一日は、ゆっくりと、じりじりと、過ぎていく。 春の日差しが、離れをぼんやりと照らしていて明るい。 ただ横たわって、空を見上げる。 空は薄曇りで霞んでいたけれど、それでも白く青く、綺麗だった。 開け放った窓から、暖かい風が吹き込んでくる。 桜は散ってしまったけれど、芽吹いてきている新緑が目に眩しい。 綺麗で、気持ちがいい。 春の日の午睡は、なんでこんなに気持ちがいいんだろう。 嫌なことなんて、全部忘れてしまいそうだ。 このまま、世界は平和に続いていく気がする。 何もなかったような気がする。 何かも。 「静か、だなあ」 目をつぶる。 世界が閉ざされる。 葉擦れの音しか聞こえない。 世界には何もないみたいだ。 俺しか、いないみたいだ。 誰も、いない。 「………」 俺しかいなければ、悲しいことなんて何もない。 辛いことなんて何もない。 俺はこのままでいられる。 何も起こることなく、何も感じることなく、何も傷つくことなく。 「でもそれは、寂しいなあ」 目を開く。 相変わらず空と桜の葉は綺麗で、静かだ。 でも、誰もいない。 誰の声も聞こえない。 「………寂しい」 誰かに、いてほしい。 傍に誰かにいてほしい。 一人は嫌だ。 一人、取り残されるのは嫌だ。 誰かがいてくれてこその、世界だ。 誰かがいなければ、無意味だ。 カラカラと音をたててドアが開く音がする。 辺りはもうすでに真っ暗だった。 見えていた薄曇りの青い空はない。 「夜、か」 すぐに襖が開いて、俺と同じ白装束身にまとい、今日も盆を片手に持った弟が入ってくる。 「こんばんは」 畳の上に横たわっていた俺は、顎をあげて入ってきた天を見上げた。 いつもと変わらず気負わない様子で微笑んでいる。 「………天」 「寝てたの?」 「………」 天が楽しげに俺を見下ろしている。 うとうと眠り、嫌な夢を見て起きて、持ってきた本にも集中できず、まんじりとして過ごした。 ただ、横たわって、時が流れるのを待っていた。 静かで、動きがなく、世界に俺一人みたいだった。 弟の顔を見て、世界が動いていたことに気づき、息を吐く。 「どうしたの?」 「………怖かった」 「は?」 天が不思議そうに首を傾げる。 これまでは強がって憎まれ口を叩くことが多かったが、最近それもできない。 前まで感じていた苛立ちや憤りなんかを感じることが少なくなっている。 「ここにいると、世界に一人きりになった気がする。怖かった。誰かに来て欲しかった」 天はきょとんとした後、小さく笑って肩を竦めた。 そして俺の隣に近寄って、しゃがみこむ。 「大丈夫だよ。残念ながら、世界に一人きりになんてなれない。どんなに望んでもね」 盆を横に置いて、俺の腕をひっぱりあげる。 されるがままに向かい合わせになって座ると、天が小首を傾げた。 「この前と違って、緊張してないね」 「………」 確かにこの前は、これからのことを考えて、緊張していっぱいいっぱいだった。 でも、今は、緊張という意味ではないかもしれない。 これからすることに抵抗感はあるけれど、慌てたり、逃げ出したいという気持ちは沸いてこない。 そんな、気力がないのかもしれない。 「まあ、これで2回目…、違った3回目か。慣れるか」 「な、慣れねーよ!」 けれど天の言葉には頭に血が上ってしまう。 こんなこと、慣れるわけがない。 兄弟で、男同士で、こんなことするなんて、おかしい。 違和感も抵抗感もまだたっぷりある。 天は俺の反応にくすくすと楽しそうに笑う。 「まあ、それどころじゃないか」 「………」 それどころじゃない。 それが一番、俺の心境に相応しいのかもしれない。 考えなければいけないことが多すぎて、飽和状態だ。 逆にもう、何も考えられない。 「お酒とお茶、どっちがいい?」 天がお盆の上に置いてあった酒の瓶とポットを両手に持つ。 一瞬迷った。 この前みたいにアルコールを摂取すれば、嫌なことを忘れられるかもしれない。 