胸にぽっかり空いた穴から、どろどろとしたものが溢れていく。
そのどろどろとしたものに沈んでいき、息が出来なくなってしまいそうだ。

「………っ」

涙が、溢れてくる。
苦しくて頭が痛くて、喉を、髪を掻き毟っても、痛みはひいていかない。

皆、信じてたのに。
皆、好きだったのに。
どうしてどうしてどうして。
なんで、こんなことになった。
何がいけなかった。
俺は何をすればよかった。
どうすればよかった。

「三薙様、いらっしゃいますか?」
「は、はい!」

軽くノックをされて、宮城さんの声が響く。
心臓が止まるかと思った。
バクバクと破裂しそうな胸を押さえて、飛び上がる。
落ち着け落ち着け落ち着け。
変な態度を取るな。
俺が、こんなこと考えてるって、他の人には、ばれるな。

「宮城、さん、どうしましたか?」

震えそうになる手と声をなんとか我慢して、ドアを開く。
そこには、小柄で無表情な老人の姿。
その鋭い視線に、何もかも見透かされているように感じる。
大丈夫だ。
大丈夫、平静を保っているはずだ。
落ち着け。

「先宮がお呼びです。広間までお越しください」
「………っ」

こらえろ。
声を上げるな。
表情に出すな。

「何か、用事でしょうか?」
「私には分かりかねます。直接お聞きください」

父さんが呼んでる。
それは、何を示している。
俺が何をしていたかばれた?
この一瞬で?
早すぎる。
ばれてないなら、何を言われる。
今度は、何を言われるんだ。
また、嘘をつかれるのか。
そんなの、嫌だ。

「はい。あ、すいません、用を足してからいくので、先宮にそうお伝えくださいますか。その後、すぐに参ります」
「はい。お急ぎください」

宮城さんは一礼をして去っていく。
それを見届けて、いったんドアを閉める。

「………いや、だ」

駄目だ。
今、父さんの前に出ることなんて出来ない。
もし、バレてたらどうする。
俺は、どうなる。
これまでと同じように、生活が出来るのだろうか。

「………っ」

まだ、俺の考えが、正しいかなんて、分からない。
でも、当たっていたらどうする。

どうすればいい。
どうしたらいい。
俺は何を、したらいい。

皆が俺を騙していたとして、それで、どうする。
俺に、何が、出来る。

何も、出来ない。
そんなの、嫌だ。

「嫌だ!」

昨日用意してあった、藤吉から来た年賀状と、雫さんの住所のメモと、ありったけの金を持つ。
逃げて、どうなる。
どうにもならない。
分かってる。
分かってるんだ。
俺は、逃げることなんてできない。

でも、こんな気持ちのまま、この家に閉じ込められるなんて、出来ない。
もう少しだけ、考えさせてほしい。
時間が欲しい。
少しだけでいいんだ。
この家から逃れる、時間が欲しい。



***




用意してあった靴で窓から降りて、庭を回り、外に逃げ出す。
幸い、誰にも見つかることはなかった。
逃げ出しても、何もならない。
すぐに見つかる。
俺の居場所は、一兄と天には、すぐに分かってしまう。
だから、どうしようもない。

でも、駄目だ。
あそこには、いられない。
これ以上いたら、叫びだしてしまいそうだ。

家は好きだった。
一兄も双兄も父さんも母さんも、好きだった。
天だって、複雑な気持ちを抱えながらも、大事な弟だった。
熊沢さんだって志藤さんだって、大事な人だった。
大事な、場所だった。

友達がいなくて、どこにもいけなくて、外の世界を知らない俺には、あの家だけが、落ち着ける場所だった。
あの家がすべてだった。
俺の居場所はあそこだけだった。
俺の見ていた小さな世界。

