葉に、それだけで本当に命を奪われてしまいそうだ。 「皆死ね、死ね、死ねええ!」 そして糸が切れた人形のように、パタリと倒れこむ。 か細い呼吸を、わずかに漏らす。 「にい、さん………」 アレが、なんなのか、言われないでも、分かった。 あの痛みと苦しみと絶望を、俺も感じたことがある。 きっと、あれは、その何倍も何十倍も何百倍もの苦痛。 気が付くと、歯がカチカチと鳴っていた。 足が震えて、倒れこみそうだった。 アレは、片山町の幽霊屋敷。 ワラシモリの森。 不死石。 アレは、邪、そのもの。 邪気を抱え込む、捨邪地。 アレがもし生き物だとするならば、それはきっと、生きた捨邪地、だ。 |