ふわふわと、いい気分になれるかもしれない。 「………」 でも、そんなことしても、何もならない。 酒は、好きじゃない。 「お茶にする」 「そう」 天は頷いてポットのお茶を、二つのカップに注ぐ。 部屋の中にふわりと漂うリンゴのような匂い。 心がわずかに温まる。 天が渡してくれたカップを、一口啜る。 昔から変わらず、このお茶を飲むと落ち着く。 「まあ、お酒って、飲みすぎると勃たなくなるらしいしね」 「ぶっ」 しかし天の言葉にお茶を吹き出してしまう。 「げほっ、な、な、な」 「大丈夫?」 器官に入って咳き込むが、天は楽しげに笑っているだけ。 「どうしてお前はそういう………っ」 「兄さんが潔癖すぎるだけでしょ。俺たちぐらいの年頃って、普通に猥談ぐらいするよ」 そうなのだろうか。 俺には友達が少ないから分からない。 確かに漫画とかを読むと猥談ぐらいしてるかもしれない。 でも、俺は今までそんなことしたことない。 「藤吉さんとしたりしないの」 「そ、そういうのは、しない」 この前そういう本を差し入れてもらったが、直接生々しい話なんてしたことない。 藤吉とそんな話すると思うと、顔が熱くなってくる。 興味がない訳じゃない。 むしろ、ありあまるほどある。 けれど、現実的に考えると、恥ずかしくていたたまれない。 「ふーん」 俯いた俺の顔をじっと見ている気配がする。 顔が上げられない。 なんかこんなことしてしまった後だし、これまでも色々変なことしてきたし、今更かもしれないけど、兄弟でこういう話をするのも恥ずかしい。 双兄はたまにからかってくるけれど、深く踏み込んでくることもない。 「岡野さんにそういう想像したりしないの?」 「なっ」 更なる爆弾発言に、完全に頭が沸き立って、真っ白になる。 岡野って、岡野って、岡野って、どういうことだ。 「ば、馬鹿、ふざけんな、馬鹿!お前、馬鹿!」 「はいはい、ごめんなさい。お茶零すから」 天が俺の手からお茶を取り上げて、呆れたように肩を竦める。 その落ち着いた様子すら憎らしい。 「好きな女の子に欲情しないのかって、普通の会話だと思うんだけどね」 「まだ言うのか!」 殴りつけると、天はその手を受け止めてくすくすと笑う。 「ごめんなさい、もう言いません」 考えないわけじゃない。 岡野の柔らかく、いい匂いのする体に触れたらって思う。 触れて、抱きしめて、口づけて、そして、俺がされるようなことをする。 考えたことはある。 それに、興奮したこともある。 でも、そんなの、岡野を汚してしまう気がする。 申し訳ない気がする。 罪悪感に押しつぶされそうになる。 そんな想像をすること自体、いけないことだ。 「俺はするけどね、栞に欲情」 「だから!!そういうのは聞きたくない!」 妹のように思ってる子と弟の、そんな話なんて聞きたくない。 生々しい話なんて、したくない。 どんな顔をすればいいのか、分からなくなる。 「でも困ったね」 「な、なんだよ」 天が這うようにして体を近づけてきて、俺の胸元から見上げてくる。 よく整った綺麗な顔には皮肉げな表情が浮かんでる。 「今じゃ、体の欲求は、兄さんに対するものが一番強いんだ」 「………っ」 言葉の意味を認識して、耳まで一気に熱くなる。 体の欲求って、何を言ってるんだ、こいつは。 「いつもそう思ってる訳じゃないよ、勿論。昔から思ってた訳じゃない」 天は俺を見上げながら、くすくすと笑い、その手を伸ばして、俺の頬をそっと触れる。 産毛を撫でられる感触に、ざわりと全身に寒気が走る。 「昔から、兄さんに触れることへの抵抗感はなかった。嫌悪感もなかった」 「あ………」 長い指が、頬を触れ、耳に触れ、髪を触れ、唇に触れる。 まだ回路がつながっていないのに、まるで供給を受けているときのような痺れがある。 「でも、最近は、もっと強い衝動がある」 「な、なに」 天が俺を見上げて、にっこりと笑う。 そして伸び上って、その唇が、俺の唇に重なった。 