それなのに、今はあの家が怖くて、仕方がない。
深い深い闇を抱え込んだ、暗い家。
全てが嘘でできた、まやかしだらけの牢獄。

「っ」

逃げたい。
帰りたくない。
あんなところ、嫌だ。

「はっ、く」

走って走って、街の中を駆けずり回る。
肺がパンクしそうで、いったん立ち止まる。
どこに行っても、この地は宮守の地だ。
逃げることなんて、出来ない。

「………そして、俺は、どこにも、いけない」

考える時間もない。
そんな時間すら俺には与えられない。
なんで、皆、嘘をついたんだ。
いつから、俺を奥宮にしようとしていたんだ。
俺は、いつから騙されていたんだ。
知りたい。
考えたい。

頼むから、少しだけ、時間が欲しい。
少しだけで、いいから。

バッグの中にはいった葉書と携帯の地図を見比べる。
たぶん、この辺だ。
後、少しだ。
ああ、でも、連絡もせずに来たけれど、いるだろうか。
先に連絡しておいた方がいいか。

携帯を取り出し、目当ての名前を探し出す。
発信をすると、すぐに電話は繋がった。

『三薙、どしたの?』

明るく朗らかな声に、ほっとして全身の力が抜ける。
その場に座り込んでしまいそうだ。
日常の、象徴。
太陽のような、憧れの友達。

「誠司、誠司………っ」
『三薙、どうしたの?何かあった?』

すがるような俺の声を不審に思ったらしい、心配そうな声が耳元で響く。
顔が見たい。
日常を感じたい。
変わらないものに、触れたい。

「あのさ、ごめん、今から家に行っても、いい?」
『え、は?うち?』
「そう、もう、すぐ近くにいるんだけど」

葉書に書かれた住所を見ると、後少しのはずだ。
藤吉に会っても、どうにもならない。
ただ、少し相談に乗ってほしい。
遠くへ、少しだけ落ち着くための場所へ行くためにどうしたらいいのか、聞きたい。
物知りな藤吉なら、参考になるアドバイスをくれるかもしれない。

志藤さんは、巻き込めない。
家に近いあの人には、かかる迷惑がきっと大きい。
藤吉なら、家の人間もなんか出来たりはしないだろう。

『………何かあったの?』
「頼む、少しだけで、いいから」
『分かった。迎えに行くよ。今どこ?』

困惑したような藤吉だが、すぐにふっと笑う気配がした。
何も聞かずに、承諾してくれる。
そんな藤吉の気持ちが嬉しい。
優しい優しい、友達。

「もう傍にいるから、大丈夫。今、行く。ごめん、本当にごめん!」
『え、三薙?』

藤吉がいるなら、大丈夫だ。
別に家に入れてもらわなくてもいい。
電車すらロクに乗ったことのない俺は、これからどこに行けばいいのか分からない。
どこに行けば、泊まることが出来るのか分からない。
一兄と天の目から少しだけ離れることが出来れば、それでいい。
一週間、いや、三日でも一日でもいい。
あの家から離れて、少しだけ落ち着かせてほしい。
そして自分がどうしたいのか、考えたい。
もう、誤魔化されたくない。

「えっと、ここ、か」

角を曲がると、藤吉が住んでいるらしいマンションが現れた。
やや年季の入った10階建てぐらいの白いマンション。
明るい日の元で、少しだけ煤けた壁がそれでも白く輝いている。
エントランスに近づくと、そこは段差になっていて、右手に管理室、そして奥にエレベーターが見える。
エレベーターの横には非常用の階段があって、階数を示すプレートが壁に張り付いていた。

「………」

胸をよぎる違和感。
ぞわぞわと、悪寒が体を這いずりまわる。

なんだろう。
どこかで見たことがある。
どこかで見たマンションだ。
でも、マンションなんて、どこも同じような形をしている。
勘違いだ。
同じようなマンションをいつか見たのかもしれない。

「………なん、だっけ」

いや、でも、違う。
俺は、このマンションを見たことがある。
いや、この通りじゃない。

あのマンションはもっと古かった。
あのマンションは夕日に照らされてオレンジ色だった。
あのマンションには管理室やエレベーターなんてなかった。

そうだ。
あのマンションとは違う。
違う。
違う違う違う。

「………違うっ」

でも、あのマンションと、同じ気配がする。
ゆらりと揺らめく影が見える気がする。

駄目だ。
ここは駄目だ。
足が、中に入ることを拒否する。

「なん、で」

あの夢を見るようになった日に、一緒に出掛けたのは誰だった。
片山町の幽霊屋敷の話をしたのは誰だった。
岡野が阿部に連れて行かれた時、なんで片山町にいるって知っていた。

