今日も眠りは訪れず、夜の廊下を一人徘徊する。 いつかはきっとぶっ倒れるように眠れるだろうけど、それまで耐えられない。 俺は、弱い。 一人で苦しさに、受け止められない。 ドアをノックすると、中からはすぐに声が帰ってきた。 「はい」 「一兄、入ってもいい?」 「ああ、いいぞ」 長兄は予想通り、快く迎え入れてくれた。 恐る恐る覗き込むと、寝る用意をしていたのか髪を下し浴衣を着た兄が立っていた。 いつもより若く見えるその姿に、しかし疲れが滲んでいる。 「どうした?」 けれど突然の来訪にも嫌な顔一つ見せずに、微笑んでくれる。 いつだって、一兄は俺を受け入れてくれる。 それが、嬉しくて、けれど申し訳ない。 でも、俺は情けなく、やっぱり甘えてしまう。 「眠れないから、一緒にいてもいい?」 一昨日は天に一緒に眠ってもらった。 嫌な夢も見ずに、深い眠りにつくことが出来た。 昨日は、連日訪れるのはさすがに申し訳なくて、一人で寝た。 焦りながらただ時計の針が進むのを見て、うとうととした途端嫌な夢を見て飛び起きる。 眠れないことと、嫌な夢と嫌な考え、その全てが酷く疲労する。 もう、嫌なことを、考えたくない。 ぐっすりと眠りたい。 「おいで」 一兄は躊躇うことなく微笑んで、俺に手を差し伸べる。 ほっとして部屋に入り込み、その手に手を重ねると引き寄せられ、顔を持ち上げられる。 「クマがある。眠れてないのか?」 「一昨日は、天と話してて、眠れたんだけど、やっぱり昨日は眠れなくて」 「そうか」 「うん、でも、明後日は、儀式だから………」 一兄はそれで理解したらしい。 一つ頷いて、頭を撫でてくれる。 「明日は、儀式のための潔斎か」 「うん。だから、少しは体休めなきゃ、いけないし」 「そうだな。今日はここで眠っていくといい」 期待通りに、一兄は許可をくれる。 ああ、俺は本当に甘えている。 どこまでも情けない。 「ありがとう」 一兄は明かりを消すと、俺を抱き寄せ、布団の上に座り込んだ。 長い腕の中に納まると、不安がゆるりとほどけていく。 「ちゃんと食べてるか。痩せただろう。骨があたる」 「食べてるよ」 食欲はないが、母さんが心配するからちゃんとメシは食っている。 でも、やっぱり小食にはなっているかもしれない。 明日の昼からの潔斎で、倒れないといいけど。 「熱は下がったんだから、潔斎が終わったらもっと食え」 「うん。分かった」 もう熱は下がって、体は元気だ。 ただ、心がついていかないだけで。 そういえば、熱を出している人は、もう一人いた。 「そういえば、双兄は、大丈夫かな。俺、会ってないけど」 「ああ、熱は下がって大学にも行ってるようだ。そのまままた飲み歩いてるみたいだけどな」 「そっか」 双兄は、いつも通りの生活に戻ったのか。 話したいことがある。 聞きたいことがある。 でも、聞くのは怖い。 でも、聞かなければ。 逃げてはいけない。 儀式が終わったら、連絡を取ろう。 「一兄も、疲れてるよな、ごめんな」 「気にするな。お前の方が疲れてるだろう。色々なことがあった」 「………」 背中を撫でられていると、眠気が徐々に襲ってくる。 一兄とこうしているだけで、安心する。 いつもこうやって、甘えて負担をかけてしまう。 「本当に、俺って駄目だよな。一兄と、天に頼ってばっかり」 「お前は頑張ってる」 一兄が俺の顔を挟み込み、持ち上げる。 見上げた長兄の顔は、柔らかく、とても優しかった。 「お前は、いい子だ。頑張ってる。だから少しくらい甘えても大丈夫だ。俺はお前を駄目なやつだと思ったりはしない」 きゅうっと胸が痛くなる。 一兄がいい子って言ってくれるのが嬉しかった。 昔から、そう言われるだけで天にも昇る気持ちになった。 こんな俺でも、一兄はいい子だって言ってくれた。 でも、照れくさくて、つい憎まれ口をたたいてしまう。 「………いい子って、子供じゃないんだから」 「悪い。ついな」 「俺、いい子なんかじゃ、ない」 心も体も弱くて、情けなくて、卑怯だ。 今だって、逃げ出したくて逃げ出したくて仕方ない。 全て忘れて放り出して、なかったことにしたい。 