「面白いね」 触れるだけの唇は、天も言うとおり、嫌悪感はない。 それどころから、鼓動が早くなり、体が熱くなる。 こんなの、おかしい。 おかしいおかしいおかしい。 なのに、受け入れてしまう。 「う………」 「そんな顔しないで。大丈夫。これは儀式だ」 儀式。 そう、これは儀式なのだ。 俺に力を供給するための、儀式。 天にも一兄も、負担をかける儀式。 「………こんなこと、儀式なんて、する必要あるのか」 「あるでしょ?」 「だって、俺は………」 もう、力の供給もいらなくなるかもしれないのに。 こんなことしてもらっても、ただ二人の負担を増すばかりで、何も残らないかもしれないのに。 「意味はあるよ」 天が俺の前に座りなおすと、自然と見下ろされる形になる。 ちょっと前までは視線は同じ高さにあったのに、いつのまにかわずかに高くなっている。 成長し、力が増し、手足も伸び、大人になっていく、弟。 俺は、そして取り残される。 「だって、兄さん、これからも前みたいな供給でいいの?どちらにせよ、まともに生活したいならまだ力は必要だ。力を失う頻度は近くなってる。供給しなきゃいけない回数は増えるよ」 分かってる。 投げやりになったところで、まだ、俺は普通に生活していたい。 出来る限り皆といたい。 力は必要だ。 この儀式をしないのならば、前みたいな供給で、頻繁に天と一兄に時間を取ってもらうしかない。 「それは………」 「だったら三回で済んだ方が楽でしょ?」 「………」 それは、確かにそうだ。 意味が、ない訳じゃないんだ。 例え、それが短い間だったとしても、二人にはこれからも負担をかける。 俺はどこまでも生き汚い。 「どっちでも、いいのか?だったら、お前の負担にならないほうがいい」 投げやりになったふりをしても、二人に寄生する。 それは変わらない。 でも、ずっとこの先限りがあるなら、方法はどっちでもいい。 どうせ、長く続くことではないのなら、前の方法でもいいのだ。 「天は、こっちの方が、楽か?」 天は、にっこりと笑って、顔を近づけてくる。 またそっと、冷たい唇が重なる。 「ん………」 吐息がそっと重なって、離れていく。 天が俺の首に手を触れて、呪を唱え始める。 それは、これからのことの、開始の合図だ。 空気が濃密になっていく気がする。 心地いい韻を踏む天の声を聴いていると、緊張が増し、身が竦んでくる。 「舌を出して、兄さん」 唱え終わって、天の指の背が促す様に、俺の唇に触れる。 言われる間がままに、舌をわずかに出す。 小さく笑って、天も見せつけるように自分の舌を出す。 「あ………っ」 天の舌が、俺の舌に触れる。 粘膜が触れ合うと、じりじりと、感覚が焼けていく感じがする。 天と、俺がつながっていく。 「絡めて」 唇が重なって、中に入り込んでくる。 口の中をくすぐる舌に、俺の舌を絡めて、舐めとる。 天が小さく笑って、鼻から息を漏らす。 「ん、上手。俺の舌を吸って」 「んっ」 強く吸うと、お返しのように、俺の舌も吸われる。 ぎゅうっと体が引き絞られるように、お腹の中がよじれる。 回路がつながる。 口の中にたまった唾液を飲み込むと、じんわりと白い力が伝ってくる。 今は常に一定に保たれている力だが、こうやって受け取ると、やっぱり気持ちがいい。 「ん、ふ」 ぴちゃぴちゃと音を立てて、お互いの口の中を探り、舌を舐めあう。 体の力が抜けてきて倒れこみそうになって、天の肩にしがみつく。 「ふふ、キモチーね」 天が唇をほどき、すぐ鼻の先で楽しそうにくすくすと笑う。 「舌を擦るだけで、なんでこんなに気持ちいいんだろうね。ほら、兄さんも勃ってる。ね?」 「あっ、ん」 裾の間から手が入ってきて、足を伝い、下着を身に着けていない無防備なところに触れられる。 撫でられた性器は天の言うとおりすでに反応を示し始めている。 一瞬触れられただけなのに、びくびくと体が魚のように跳ねてしまう。 