なんでなんでなんでなんで。

「う、そだ!」

そんなわけない。
でも、このマンションには、入りたくない。



***




走って走って、駅まで、やっとたどり着く。
ずっと駆けずり回っていたせいで、足がガタガタする。
汗がびっしょりで、肺が破れそうだ。

「はあ、はっ、はあ」

藤吉から携帯に何度も着信がある。
でも、今は出ることなんてできない。
怖い怖い怖い怖い怖い。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。

ごめん、ごめんごめん。
きっと、勘違いだ。
俺の勘違いだ。
今の俺はなんでも疑わしく思える。
だから、勘違いしたんだ。
後で、勘違いだったって、謝れる。
きっと、謝ることが出来る。
こんなの、勘違いだ。
でも、今は、ここにいたくない。

「雫さん………、雫さんの、家に」

雫さんの家に行ったからって、どうなるとは思えない。
雫さんに迷惑をかけるだけかもしれない。
きっと迷惑をかける。
でも、あそこは、他家だ。
そして雫さんは、家のあり方を嫌ってる人だ。
少しだけ、力を貸してくれないだろうか。
あそこに置いてくれなんて、言わない。
雫さんに迷惑かけそうになったら、すぐに他に行こう。
そこからもっと遠くに行きたい。
遠くに行きたい。
この街から出たい。
早く、逃げなきゃ。

そして、誰かと話したい。
誰かに、この気持ちを聞いてほしい。
信じられる人が欲しい。

でも、もう誰も、思いつかない。
誰に話せばいい。
誰に相談すればいい。
誰もいない。
もう嫌だ。
なんで、どうして、誰もいなくなってしまった。

「少しでいい。少しでいいんだ。落ち着かせて、くれれば、それで………」

それだけでいいのに。
ただ、頭と心を休ませてくれる場所をくれれば。
頭が痛い。
肺が痛い。
苦しい、怖い。

「雫さんの家は………」

携帯を取り出して、雫さんの家までの路線を調べようとする。
でも普段そういうことに使わないせいで、うまくいかない。
俺の駅から、雫さんの最寄駅まで行くには、どうしたらいいんだ。
そもそも雫さんの最寄駅はどうなるんだろう。

「えっと、まず、地図で、最寄駅は」

携帯をなんとか操作して、最寄駅をまず確認する。
それから、路線検索のサイトをまた引こうとする。

「あれ、三薙?」
「え!?」

名前を呼ばれて、思わず携帯を取り落す。
振り返り、一歩後ろに飛び退いて距離を取る。

「わあ!な、何!?」

俺が急な動きをしたせいか、後ろにいた人はびっくりして目を丸くしていた。
高くお団子を結った、活動的でかわいらしい女の子。

「あ、佐藤………」

その顔を見た瞬間に、緊張がとけてほっとする。
大丈夫だ。
大丈夫。
落ち着け。

「………ごめん、佐藤」
「ううん。驚かせたね、ごめん」
「いや………」

佐藤が申し訳なさそうに手を合わせる。
佐藤は悪くない。
俺が、過剰な反応をしたせいだ。
少し、落ち着け。

「どうしたの?どこか行くの?」

駅と俺に視線を送って、佐藤が首を傾げる。
そうだ。
ちょうどよかった。

「あ、そうだ。あのさ、えっと、この駅、行きたいんだけど、どう行ったらいいか分かる?」
「へ?」

俺は携帯を差し出し、さっきの地図を見せる。
佐藤は携帯を覗き込んで、むーと唸る。

「えーと、結構遠いよ?今から行ったら遅くなりそう」
「うん。でも、行かなきゃいけないんだ」

俺の言葉に目をパシパシと瞬かせる。
でも納得したのかしないのか、頷いてくれた。

「ふーん、分かった。えっとね、とりあえず、乗り換えがいるから、あ、Suica持ってる?」
「………持ってない」

そんなの持つ必要があるほど、電車になんて乗らない。
片山町だって、ギリギリ大丈夫だったが、本来なら行かない場所だった。
俺はこの街から出ることなんて、ほとんどなかった。