「お前はいい子だ、三薙。あんまり考えすぎるな。夜は、ゆっくり休め」 「………うん」 一兄は強く俺を抱きしめてくれる。 肩に顔を寄せると、お香の匂いがする。 この香りに包まれると、いつだって安心することができた。 「こうしてると、安心する」 「そうか」 「うん。一兄といると、安心する」 厳しくて優しくて、頼もしい兄。 いつだって、俺には優しかった。 怒られはするけれど、それはすべて俺を思ってくれてのことだった。 一兄は、いつだって、誰よりも、俺に優しかった。 「ねえ、一兄は、俺が、奥宮の候補だから、優しくしてくれたの?」 「………」 でも、その優しさは同情からだったのだろうか。 一兄は、優しかった。 双兄や天に向けるものよりも、俺への扱いは優しかった。 「双兄や、天より、俺には甘いよね。それって、俺が可哀そうだから?」 見上げると、一兄は苦いものを口に含んだように眉を顰めた。 ああ、こんな顔をさせたいわけじゃないのに。 これも、甘えか。 こんな風に、苦しめたいわけじゃなかった。 「可哀そうというのは、あるかもな」 一兄は、けれど苦笑して、俺の頭を撫でた。 可哀そう。 それは、あまり嬉しくない言葉だ。 胸が、痛くなる。 「お前は昔からその体質のせいでもどかしい思いをすることが多かっただろう。それが不憫だった」 「………」 「お前に色々なものを見せて、楽しいことをさせて、笑っていてほしかった」 弱くてすぐに倒れて家から出られない俺を、一兄は色々なところに連れて行ってくれた。 一緒に遊んでくれた。 双兄や天と遊ぶのも大好きだったけれど、一兄と一緒にいれるのは何よりも嬉しかった。 忙しくてあまり傍にいれない兄が、俺を見てくれるのが、とても嬉しかった。 「お前が、不憫で、そしてそれでも健気に頑張るお前が、愛しかった」 一兄はいつでも一緒にいてくれた。 いつでも俺を導いてくれた。 いつだって俺を大事にしてくれた。 「確かに双馬や四天よりも不器用なお前に、つい甘くなってしまうな」 くすくすと笑いながら、一兄が俺の右頬を包み込む。 額にそっと、温かい唇が触れる。 「小さく不器用な、けれど努力する弟を、愛しいと思わない訳がないだろう」 「一兄………」 胸が締め付けられて痛くなる。 一兄の思いを疑うなんて、なんて俺は馬鹿なんだろう。 こんなに優しくて、俺を大事にしてくれる人を、なんで信じなかったんだろう。 いや、信じないとかではない。 可哀そうだっていいじゃないか。 理由がなんだって、一兄が、俺にくれた思いは、すべて本物だ。 「ほら、泣くな」 一兄が苦笑して、俺の目じりを指で拭う。 涙がぼろぼろと溢れてくる。 嬉しくて悲しくて、自分が情けなくて、切なくて、苦しくて。 「お前は本当によく泣くな。小さい頃から変わらない」 「う、く」 「いい子だ三薙。お前は頑張ってるよ。俺はお前を誇らしく思う」 一兄の肩に顔を埋めると、大きな手が背中を撫でてくれる。 首に手をまわして、すがりつくように抱きつく。 「怖いよ、怖い、一兄。怖い。奥宮になるのは、怖い」 「ああ」 「でも、俺、ようやく、役に立てるのかなあ………」 この人のためになることが出来るのだろうか。 一兄から、双兄から、天から、父さんから、母さんから、皆から。 貰ってきたものを、返すことがようやく出来るのだろうか。 「いい子だな、三薙。無理はするな。いいんだ、お前のしたいように、しなさい」 一兄はゆっくりと俺の背中を撫でながら、静かにそう言った。 「………うん」 一兄は、いつだって優しい。 俺を大事にしてくれる。 だからこそ、この人の役に立ちたいと、ずっと思っていた。 「………っ」 強く抱き着くと、一兄もぎゅっと抱きしめてくれた。 少し苦しくも感じるその抱擁が心地よかった。 「一兄、夏になったら、海に行こう。皆で、行こう」 「そうだな。また車を出そう。皆を誘って」 「うん。皆で、また、楽しく、海に行きたい」 この前みたいに、皆で笑いたい。 皆で、仲良く過ごしたい。 馬鹿なこと言って、馬鹿なことして、夜通し話して、笑って、怒って。 写真をいっぱいとって、思い出を切り取りたい。 