「どうせ逃れられないんだから、楽しもう」 天がくすくすと笑いながらちゅっと音をたてて、キスをする。 「嫌なことを忘れて、きっとぐっすり眠れるよ」 天の唇が顔中に触れる。 頬に、額に、耳に、顎に。 目をつぶって、その慰撫するような口づけを受け止める。 「ねえ、兄さん?」 「な、に………」 ぼんやりと熱に侵されはじめた頭に、声が響く。 天は、目元を上気させながら、俺を見ていた。 息がわずかに荒くなっていて、興奮を示している。 「俺にするお願いごと、決まった?」 「え………」 体をゆっくりと撫でられている気持ちよさに身を委ねていたので、何を聞かれたのか分からない。 何を言っているのだろう。 「な、に」 「忘れちゃった?一つだけ、兄さんのお願い事聞くって言ったでしょ?」 「………あ」 ようやく、思い出す。 天が、ひとつだけ借りを返すために俺のお願いを聞いてくれると約束をしていた。 こんな時に聞かれても、何も考え付かない。 考えが、まとまらない。 「まだ決まらない?」 「う、ん」 何も、考えてなかった。 それよりも、話すなら手の動きを止めてほしい。 考えることに集中できない。 装束を肩から落とされ、むき出しの肩に口づけられる。 「ん」 「そっか。ちゃんと考えておいてね」 「別に、願い事なんて」 今更考えても、仕方ない。 何かを願うことなんてない。 「駄目。考えておいて」 「あ」 俺の答えを咎めるように、肩を噛まれた。 じくりとした痛みは、けれど快感として受け止められる。 願い事。 何を願うことがあるのだろう。 今更願って、なんの意味があるのだろう。 天はなんでそんなムキになっているのだろう。 そういえば、願い事を考えるのは俺だけじゃなかった。 「じゃあ、お前の、願いごとは?」 「ああ」 天は顔を離して、小さく笑う。 腕をつかまれ、荷物のように引き寄せられる。 膝の上に座り込むような形で乗っかると、天の顔がわずかに下に見える。 「そうだね。それもあった」 「何か、考えてるのか?」 「いくつかね」 天が俺を見上げて、苦笑する。 「でも、俺も優柔不断だ」 「え」 「ようやく決められると思ってたのに、まだ決められないんだ」 自嘲するように、眉を顰めて、唇をゆがめる。 笑うというのには、なんだか苦しげな表情だった。 いつだって即断即決の弟にしては、珍しい言葉。 「そう、なの?何か、迷ってるのか?」 「うん」 素直に、頷く。 「ずっと、迷ってる」 目を伏せて、静かに言った。 その声は静かで落ち着いていたのに、なぜか天が頼りなく見える。 迷うなんて、こいつらしくない。 「大丈夫、か?」 「大丈夫だよ」 そうは言うものの、なんだか胸が痛くなる。 今、珍しく見下ろす位置に、いるからかもしれない。 強い弟が、弱音のようなものを吐いたからかもしれない。 「俺も、強くなりたいね」 「………」 ぎゅうっと、胸が痛くなる。 天の顔を両手で挟み込み、持ち上げる。 そして、その唇に、自分の唇で触れる。 「え」 少しだけ唇を吸って離れると、天は目を見開いて瞬きをしていた。 そして一瞬で、驚きを消して、皮肉げに笑う。 「ふふ、何それ、お誘い?」 「そうじゃ、ないけど」 弟が、頼りなく見えた。 傷ついているように見えた。 慰めたかった、のかもしれない。 そうだ、慰めたかった。 「なんか………」 天は傷ついてなんていないかもしれないし、そんなこと望んでいないかもしれない。 でも、いつでも強くふてぶてしい弟に、そんな顔をしてほしくなかった。 「ありがと」 天が笑って、お返しのようにキスをされる。 引き寄せられ、そのまま天を押し倒す様に倒れこむ。 「ん………」 装束が触れ合う音、天の息遣い、自分の息遣い。 静かだった部屋に音が、満ちている。 抱き寄せられる腕が力強くて、触れる肌が気持ちよくて、受け止める力が熱い。 一人じゃない。 ここには天がいる。 それなら、寂しく、ない。 |