「そうか。じゃあ、切符はね、切符の買い方分かる?」
「………それぐらいは、分かるよ」
「あはは」

切符の買い方ぐらいは、何度か買ったことがあるから分かる。
乗り換えとかは難しいから苦手だ。

「じゃあ、とりあえず、380円で買っておいて。路線変えるから、後でまた別で買うの」
「あ、分かった。ありがとう」

佐藤の指示に礼を言って、券売機に走る。
よかった。
これでようやくこの街から逃げられる。
遠くへ。
どこでもいい。
この街ではない場所へ、行きたい。
切符を買って戻ると、佐藤がにっこりと笑った。

「じゃ、行こうか」
「え?」

すたすたと歩いて、改札機を通ってしまう。
佐藤は向こう側で手をひらひらと振る。

「早くー」
「あ、うん」

俺も切符を改札に通して、小走りで駆け寄る。

「えっと、佐藤も行くの?」
「私も用事があるから駅にいるんだよ?途中まで一緒だから行こうよ」
「あ、そっか」

そういえばそうだ。
用事もなければ駅なんて来ない。

「えーっと、あ、もう少しで来るね。よかった。はい、こっち」
「分かった」

俺には何が書いてあるのかよくわからない電光掲示板を見て、佐藤がすたすたと歩く。
この駅には路線が二つあるけれど、行く場所が途中で別れたりしていて分かりづらい。
どれに乗ればいいのか、さっぱり分からない。
片山町の時だってみんなに着いていたただけだ。
佐藤がいて、よかった。

「ありがとうな、佐藤」
「いえいえ。お役に立てて光栄です。でも三薙が電車乗るなんて珍しいね」
「たまには、乗るよ」
「ま、そりゃそうだ」

佐藤が、あははっと明るく笑う。
その明るい笑顔に緊張がほぐれていく気がする。
その明るさに憧れていた時があった。
勿論、今も、好ましいと思っている。

「いくら箱入り息子でも普通電車ぐらい乗るよね」
「箱入り息子ってなんだよ」
「箱入り三薙!」

軽口を叩きながら、電車を待つ。
そんな他愛のない会話が嬉しい。

電車ぐらい乗る、か。
俺は電車なんてほとんど乗ったことがなかった。
それがおかしいなんて、考えたこともなかった。
俺のために遠くへ行くなと言われていたが、それは本当に俺のためだったのだろうか。
それすら疑うなんて、したくないけれど。

「あ、来た来た、乗るよ」

ぼうっとして俯いていると、手が引っ張られる。
耳に障るブレーキ音を立てて、電車がホームに入ってきた。
自動的に開くドアに入り込むと、中にはぽつぽつと人が乗っていた。
空いている端の席に、二人並んで座る。
腰を下ろして、ようやく息をつくことが出来た。

「はあ」
「なんか、疲れてるね」
「急いでて、走ってたから」
「そんな急いでたの?」
「うん、急ぎの用事があるんだ。だから、助かった。本当にありがとう」
「よーし、感謝してね!」
「うん、すごく感謝してる」

座り込んだせいで、疲れがどっと襲ってきた。
手足が重い。
体中がだるい。
ずっと走っていた。
昨日は寝ていない。

疲れた。
疲れた疲れた。
もう、何も考えたくない。
このまま、ずっと電車に乗って、遠くに行きたい。
何も考えずに、眠りたい。
でも、手足に、宮守の闇が、絡みついているような気がする。
俺を飲み込もうと、足先から、覗いでいる気がする。

「………っ」

ざわりと背筋に寒気が走って、声が出そうになる。
すんでのところでこらえて、隣を見る。
佐藤は俺の様子に気づかず、携帯でメールを打っているようだった。
よかった。

「………」

どこかの駅に、停車する。
外の景色を見ると、住んでる街と似たり寄ったりの住宅街。
穏やかな、日常の光景。
世界は変わらず、続いている。
それなのに、俺の世界は、こんなにも変わってしまった。