「ああ。お前の体も安定してきた。もっと遠くへ皆で行こう」 「うん」 いつまでも覚えていられるように、思い出を作りたい。 席で水を飲んでいると、三人娘が楽しそうに近寄ってきた。 俺の机の上を見て、岡野が不機嫌そうに眉を吊り上げる。 「あんた、また昼食べないの?」 「あ、うん。明日家で儀式があるから。えーと、お浄め」 「そう」 前も潔斎はしていたことがあるから、それで納得したのだろう。 けれど不満そうに口をとがらせる。 「無理して、体が壊すなよ」 「ありがとう。慣れてるから平気だよ」 岡野のぶっきらぼうな優しさに、胸が痛くなる。 嬉しい嬉しい。 でも、これ以上、俺のことなんて、気にしなくていい。 気にしてほしい。 でも、気にしないでほしい。 「だから、三薙はそんなに痩せてるんだー!わ、本当に細」 佐藤が後ろから抱き着いてきて、俺の胸を触る。 背中に柔らかい感触を感じて、甘い匂いがして、心拍数が跳ね上がる。 「わああああ!だから抱き着くなよ、佐藤!」 「ケチー」 「ケチとかじゃなくて!」 佐藤はスキンシップが多すぎる。 警戒していてもすぐに隙を見て抱き着いてくる。 嬉しくない訳ではないが、それ以上に困る。 「にやにやしてんじゃねーよ」 「してねーし!」 岡野が不機嫌そうに、言い捨てる。 にやにやはしてないはずだ。 たぶんしてない。 してないはずだ。 「あはは、仲がいいなあ」 槇は一歩離れたところで楽しそうに笑っている。 槇はこういう時いつも一歩ひいているか茶々を入れるかだ。 何気に一番、タチが悪いんじゃないだろうか。 「ま、いいや。メシ、食えるようになったら食えよ」 「うん」 岡野がやっぱり不機嫌そうにそう言い捨てる。 けれど、乱暴な言葉とは裏腹に、その耳は少し赤くなってる。 それに、自然と頬が緩んでしまう。 「ありがと、岡野」 ああ、駄目だ。 やっぱり嬉しい。 喜びが胸に溢れる。 彼女は俺を、簡単に浮かれさせる。 「ふん」 そっぽを向いて、鼻を鳴らしても、かわいいだけだ。 でも、駄目だ。 これ以上、踏み込んでは、駄目だ。 「お腹空かないの?」 佐藤が俺の水を見て、不思議そうに聞いてくる。 お腹は減るし、皆が食べてるところにいるのは辛いが、仕方ない。 「まあ、慣れてるし」 「プチ断食、私もしようかなー。健康にいいんだって。ダイエットになるし」 プチ断食。 そういうことになるのか。 佐藤らしい言い方に、つい笑ってしまう。 「佐藤、これ以上痩せる必要とかないだろ」 「あるんだな、これが!」 なぜか偉そうに胸をはる。 「私脱いだらすごいんだから!」 「な、何言ってんだよ!」 「お、何想像したのかなー」 「う、うっさい!」 別に変なことは想像してない。 すごいって何がすごいんだろう。 いや、想像していない。 「でも食べないと動けなくなっちゃうんだよね。困るなあ」 「だから痩せる必要とかないって」 「でもさー」 「無理な食生活は、体に悪い」 佐藤はすらりとした体型で、本当にダイエットとか必要ないと思える。 どうして女の子って、こんなに細いのにダイエットしようとうるんだろう。 佐藤はしぶしぶといった感じでため息をつく。 「仕方ない、もっと筋トレするか。引締めよう!」 「佐藤、スタイルいいじゃん。足長いし、細いし」 「やっだー、もう!」 「痛い!」 佐藤がばしっと俺の背中をたたいてくる。 普通に痛い。 「うわ、最低」 「宮守君何見てるの」 「ええ!?」 岡野と槇が、一歩ひいたところでこちらを見ている。 ひどい。 この反応はひどい。 でも確かに自分のセリフがかなり変態臭さったかもしれない。 気を付けよう。 女の子って、難しい。 「ま、中々に鍛えてるからね!」 佐藤本人は気にした様子もなく、まだ胸をはっている。 その誇らしげな様子は微笑ましくて、かわいい。 「そうだよな。部活とかしてないのに、綺麗に筋肉ついてるし」 「どこ見てるのさー。もう、見とれちゃう?私の美脚に見とれちゃう?」 「馬鹿言うな!」 「あはは」 この三人にかかると、本当にどうしてこうなっちゃうんだろう。 からかわれたばっかりだ。 