目を開けると、頭がぼんやりとして、体が重かった。 ぐるぐると視界が回って、天井が遠く感じる。 喉がひどく、渇いていた。 「………あ」 声を出そうとして、喉と唇が引き攣れた。 眼球が圧迫されて痛くて、わずかに吐き気がする。 来ている浴衣が汗ばんで、張り付いている。 この感覚は、よく知っている。 力が枯渇すると、よく熱を出した。 その時と、同じだ。 でも、今は力は安定している。 ということは、たぶん、風邪だ。 「………喉、渇いた」 ドアに視線を巡らせる途中で、ベッドサイドの机にペットボトルの水が置かれているが見えた。 見た瞬間に強烈な渇きが襲ってきて、唾をのみこむ。 なんとか体を起こして、手を伸ばそうとする。 「あっ………」 その瞬間、視界が歪んで、バランスを崩してベッドから転げ落ちた。 畳に強かに体を打つが、その痛みよりも頭の痛みの方が強くて、ガンガンする。 頭が痛い、喉が渇いた、苦しい。 そのまま、動くことが出来ずにうずくまる。 寒い、熱い、ゾクゾクする、苦しい。 まるで、力を失った時のようだ。 最近はこの苦しさから、解放されていたのに。 なんで、風邪、ひいてるんだっけ。 コンコン。 ドアが軽くノックされる。 返事をしようと思ったが、声がかすれて、出なかった。 「三薙、起きてるか?」 一兄の、声だ。 いつも聞くと、それだけで安心する声なのに、かすかな不安が浮かぶ。 なんでだったっけ。 なんで。 「………ぁ」 「三薙、入るぞ」 ノブが回って、ガチャリと音を立ててドアが開く。 現れたスーツ姿の長身の兄は、ベッドの下でうずくまっている俺を見て目を見開く。 「三薙」 すぐに早足で俺の元まで来てくれる。 下から見上げる一兄はより背が高く見える。 長く頼もしい手が、俺を抱き上げる。 「どうした。………熱があるな」 一兄が抱き上げた俺の額に、自分の額をくっつける。 自分が熱いせいかひんやりとして、気持ちがいい。 体中が熱いのに、寒気で背筋がゾクゾクとする。 「今日は休んだ方がいいな。吐き気は?」 「な、い」 少し気持ち悪いが、今すぐ吐くほどでもない。 首を横に振ると、一兄はそのままベッドにそっと下してくれる。 「食欲は?」 「ない」 「昨日の夜も何も食べてないが、仕方ないな」 俺を布団に押し込んで、一兄は思案するように首を傾げる。 昨日の夜、なんで俺は飯食ってないんだっけ。 なんで、熱を出してるんだっけ。 「喉は乾いてるか?」 「うん」 頷くと一兄は背中を支えて起こしてくれる。 そしてベッドサイドのペットボトルを口にそっと添えてくれた。 水は特に冷やしてもなかったが、冷たく感じた。 「んっ、く」 途中水がうまく飲み込めなくて、溢れて顎を伝う。 それでもペットボトルの水を半分ぐらい飲み干して、ようやく渇きが収まる。 「はっ」 ペットボトルから口を放すと、一兄がゆっくりとベッドに下してくれた。 そして口の周りを長い指で拭ってくれる。 最後にそっと指の背中で唇に触れられると、熱の悪寒とよく似た感触にぞくりとする。 「大丈夫か?」 「うん、大丈夫」 「そうか。とりあえず、薬と、何か持ってくる」 水を補給されたせいか、気分がだいぶよくなった。 頭の痛みと体の熱は消えないが、喉の痛みと視界のぼやけは軽くなる。 「一兄、仕事は?」 「大丈夫だ」 絶対、大丈夫じゃないだろうに、軽く笑って、汗に濡れた俺の髪をくしゃりと撫でてくれる。 いつも温かい手が冷たく感じて、気持ちがいい。 「すぐに薬を持ってくるけど、眠いなら寝ておけ」 「大丈夫」 「ああ」 最後に一つ笑って、一兄が部屋から出ていく。 一人きりになった部屋が、しんと静まり返る。 まるで誰もいなくなったように。 世界に俺が一人だけ残されたように。 ぼんやりと天井を見上げると、とてもさみしく不安になってくる。 いつだって、この家は静かだ。 人は沢山いるはずなのに、人の気配がひどく薄い。 自分の家なのに、なんだか落ち着かなくなる時がある。 夜の闇が、怖くて仕方なくなる時がある。 なんで、怖い。 自分の家なのに。 そうだ、自分の家だ。 何も怖くない。 怖くない怖くない怖くない。 怖い。 怖い怖い怖い怖い。 家の、闇が怖い。 森が、怖い。 家が怖い。 「………っ」 そこで、昨日の出来事が一気に蘇る。 双兄に手をひかれて、連れて行かれた家の奥。 