「三薙、飴どうぞ。はい」
「あ、ありがと」

隣からにゅっと飴が乗った手が差し出される。
受け取ると、佐藤は自分も飴を一つ口に放り込む。
可愛いピンクの包み紙で、両端がねじってあるキャンディって名前が似合う飴だ。
可愛らしい、飴。

「………」

飴。
飴を、前にも、もらった。

『はい、飴、あげる』

あれは、いつのことだったっけ。
どんな、飴だったっけ。
誰から、もらったっけ。

「三薙?食べないの?」
「あ、うん」

ざわざわと、落ち着かない。
また、寒気がして、全身に鳥肌が立つ。

「………」

飴をもらった。
けど、誰にもらったか、どんな味をしたか、覚えてなかった。

「三薙って、一人で遠く行っちゃいけないんじゃなかったっけ?」
「え、あ、うん」

考え込んでいると、佐藤がこちらを見ていた。
大きな目はキラキラとして、表情豊かだ。
こういう元気な子が、昔から好きだった。

「どうしたの?」
「今日は、特別なんだ」

でも、なんだろう。
落ち着かない。

「あ、路線図、ちょっと、見てくる」

逃れるように立ち上がって、路線図の前に立つ。
いつの間にか、電車の中には誰もいなくなっていた。
窓の外も住宅街を抜けて、まばらに工場のようなものが立ち並ぶ、随分寂しい光景になっている。

「………」

ドアの上を見上げると、複雑な形の円と線の塊がある。
えっと、あの色が、この電車で、それで、その先で、乗り換えだから、あの大きな駅で降りるのかな。
そういえばちゃんと聞いてなかった。

『次は、終点です。この電車は車庫に入りますので、お気を付けください』

そこにアナウンスが流れて、次の駅名と、それが終点であることを告げる。

「………終点?」

もう一度じっと路線図を見つめる。
この路線は、途中から二股に別れていて、一つは終点に、一つは大きな駅につながっている。
終点には、他の路線は何も繋がっていない。
路線図には、書かれていないのだろうか。
別の会社の路線は、ここには、書かれないのだろうか。

「………ねえ、佐藤」

後ろを振り返ろうとした瞬間、風を切る音がした。
反射的に頭を下げて、転がるように前に倒れこみ、しゃがんだまま振り返る。

「っ」

後ろでは、佐藤が足を振り上げて笑っていた。

「避けられちゃったー、残念」

どういうことだ。
何があったんだ。

「次は、避けないでね」
「え、なに」

いつもと変わらない様子で、にこにこと笑う佐藤が、右足を俺にむかって振り下ろす。
慌ててその足を手で受け止めて力を逸らすと佐藤がバランスを崩す。

「っと、危な」
「佐藤!?」

ドアの前に追い詰められるような形になっていたので、慌てて立ち上がり、バランスを崩している佐藤の横をすり抜ける。
佐藤もすぐに体勢を立て直し、振り返る。
やっぱりその表情はいつもと変わらず、明るい笑顔だ。