でもそれもまた、嬉しくて、楽しいんだけど。 「千津は痩せる必要とかないでしょ。痩せる必要があるのは私」 「チエはそれくらいがいいのに」 「ありがと。私も実はそう思ってる」 少しふっくらとしている槇は、けれどにこにこと笑ってそう言った。 俺も槇は今のままでとてもかわいいと思う。 おっとりとした雰囲気と相まって、すごく可愛い。 ということを言うとまたなんか言われそうだから黙っておこう。 「あ、やば、購買行きたかったんだ」 佐藤が時計を見て、声を上げる。 もうすぐ昼休みが終わろうとしていた。 「あ、私も行く」 岡野もそれに同調する。 二人は連れ立って、慌ただしく出て行った。 「忙しいな」 「ね?」 槇はくすくすと楽しそうに友人たちが出て行ったあとを見ていた。 俺も、嵐のような一時に、つい苦笑が漏れてしまう。 「ねえ、宮守君」 「ん?」 槇が声をかけてきて顔を上げる。 隣に立っていた槇は、さっきまでとは違い、真面目な顔をしていた。 「ちょっと、気になってたんだけどさ」 「うん、どうした?」 不安そうに首を傾げて、目を伏せる。 どうしたんだろう。 「私ね、宮守君と仲よくなれて、嬉しいよ?すごく嬉しい。本当だよ」 「う、うん。俺も嬉しい」 突然言われて、顔が赤くなってしまう。 それは、俺だって一緒だ。 いつも槇はそういってくれるけど、何度言われても、照れてしまう。 「ありがとう」 俺の返事に、槇はにっこりと笑って頷いた。 ああ、本当に、なんか、ほっこりとする笑顔だ。 けれど槇はすぐにまた笑顔を消した。 「ただね、なんか、ちょっと、気になるんだ」 「何が?」 「私たち、なんで、仲良くなれたのかなって」 「なんでって」 仲良くなりたくなんて、なかったのだろうか。 今、仲良くなれて嬉しいっていってくれたのに。 俺の性格は、確かに人と仲良くなれるようなものじゃないけれど。 「あ、そんな顔しないで。仲良くなれたのは本当に嬉しいの。それはよかった」 槇がぱたぱたと手をふってフォローする。 そして、困ったようにこめかみに指をあてる。 「でもね、なんていうか」 目をつぶって、難問を解くように眉を顰める。 何が、言いたいのだろう。 「そもそも、あのお化け屋敷に、なんで行ったんだろう。私たち」 「え」 「彩も私も、肝試しとかは確かにするけど、あんな夜にあんな場所に行ったりすること、ないのに」 確かに二人は、とても良識を持った人間だ。 誰かの所有物である廃墟になんか、忍び込もうとはあまり考えなさそうな気がする。 「えっと、佐藤とか………、その平田とか、阿部に誘われた?皆仲がよかっただろ」 「そうだ、ね。うん、平田君と阿部君に誘われた。でも、別に仲良くなかったんだよね」 「え、でも、一緒にいること結構あっただろう」 岡野達はとても目立つ集団だったから、クラスのはみ出し者の俺でも覚えていた。 楽しそうに皆で話していたのを覚えている。 「別に、仲良くなかったよ。ああいうタイプは、友達としても、付き合いづらいし」 「えっと」 さらりと冷たく言い放つ槇になんて答えたらいいか分からない。 槇はそのまましばらく考え込んで黙る。 「あれ、二人だけ?岡野と佐藤は?」 そこで後ろから、聞きなれた声が響いてきた。 振り返ると、フルーツ牛乳を啜る藤吉の姿があった。 「あ、藤吉。あの二人は購買いった」 「なるほど。もうそろそろ授業も始まるな」 「あ、そうだな」 槇はそこで首をゆるりとふった。 「………ごめん、考えがまとまらないや。また今度まとまったら言うね」 「あ、うん」 槇は何が言いたいのだろう。 なぜお化け屋敷に行ったか。 俺は、惹かれるようにあそこにいってしまった。 きっと最初から魅入られていたのだろう。 じゃあ、槇達はなぜ。 槇達も魅入られていたのだろうか。 「何々?」 藤吉が不思議そうに首を傾げている。 すると槇が指を一本立てて悪戯っぽく笑った 「私と宮守君の秘密」 「なんだよそれ!卑猥!」 「ふふふ」 「ずるい!」 そんなやりとりに、また笑ってしまう。 なんで仲良くなったか。 それは分からないけれど、こうして一緒にいれることは、やっぱり嬉しいと思う。 |