囚われた、ナニか。 笑う幼い四天。 傘をさしかけながら、笑う四天。 「嘘、だ。嘘だ嘘だ嘘だ」 あれは、夢だ。 夢だ夢だ夢だ。 熱に浮かされて、きっと夢を見たんだ。 とんだ、悪夢だ。 そう、悪夢だ。 全部、全部夢なんだ。 だって、一兄だっていつも通りだった。 何も、変わらない日常だ。 いつも、通りだ。 昨日も今日も明日も、変わらず、日常は続いていく。 変わらない。 何も変わらないんだ。 カチャリと音がして、びくりと体が震える。 ドアの方に視線を向けると、一兄がそっとこちらを覗き込んでいた。 「起きてたか」 「お、起きてるよ」 起こさないように、ノックをしなかったらしい。 俺の顔を見て、優しく目を細める。 その表情に、ほっとして体から力が抜ける。 そうだ、一兄は、いつもこうやって優しい。 いつも通りだ。 何も、変わらないんだ。 「アイス、食べられるか」 一兄が手に掲げたお盆には、ガラスの小さな器が乗せられた。 食欲はなかったけれど、甘さと冷たさの感触が舌の上に蘇って唾を飲み込む。 だるい体をなんとか起こして、頷く。 「食べる」 「そうか」 一兄が可笑しそうに笑って、ベッドの俺の隣に腰かける。 そしてガラスの器に入ったバニラアイスをスプーンで掬い、俺に差し出す。 「ほら」 言われるがままにスプーンを口にすると、ひやりと冷たい甘さが口の中で溶けた。 熱に侵された体に、冷たさが気持ちいい。 舌が鈍って甘さは薄いが、それでも空腹に沁みる。 「うまいか」 「うん。もっかい頂戴」 もう一口貰おうと、口を開く。 一兄が小さく笑って、もう一回スプーンを掬い俺に差し出す。 それを口にして、自然と頬がほころぶ。 一兄がそんな俺を見ていることに気づいて、ようやく自分が恥ずかしい行動をとっていたことに気づいた。 「じ、自分で食べられるよ」 慌てて口を開き、スプーンを一兄の手から奪う。 もう二口も食べさせてもらっておいて手遅れな気がするが、こんなのいい年した男がやることじゃない。 一兄も、俺に食べさせればいいのに、何やってるんだ。 「そうか」 一兄はくすくすと笑ったが、それ以上何も言わずにアイスを俺に傍に寄せてくれた。 恥ずかしさから無言で、受け取ったアイスをただ口に運ぶ。 もう三口ほど食べたところで、ふと目の前にいる兄が気になる。 「一兄も食べる?」 一兄は驚いたように眉をあげたが、すぐに目を細める。 いつだって俺を穏やかに見ている、優しい目だ。 一兄はいつだって、俺を厳しく優しく、守り導いてきてくれた、人だ。 「そうだな、一口くれ」 「あ、でも、風邪うつるかも」 「大丈夫だ」 一兄はそう言うと口を開く。 俺からスプーンを取ろうとはしない。 「………一兄」 「ほら、早くくれ」 「もう」 まったく、何やってるんだか。 仕方なくアイスを掬い上げて、一兄の口に運ぶ。 それを咥えて、一兄が笑う。 「久々に食べるとうまいな」 「うん」 俺は久々でもないけど、アイスはおいしい。 そういえば、昔熱を出した時も、こうやってアイスを食べたっけ。 あの時も、一兄が持ってきてくれて、食べさせてくれた気がする。 食欲がないときのアイスは、とてもおいしかったのを覚えている。 忙しい一兄が、付き添ってくれて、食べさせてくれたのも、嬉しかった。 「小さい頃、こうやってアイス持ってきてくれたよな」 「お前はよく熱を出してたからな」 大きな手が、俺の頭を優しく撫でる。 変わらない変わらない変わらない。 何も、変わらない。 一兄は、何も変わらない。 変わらない、日常。 「………一兄」 「なんだ?」 でも、分かってる。 分かってるんだ。 「一兄」 まっすぐに一兄を見つめる。 一兄は俺を優しく見ていてくれている。 それに、胸が苦しくなってくる。 分かってる。 分かってるんだ。 日常をなぞっていると、余計に強くなる違和感。 変わらないことに、何よりも変化を感じる。 「どうした?」 なんで俺は熱を出してるんだ。 どうして普段家ではあまり着ない浴衣を着て寝ているんだ。 なんで、一兄は俺に付き添ってくれてるんだ。 なぜ、朝、俺の部屋に来たんだ。 最近は熱を出しても、一緒にいてくれるなんてなかった。 一兄が、ここにいることが、何よりも、証明してる。 「一兄、あれは、何?」 もう、日常は、壊れてるんだ。 |