「千津って、呼んでほしいなあって言ったのに。呼んでくれないんだからー」

今度は抜き手で喉を狙ってくるので、後ろに下がってそれを避ける。
何が、起こってるんだ。
なんだ。
なんで、佐藤が。
なんで。

「つっ、な、や、やめ!」

喉を、顎を、目を、足を、膝を、腹を、次々と、俺の急所を着実に狙ってくる。
何がなんだか分からなくて、かろうじてそれを避け、払い、逃げる。

「やっぱり、強いなあ」

そう言いながらも、佐藤は息を大きく乱すことはなく、手も止めない
顔を上気させた様子は、生き生きとして、より可愛らしくすら見える。

「駄目だよ、三薙。一人で遠くに行っちゃいけないって、言われてたでしょ?」
「な、にを」
「私と一緒に帰ろ?」

頭が真っ白になって、一瞬動きが止まる。
佐藤が唇を持ち上げてにっと笑って、人中を突こうとする。
ああ、その顔は、どこかで見たことがある。
どこで、だったっけ。

「っ」

反応が遅れて、避けることが出来そうになく、痛みを覚悟する。
いやだ、帰りたくなんかない。
いやだ。
けれど、そこで電車が駅につき、大きく揺れる。

「わ」

佐藤の突き出された手を取って引っ張り、肩を右手で押し出し、上体を崩したところで、足を払う。
バランスを崩して、佐藤がその場にひっくり返る。

「きゃっ!」

その佐藤の体を飛び越えて、開いたドアから外に逃げ出す。
寂れた、駅舎も小さい、人気のない駅だ。
改札に向かって、転がるように走る。

頭の中がぐちゃぐちゃだ。
なんでなんでなんでなんで。
なんで、佐藤が。
混乱しながらも、今までの記憶の欠片が、蘇ってくる。

「なん、で、なんで、なんで」

あの家に、俺を、皆を、連れて行ったのは、誰だ。
藤吉から聞いたって言っていたのは、誰だ。
阿部と、平田と仲がよかったのは、誰だ。
阿部が、好きだったのは誰だ。
何度か闇に食われても、それでもなんともなかった人間は、誰だ。

「でも、でもっ」

佐藤は、普通の女の子だったのに。
かわいい、憧れの女の子だった。
なんで、どうして。
分からない、何も分からない。

でも、今まで起こった変なことは、全部佐藤の仕業だったのか。
ああ、それなら、藤吉は、やっぱり、何も知らなかったのか。
そうなのか。
それならよかった。
それなら、いい。
藤吉は、違ったんだ。

こんな時なのに、涙が溢れてくる。
藤吉が違うなら、嬉しい。
はじめて出来た友達。
大切な、友達。

改札は誰もいなかった。
切符を出す暇もなく、飛び越えて、駅舎を飛び出そうとする。
その瞬間、ざわりと、嫌な気配がした。

「あっ」

駅舎から飛び出た足先が、水の膜の中に潜り込んだような、抵抗感と違和感。
景色が、一瞬ぶれる。
この感覚は何度か、経験している。

「結界!?」

駅舎の向こうには、結界が広がっている。
この先に行っては駄目だ。
今は体中に満ちている力をなんとか紡ぎあげ、頭の中でイメージする。
青い青い青い水、それで作った、鋭い刃。
一兄と天の強大な力に満ちているせいで、スムーズに力が作れる。
目の前の結界の結び目も、しっかり見える。
呪も簡略できる。

「宮守の血の力よ、我に害為すものを、その刃で切り払え!」

それを振り払い、目の前の結界を薙ぎ払う。
結界はほろほろと、切り裂かれたところから崩れ落ちていく。
今までのものと違い、それほど強いものじゃなかったようだ。
ほっとしたのもつかの間、霧散した結界で見えなくなっていた目の前に、誰がか立っている。

「だれ、だ!」

おそらく、今の結界を作った人間。
緊張して、構えて、攻撃に備える。

「………っ、反応いいなあ」

苦しげに呻いた声は、聞いたことがある。
それは、さっき聞いたばかりの声だ。
眼鏡の少年が、苦笑して、立っている。

「藤吉………」

なんで、ここにいるんだ。
どうして。
違うんじゃなかったのか。
藤吉は、何も知らないんじゃ、なかったのか。

「ごめんな、三薙」

藤吉は、目を伏せて、苦しげに笑った。
なんで。
どういうことだ。

「三薙、つーかまえた!」

楽しげな声と共に、後ろからぎゅっと抱き着かれる。
いつもやめろというのに、すぐに抱き着いてくるんだ。
気が付けば後ろにいて、抵抗することが出来なかった。
いつも、近づいてくることに、気が付くことが出来なかった。

「さ、とう………」

好きだったんだ。
大好きだったんだ。
みんなみんな、大好きだったんだ。

俺の大事な日常。
俺の大切な世界。

「一緒に帰ろう、ね」

くすくすと笑う声を聞きながら、意識が闇に引きずり込まれた。





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